南史卷五十一 列傳第四十一梁宗室上 長沙宣武王懿

字は元達。文帝の長子で武帝の兄にあたる(?–501年頃)。裴叔業の乱平定や崔慧景の台城包囲撃破に功を挙げたが、その声望を恐れた東昏侯の佞臣に憎まれ、弟融と共に殺害された。梁建国後、長沙郡王に追封され宣武と諡された。子孫には藻・猷・朗・淵明(明、のち梁の一時的な帝)など多くの活躍する人物が出た。

年表(14件)

経歴

  • 懿、字は元達。文帝の長子。若くして誉れが高く、斉の安南邵陵王行参軍として初出仕し、臨湘県侯を襲封、晋陵太守として善政で称えられた。永明末(493年頃)梁南秦二州刺史・都督に加えられ、この年魏軍が漢中に侵入し南鄭を包囲すると懿は機に応じて防戦し包囲を解かせ、また氐族の首領楊元秀を遣わして魏の歴城など六戍を攻略させ、魏は震え国境は平穏となった。永元二年(500年)裴叔業が豫州に拠って反乱を起こすと、懿は豫州刺史として歴陽・南譙二郡太守を兼ねてこれを討ったが、叔業は畏れて魏に降った。武帝が当時雍州にあり典籤趙景悦を遣わして懿に晋陽の兵を起こし君側の悪を除くよう説いたが、懿は応じなかった。まもなく平西将軍崔慧景が反乱し江夏王宝玄を奉じて台城を包囲、斉室は大いに乱れ、急使が懿を召すと懿は食事の箸を投げ出して立ち上がり、精鋭三千を率いて援軍に入った。武帝は虞安福を都へ遣わし懿に「賊を誅した後には賞われぬ功というものがある、明君賢主でさえその立場は難しいのに、況して乱朝ではどうして自らを守れようか。もし賊を滅ぼした後にそのまま兵を率いて宮中に入り伊尹・霍光の故事を行うなら、これぞ千載一遇の好機。もしそれを望まぬなら、上表して歴陽に帰り外敵を防ぐことを名目にすれば威は内外に及び誰も従わぬ者はいない。一朝にして兵を放ち、その厚い爵位も人の下に立つのは必ず後悔を生むだろう」と説かせた。長史徐曜甫も苦言を呈したが懿は従わなかった。崔慧景はその子覚を遣わして懿を防がせたが懿はこれを大破し、勝ちに乗じて進撃すると慧景の軍は潰走し、追撃して斬った。中書令・都督征討水陸諸軍事に任じられたが、当時東昏侯は暴虐を極め茹法珍・王咺之らが政を執り、宿臣旧将は次々に誅殺されていた。懿は功績が高く朝廷で独り重んじられ、法珍らに深く憚られたため東昏に酷刑を加えるよう説き伏せられた。徐曜甫はこれを知り密かに舟を江渚に用意して西へ逃れるよう勧めたが、懿は「昔から死は皆にある、どうして中書令の身で逃げ出すことがあろうか」と従わず、まもなく宮中に留められ薬を賜り、弟融と共に殺害された。使者に「弟は雍州にあって朝廷を深く憂えているだろう」と語ったという。中興元年(501年)司徒を贈られ、宣徳太后が臨朝すると太傅を追贈され、天監元年(502年)丞相を追崇され長沙郡王に封じられ、宣武と諡された。九旒の鸞輅・黄屋左纛を給わり、晋の安平王の故事に依って葬られた。懿の名望と功業は元々高く、武帝は生前より崇敬しており、帝は天監元年四月丙寅の即位の日にすぐに懿を追崇し、戊辰にはさらに次兄敷・四弟暢・五弟融を追贈した。五月に至って有司が改めて皇考・皇妣の尊号を上申し神主を太廟に遷す際、帝は自ら奉仕せず臨川王宏に命じて侍従させた。七月、帝は軒車に乗り兼太尉散騎常侍王份を遣わして太祖文皇帝・献皇后・徳皇后の尊号を策命したが、卑しい者を先に尊び後に尊いものを尊ぶ順序であった上、軒車の上で策命が行われたことに識者はしきりに議論を呈した。

懿の子業

  • 業、字は静曠。幼くして聡明、斉に仕え太子舎人となった。宣武(懿)の難に際し、二人の弟藻・象と共に王厳秀の家に匿われた。東昏はこれを知り厳秀を捕らえて建康獄で拷問し、爪をはがされても最後まで口を割らず、こうして三人は難を免れた。天監二年(503年)長沙王を襲封し、秘書監・侍中・都督南兗州刺史を歴任、私邸の米を運んで人夫を雇い城壁を築かせたことを武帝が褒めた。湘州に転じてさらに善政が著しく、零陵には元来二匹の猛獣が暴れていたが理由なく揃って死に、郡人唐睿が猛獣の傍らで「刺史の徳が神明に感じたためこの二匹の猛獣が自ら斃れたのだ」と語る一人の人物を見たが言い終わると姿を消したといい、人々は皆これを異とした。業は篤実な性格で任地に心を尽くした。普通四年(523年)侍中・金紫光禄大夫として薨去、元王と諡され、文集が世に伝わった。子孝儼が嗣いだ。

業の子孝儼

  • 孝儼、字は希荘。射策甲科に及第し秘書郎・太子舎人となり、華林園への行幸に随行した際に「相風烏」「華光殿」「景陽山」等の頌を献上し、その文の美しさに帝は大いに褒めた。薨去し章と諡された。子の眘が嗣いだ。業の弟は藻。

懿の子藻

  • 藻、字は靖芸。斉に仕え著作佐郎となり、天監元年(502年)西昌県侯に封じられ益州刺史に任じられた。当時鄧元起は蜀にあり、劉季連を破った功を頼んで老将として若い藻を軽んじたため、藻は怒って元起を殺した。天下がまだ創業間もなく辺境も未だ安定していない中、州人焦僧護が数万の衆を集め郫繁に拠って乱を起こすと、藻はまだ弱冠に達していなかったが自ら討伐しようと僚佐に議った。反対する者があると藻は大いに怒り階のそばで斬った。そして平肩輿に乗って賊の砦を巡視し、賊が矢を雨のように射かけても、従者が盾で防ぎつつさらに討伐を命じたため人心は大いに安定し、賊は夜に遁走した。藻は騎兵に追撃を命じ平定した。翌年、太子中庶子に召還された。鄧元起は蜀にあった時、蓄財を好み財貨を山のように積んでおり、金玉珍帛を収めた一室を「内蔵」、綺穀錦罽を収めた一室を「外府」と称していたが、藻は外府を将帥に分け与え内蔵は王府に返し私するところがなかった。朝廷に帰る際も軽装で身軽であった。侍中に累進し、藻は謙虚で名声を求めず、文をよくし特に古体を好んだが、公の宴会以外ではみだりに作らず、たとえ小文を作っても完成すればすぐに捨ててしまった。雍州・兗州二州の刺史を歴任し、赴任地では吏人に称えられ、常に人に譲り控えめであった。普通六年(525年)軍師将軍として西豊侯正徳と共に渦陽に北伐したが軍を退いたため有司に弾劾され官爵を削られたが、八年(527年)再び封爵を回復した。中大通三年(531年)中軍将軍・太子詹事、後に丹陽尹に出た際、帝はいつも藻の幼名を呼び「子弟がみな迦葉(迦葉尊者)のようであれば私に何の憂いがあろう」と嘆じた。尚書左僕射に入り侍中を加えられそうになったが固辞して許されなかった。大同五年(539年)中衛将軍・開府儀同三司・中書令・侍中に遷った。藻は恬淡な性格で一室に独居し、寝台には座り込む跡が残るほど、宗室の中でも規範とされた。爵禄が過分であることを常に憂え引退を考えていた。門庭は閑寂で賓客も少なく、簡文帝は特に藻を敬愛した。一族の禍難に遭って以来、常に布衣蒲席で暮らし新鮮な肉を食さず、公の場でなければ音楽も聴かず、武帝は常にこれを称賛した。南徐州刺史に出た際、侯景の乱が起こると藻は世子彧に兵を率いて援軍に赴かせ、城が開かれると散騎常侍を加えられたが、侯景は儀同蕭邕を派遣して代わらせ京口に拠った。藻はこれを憤り病を得て、江北へ逃れるよう勧める者もあったが、藻は「私は国の宰輔として重責を負う身、逆賊を誅することもできないなら朝廷と共に死ぬまでだ」と述べ、食を絶って薨去した。

藻の弟猷

  • 藻の弟猷は臨汝侯に封じられ、呉興郡守となった。倜儻な性格で楚王廟の神と親交があると称し、一斛もの酒を飲み尽くすほど神に酹を捧げ、その霊験にはしばしば神影に酒色が現れたという。後に益州刺史・侍中・中護軍となった。江陽の人斉茍児が十万の衆で反乱を起こし州城を攻めた際、猷は兵糧が尽きかけ人心に異心が生じていたため遥かに祈祷して救援を求めた。この日、田舎の老人が鎧を着けた騎兵が東から来るのに出会い城まで何里かと問われ「百四十里」と答えると、騎兵は矛を挙げて「後続の者に急ぐよう伝えよ、馬を早めれば日が暮れる前に賊を破れる」と言った。まもなく数百騎が風のように過ぎ、一騎が老人から水を求め名を尋ねられると「呉興の楚王が救援に来た」と答えた。臨汝侯(猷)が祈願していたまさにその時、廟での祈祷には験しがなかったが、十日余り経って侍衛の土偶がみな泥で汗をかいたように濡れているのが見つかった。この月、猷は大いに茍児を破った。猷は州にあってやや驕り贅沢に過ぎ、宴席には香橙が並び連榻をも設けなかった。武帝の晩年これを知り過失とし、都に召還されると猷は憂愧のあまり病を得て没した。霊と諡されたのは神との交わりによるものだった。

猷の子韶

  • 猷の子韶、字は徳茂。初め上甲県都郷侯に封じられ、太清初め(547年)舎人となった。城(建康)が陥落すると詔を奉じて西へ逃れ、江陵に至ると人々が続々と尋ねて城内の情勢を問うたため、韶は一人一人に語る代わりに一巻にまとめて示した。湘東王がこれを見て「かつて王韶之の『隆安紀』十巻が晋末の乱を記したように、今の蕭韶(あなた)も『太清紀』十巻を作ってはどうか」と語り、韶は改めて『太清紀』を撰した。この撰述の多くの議論は謝呉(謝吳、代作者)に代わりに書かせたもので、韶は湘東王の意を承けて書いたため実録に乏しいところが多かった。湘東王はこれを徳とし、宣武王(懿)の後嗣に超えて選び長沙王を継がせ、ついに郢州刺史に至った。韶は幼少の頃、庾信に寵愛され断袖の交わりがあり、衣食もすべて信の世話になっていた。客と会うたびに韶は信の代わりに酒を注いだが、後に郢州の任にあった信が江陵へ西上する途上江夏を通った際、韶は信への待遇が薄く青油幕の下に座り信を別榻に招いて自らは矜った様子を見せた。信はやや不満に思い、酒がまわると韶の座に上がり肴を踏みつけ韶の顔を直視して「あなたは今日ずいぶん様子が違いますね、以前は賓客が座敷いっぱいだったのに」と言い、韶は大いに恥じ入った。

韶の弟駿

  • 韶の弟駿、字は徳款。草隷に優れ文章も巧みで、後年武術も習い膂力は人並み外れ、永安侯確に似ていた。尚書殿中郎、起武将軍として南安侯に封じられた。城が陥落すると賊将任約に礼を尽くされ、鄱陽嗣王範を招いて任約に反する計画を立てたが発覚し殺害された。

猷の弟朗

  • 猷の弟朗、字は靖徹。天監五年(506年)皇族の子として恒例により封侯され、太子洗馬・桂州刺史・都督を歴任した。性格は傲慢で部下に厳しく人々は苦しんだ。記室庾丹が忠告して害されると、帝はこれを聞き嶺表に功を立てさせることで償わせた。丹の父景休は御史中丞に至り、丹は幼い頃から俊才で伏挺・何子朗と共に周捨に親しく交わっていた。かつて景休が巴東郡の任を退いた際、それなりの資産があり、丹は数百万銭の借財を負い取り立て人が門前に列をなしたが、景休は怒って弁済しなかった。まもなく朝廷の賢人が丹の借財を返済したことを知ると景休は不快になったが、後にその心境を悟って自ら全額を返済したという。丹は建康正となり、事に連座して広州に流された。

朗の弟明

  • 朗の弟明(貞陽侯淵明)、字は靖通。若くして武帝に寵愛され貞陽侯に封じられた。太清元年(547年)豫州刺史となると百姓は宮門に至って徳政を称える上表を行い、州門内に徳政碑を建てた。碑の石材が肥陵から採られた際には明は大々的に人夫を集めて自ら現場に赴き牽引させたため、識者はこれを笑い「王自ら碑を立てさせたので州人の願いではない」と評した。武帝が侯景を受け入れ北伐を大挙敢行しようとし南康王会理を総帥にしようとした際、明が上表して自らの出征を求め、あえて許された。会理がすでに宿豫に至っていたところ、詔により明が代わって都督水陸諸軍事となり彭城へ進み大攻勢を図ることとなった。勅では「侯景は鄴洛を清め讐恥を雪ごうとしている。まずは大軍で機に応じ撫定するので、諸軍は寒山で止まり堰を築いて清水を引き彭城に注ぐがよい。大水が一気に孤城を沈めれば自然に平らげられるので、決してみだりに動くな」と述べられた。明の軍は呂梁十八里に至り寒山堰を築いて彭城を水没させ、水は城壁にあと三板ほどまで迫った。魏は将慕容紹宗を遣わして救援させたが、明は謀略に乏しく号令も行き渡らず、諸将が用兵を諮っても「私が臨機応変に指図するので余計な口出しをするな」と怒るばかりで、軍勢は勝手に略奪を働き明も制止できなかった。ただ自身の一軍だけは侵掠を禁じた。紹宗が到着し堰を決壊させると、明は水を使って救援するよう命じたが誰も出撃しようとせず、魏軍が迫るにつれ人心は動揺した。胡貴孫が趙伯超に「戦わずしてどうする」と迫ったが伯超は答えられずにいたところ、貴孫は自ら陣に入って苦戦した。伯超は軍を擁して救援せず「戦えば必ず敗れる、全軍を保って早く帰るがよい」と言い、良馬を用意させ愛妾を連れて逃げた。貴孫はついに戦死し、伯超の子威方が戦おうとすると伯超はそれさえも止めて呼び戻したため、共に南へ引き返した。明は酔って身動きが取れず、全軍は大敗した。明は捕虜となったが、北の人々はその略奪をしなかった義を評して「義王」と呼んだ。魏に至ると魏帝は明と諸将帥を引見し禁固を解いて晋陽へ送った。渤海王高澄は明を厚く礼遇し「先王と梁主は十年以上和好を結び、彼が仏事を修すたびに先王と魏主のためと言っていた、これは梁主の厚意であるはずなのに、一朝にして信を失いこの騒乱を招くとは思わなかった」と述べ、梁と和を通じようと考え、明の書簡を使者に持たせ武帝に送った。東魏は明を散騎常侍に任じたが、社稷が滅びたと聞き明は昼夜哭泣した。魏が江陵を平定すると、斉の文宣帝は明を梁に送り返し、以前捕らえられていた梁将湛海珍らも解放して明に従わせ、上党王渙に軍を率いて護送させた。当時太尉王僧弁・司空陳覇先は建康にあり晋安王方智を太宰・都督中外諸軍事・承制百官として推戴していた。渙の軍が漸次進むと明は僧弁に書を送り迎えを求めたが僧弁は従わなかった。しかし渙が東関を破り裴之横を斬ると僧弁は恐れ明を受け入れた。梁の朝廷が東に遷ると斉軍は北へ引き返し、明は望んで朱雀門に至ると長らく慟哭し、道中人々も皆哭泣で応じた。帝号を称し承聖四年を天成元年と改元して大赦を行い、方智を皇太子とし王僧弁を大司馬に任じた。子章を斉に急派して謝意を伝えさせ、斉は明と僧弁の使者を厚くもてなし武帝時代さながらであった。しかし陳覇先が僧弁を襲い殺し再び晋安王を奉じ、これが敬帝となる。明は太傅に任じられ、建安王が斉に「僧弁は密かに簒逆を謀ったため誅した」と報告し、称藩して斉の永久の藩国となることを請うた。斉は行台司馬恭を派遣し梁人と歴陽で盟を結ばせた。翌年斉人が明を召還しようとしたが、覇先はなお藩を称し使者を送って明を留めた。明は背中に腫れ物を発症して死んだ。当時王琳は覇先と対抗しており、斉の文宣帝は兵を遣わして永嘉王荘を梁の祭祀の主とした。明は閔皇帝と追諡された。