南史卷四十九 列傳第三十九 劉懷珍

劉懷珍(字道玉、平原の人、漢の膠東康王劉寄の後裔)。宋から齊にかけ数々の反乱平定に功をあげ、齊高帝とは古くからの縁で厚く信任された。一族には隠遁の節操や文才で名を挙げた者が多く、宋から梁まで三代にわたり栄えた。

年表(9件)

出自と初期

  • 字道玉、平原の人。漢の膠東康王劉寄の後裔。先祖劉植が平原太守となり移住、祖父劉昶は慕容徳に従い河を渡り北海都昌に住んだ。宋武帝の斉平定後、青州中従事から員外常侍。伯父劉奉伯は宋で陳南頓二郡太守。懷珍は幼くして奉伯に従い寿陽にいた頃、豫州刺史趙伯符の狩猟見物を独り避け「この子はわが家を興す」と評された。本州辟主簿。元嘉二十八年、亡命者司馬順則の反乱を数千の兵で平定したが、功を語らず「国子尼が河間の功績を語るのを恥じたように、自分も功名を論じられない」と辞退し人々に称された。

累進と高帝との縁

  • 江夏王義恭の応対で認められ驃騎長史・兼墨曹行参軍。孝建初、大司馬参軍・直閤將軍。大明二年、軍功で楽陵河間二郡太守・広晋縣侯。竟陵王誕の反乱に際し、有力な郡人王弼の勧誘を退けこれを殺害し帝に称された。豫章王子尚の車騎参軍、母の喪明けに義恭から「久しぶりに会うが老けていないか」と問われ「まだご恩に報いていないので老いる暇もない」と答え称賛された。
  • 黄門郎・領虎賁中郎將。桂陽王休範の反乱では前将軍・石頭守備。豫州刺史・加督。建平王景素の反乱では子の靈哲を建鄴に派兵。沈攸之が荊楚にいた頃、使者許天保を通じて懐柔を試みたが懐珍はこれを斬り齊高帝に首を送った。中宿縣侯に封ぜられ平南將軍・二州督に進んだ。
  • 宋孝武帝の頃、齊高帝が舎人、懐珍が直閤で古くから縁があり、高帝が青州にいた時、人を噛む白い驄馬を懐珍に贈り、懐珍は絹百匹を返礼した(不釣り合いと問われても「蕭公の度量は大きく、私は身命を託すつもりで金額を計算などしない」と答えた)。高帝輔政に伴い都官尚書・領前将軍に召還され、四男の劉晃が豫州刺史を継いだ(高帝は「私が布衣の時から懐珍は誠意を尽くしてくれた、疑う理由はない」と保証し、軍主房霊人を派遣し晃の赴任を助けた)。相國右司馬、齊台建設に伴い旧宋の役職として宋台右衛に留任し「人は皆新主に走るが自分だけは旧主を見送る」と述べた。齊建元元年、左衛將軍・加給事中・改封霄城侯。老いて禁旅の激務を避け光祿大夫に転じ卒し、薄葬を遺言、雍州刺史を追贈され敬侯と諡された。

劉靈哲――附伝(懐珍の子)

  • 字文明、齊郡太守・前軍將軍。生母の病に祈祷したところ夢に黄衣の老人が現れ薬を授けられ、目覚めると枕元に実物があり服用させると治癒した(竹の根に似た薬草)という逸話。嫡母崔氏と兄の子景煥が泰始中、魏に捕えられた際、靈哲は布衣で音楽を絶ち、懐珍の死後、爵位継承を「兄の子が魏に生死不明のまま自分だけ継ぐわけにいかない」と固辞し、朝廷に義とされた。財産を投じて母と甥の贖還を図り果たせずにいたが、武帝が北使に依頼し魏が送還、その後懐珍の爵位を継いだ。兖州刺史に至り隆昌元年に卒した。

劉峻(孝標)――附伝(懐珍の従父弟)

  • 本名法武。父劉琁之は宋で始興内史として峻の生後まもなく没し、母許氏が峻と兄法鳳を連れ帰郷。宋泰始初、魏が青州を陥した際、八歳の峻はさらわれ奴隷となり中山に送られたが、富人劉宝に贖われ学問を授けられた。魏人が江南に縁者がいると知り代都に移し、貧しさから母と共に一時出家したが後に還俗した。学問を好み、麻炬で夜通し読書し、居眠りして髭を焦がしても読み続けたという。魏孝文帝が江南人士を選抜登用した際、峻兄弟は選ばれず、齊永明中に共に江南へ亡命し改名した(峻・字孝標)。若い頃学びが十分でなかったことを恥じ、晩年ますます努力し、珍しい書物を求め清河崔慰祖に「書淫」と評されるほど博覧の人となった。自序で「学び舎の仲間はみな出世したが、自分は愚者のように衣を脱ぐ(劣っている)」と少年期の魯鈍を語った。
  • 竟陵王子良が学士を招いた際、峻は求めて幕下に加わろうとしたが吏部尚書徐孝嗣に阻まれ、南海王侍郎に用いられたが赴任せず。齊明帝の代、蕭遥欣の豫州府刑獄として厚遇されたが遥欣が急死し久しく任用されなかった。梁天監初、西省に召され学士賀蹤と共に秘閣の校書に携わった。兄の劉孝慶(青州刺史)を訪ねた際、禁制品の私載により免官。安成王秀が峻を重んじ、荊州に転じた際、戸曹参軍として『類苑』撰修を命じたが病で未完のまま辞し、東陽紫巖山に隠棲し「山栖志」を著した。
  • 梁武帝は文学の士を多く登用したが峻は世に迎合せず、経史の議論で范雲・沈約らが機知を競う中、武帝が困窮していた峻に問うと即座に十余の事例を挙げて周囲を驚かせたが、武帝は逆に不快になりその後用いなくなった。『類苑』百二十巻を完成させると武帝は別に『華林徧略』を撰させて対抗させ、峻はついに用いられなかった。「辯命論」を著して思いを寄せ、中山の劉沼と往復書簡で論争した(沼が死去したため中断、峻はその経緯を序して記した)。
  • 「自序」では後漢の馮敬通(馮衍)に自らをなぞらえ、才知と節義、明君に逢いながら用いられなかったこと、悍妻に苦しんだことの三つの共通点と、敬通は兵権を得たが自分は生涯不遇であったこと、敬通に子があったが自分は継嗣を得られなかったこと、敬通は老いてなお剛健だが自分は病弱で早世を予期すること、敬通は死後も名賢に慕われたが自分は世に忘れられるであろうことの四つの相違点を述べた。
  • 兄の劉法鳳(改名孝慶、字仲昌)は斉末、兖州刺史として梁武帝の挙兵に応じ余干男に封ぜられ顕職を歴任した。峻は学問を篤く好み東陽に住み呉会の人士が多く師事した。普通三年、六十歳で卒し、門人は玄靖先生と諡した。

劉沼――附伝

  • 字明信、中山魏昌の人。六世祖劉輿は晉の驃騎将軍。幼くして文を能くし博学、秣陵令で終わった。

劉懷慰――附伝(懐珍の従子)

  • 字彦泰。祖父劉奉伯は宋元嘉中、冠軍長史。父劉乗人は冀州刺史で義嘉の乱に死す。懐慰は喪に服し酢醤を口にせず冬も綿入れを用いず、幼い弟妹を養い寡叔母にも恩義を尽くした。宋で尚書駕部郎。同族の善明らと共に齊高帝の腹心となった。齊国建設の際、都下に置くべきとの議に反し瓜歩に齊郡を置き懐慰を輔國將軍・齊郡太守に任じた。武帝は「齊は王業の基、経理は卿に委ねる」と手勅で玉環刀を贈った。懐慰は城郭を修め、住民を安んじ、廃田二百頃を開墾し沈湖を決して灌漑、賄賂を受けず、贈られた新米を辞退して自ら食する麦飯を示し「余りがあるので煩わせるまでもない」と述べ「廉吏論」を著した。高帝は褒賞を与え秦沛二郡督に進め、妻子に米三百石を賜った。兖州刺史柳世隆は「膠東の教化、潁川の美風もこれには及ばない」と書簡で称えた。本名は聞慰だったが武帝の舅と同名のため改名。安陸王北中郎司馬を兼ね卒した。明帝は僕射徐孝嗣に「劉懐慰が生きていれば清吏に事欠かない」と語った。子に霽・杳・歊。

劉霽――附伝

  • 字士湮。九歳で『左氏伝』を暗誦し、十四歳で父の喪に至孝、哭くたびに血を吐いた。貧しい家で弟の杳・歊と共に励学。長じて博学となり梁天監中、西昌相・尚書主客侍郎・海鹽令を歴任し治績で称された。建康令に任じられたが赴任せず、母胡氏の病に五十歳の身で七十日間帯を解かず観世音経を数万遍誦した(夢に僧が現れ「寿命は尽きているが至誠により六十日延ばそう」と告げたという)。母の死に墓に廬して哀悼を尽くし、処士阮孝緒が過度な悲しみを諫めたが、服喪を終える前に卒した。『釈俗語』八巻・文集十巻を著した。

劉杳――附伝

  • 字士深。幼少時、徴士明僧紹に「この子は千里の駒」と評された。十三歳で父の喪に哀しみ道行く人を感動させた。梁天監中、宣恵豫章王行参軍。博学で沈約・任昉らも忘れた事柄を尋ねたという逸話が多く伝わる。宗廟の犠尊(祭器)について沈約の鄭玄注解釈の誤りを、魏代に出土した犠牛形祭器や晋代の斉景公墓出土品を根拠に訂正した。何承天『纂文』の「張仲師」「長頸王」の典拠を『論衡』『扶南以南記』からそれぞれ正確に指摘した。沈約の新居の閣斎に賛二首を撰し文才を示した。任昉の宴席で酒の異体字「榐」の出典を葛洪『字苑』から示し、「千日酔う酒」の逸話を桂陽程郷の千里酒の故事から裏付け、任昉を驚嘆させた。王僧孺の家系撰修の依頼に桓譚『新論』の史書系譜の記法を典拠に助言した。周捨の「尚書の紫荷橐(袋)」の由来を『漢書』張安世伝の注から説明した。
  • 臨津令として善政を敷き、離任時に県民三百余人が留任を朝廷に願い出た。詹事徐勉の推挙で顧協ら五人と共に華林にて『徧略』を撰し、完成後は晉安王府参軍・兼廷尉正、足の病で辞し「林庭賦」を著し、王僧孺に激賞された。尚書儀曹郎に累遷し、僕射徐勉から台閣の文書議論を一任された。餘姚令として清廉、湘東王繹に称された。大通元年、歩兵校尉・兼東宮通事舍人。昭明太子から「酒を好まぬのに酒厨の職にあるのは古人に恥じない」と称され瓠食器を賜った。裴子野に代わり著作郎の職を継ぎ、昭明太子薨去後の新宮建設でも特に留任を許され、王府諮議に転じようとした際は武帝が「中書を経るべき」として中書侍郎に任じた。平西湘東王諮議参軍・兼舍人・著作を経て尚書左丞で卒した。清廉で嗜好なく、母の喪以来精進を続け、臨終に法服での埋葬・棺一つが入る土地のみを求め祭祀を設けぬよう遺命した。子がこれに従った。『要雅』五巻・『楚辞草木疏』一巻・『高士伝』二巻・『東宮新旧記』三十巻・『古今四部書目』五巻・文集十五巻を著した。

劉歊――附伝

  • 字士光。生まれた夕べに香りが室に満ちたという。幼くして聡慧、四歳で父を失い他の子と違い遊ばず、六歳で論語・毛詩を誦し疑問を問うた。十二歳で『荘子』逍遥篇を理解し、客の問いに情理を尽くして答え、神童と称された。長じて博学文才あり、妻を娶らず出仕もせず、族弟の劉訏と共に隠遁し山水と書籍を楽しんだ。母と兄に孝悌で仕え、母の意を先読みして世話し、母の病に夢で薬を授けたところ翌日快方に向かったという逸話が伝わる。山水を愛し険しい道も辿り、他者と競わず施しを好んだが受けた恩には「報いなければ人に対して恥ずべきこと」と考えた。
  • 天監十七年、「革終論」を著し、肉体は無知の質、精神は有知の性で、精神は肉体に依存せずには存立できず、肉体は精神の宿にすぎないとして、死後速やかに朽ちることを理としこの論に賛同する古の名士(子羽・伯方・楚黄・士安ら)を引き簡素な葬送を志した。実際には気絶後、魂を招かず沐浴の後に殮い、一千銭で棺・単衣・巾を購う程度に留め、他の副葬品を一切禁じ、露車で旧山に運び棺が入るだけの穴に葬り、祭祀を絶やしても構わないと遺言した。
  • 族弟劉訏の病に尽力して看病し、死に際して誄を作り、「悲友賦」を著した。老人が現れ「君は心力堅く生死を超えられるが、運命が至れば長くは留まれない」と告げ姿を消したという逸話も伝わる。自らも病に伏し、母を憂えさせぬよう笑って湯薬を勧め、兄霽・杳に「二人の兄が禄仕で母を養えるので、自分が死んでも心残りはない、無益な悲しみは控えてほしい」と語り、天監十八年、三十二歳で卒した。沙門釈宝誌がかつて歊を見て「隠居して道を学び、清浄にして仙に登るだろう」と予言し、庭に柿を植えさせた者に「自分はこの実を見ないだろう」と告げたという逸話も伝わる通り、秋に亡くなり、人々は「天命を知る者」と評し、諡は貞節処士とされた。
  • 先例として、太中大夫琅邪王敬胤が天監八年に卒した際、簡素な葬送を遺命した逸話が付記される。子の崇素が遺志を守るべきか議論となり、詔で棺と土を折衷する形の葬礼が定められた。

劉訏――附伝(懐珍の従孫)

  • 字彦度。祖父劉承宗は宋太宰参軍、父劉霊真は齊鎮西諮議・武昌太守。幼くして純孝で知られ、数歳で父母を相次いで失い、哀慕のあまり命を落としかけるほど哭泣し、弔問者を感動させた。伯父に養われ、伯母・従兄姉に孝を尽くし、自身の孤児であることを恥じ、諱に触れられると涙した。兄劉絜が縁談を進めた際、訏は逃げ隠れ、話が立ち消えると戻った。刺史張稷に主簿に召されたが、召状を樹に掛けて逃げた。
  • 陳留の阮孝緒(隠者)と一度会っただけで意気投合し、族兄の劉歊と共に高い節操で知られ、三人は都で「三隠」と称された。玄言・仏典に精通し、歊と共に鍾山の諸寺で講義を聴き、宋熙寺東澗に隠棲する志を持った。尚書郎何炯が「荀奉倩(荀粲)・衛叔宝(衛玠)の流」と評し訪ねたが会わなかった。族祖の劉峻(孝標)は書簡で訏を「半天の朱霞のように俗を超え」、歊を「雲中の白鶴のように塵を出る」と称え、二人を凶年の稲や寒年の綿に例えた。
  • 訏は穀皮の頭巾をかぶり衲衣をまとい、山沢に遊んでは帰るのを忘れるほどであった。貧しさに氈や綿もない冬でも平然としていた。生涯喜怒を顔に出さず、争うべき場でも争わずに勝ちを得、驕る者があれば退いて感服した。天監七年、劉歊の家で卒し、臨終に「気絶したらすぐ殮い、埋葬したら霊筵も設けず祭祀もせず、後嗣も求めるな」と歊に伝え、歊はその通りにした。宗人・親友が石に刻んで銘を立て、玄貞処士と諡した。

劉善明――附伝(懐珍の族弟)

  • 父劉懐人は宋で齊北海二郡太守。元嘉末、青州の飢饉で人が人を食うほどの惨状の中、善明の家に蓄えられた穀物を自ら粥にして食い、倉を開いて郷里を救ったため、その田は「続命田」と呼ばれた。若くして静処して読書し、刺史杜驥がその名声を訪ねたが会わなかった。四十歳で刺史劉道隆に中従事として召され、父懐人は「立身は知っているが立官も見たいのだろう」と述べた。宋孝武帝は策文の剛直さに感心した。
  • 泰始初、徐州刺史薛安都の反乱に青州刺史沈文秀が呼応した際、善明の家は東陽城内にあり動けず、伯父劉弥之が文秀に自ら仕えると偽り、五千の援軍を率いて出た隙に離反、下邳で反旗を翻した。善明の従伯劉懐恭が北海太守として呼応し、善明も三千の兵を集め夜に関を破って北海に走った。従兄劉乗人も渤海で朝廷に応じたが、弥之はまもなく薛安都に殺された。宋明帝は弥之に青州刺史を追贈、乗人を冀州刺史とし、善明は北海太守・尚書金部郎。乗人が病死すると善明が冀州刺史を継いだ。文秀の降伏後、海陵太守として植樹による利益を興し、直閤將軍に戻った。
  • 泰始五年、魏が青州を陥した際、母が代郡に移された。善明は喪に服すように哀悼し、明帝はこれを見て嘆いた。巴西梓潼二郡太守に転じるも母が魏にあるため西行を望まず涙して固辞し許された。元徽初、北使派遣に際し推挙により同郷の田恵紹を魏に遣わし母を贖還させた。宋後廃帝の代、群臣が政を執る中、善明だけは齊高帝に心を寄せて忠誠を尽くし、西海太守・行青冀二州刺史となった。
  • 従弟の劉僧副も郷里で名声があり、泰始初、魏の淮北侵攻に際し部曲二千を率いて海島に拠り、高帝に見出され安成王撫軍参軍となった。後廃帝の暴政の折、高帝は僧副に密偵させ、善明・東海太守垣崇祖と連絡を取らせ、善明は「静観して待つべき」と献策し高帝はこれに従った。後廃帝殺害後、善明は高帝の驃騎諮議・南東海太守・行南徐州事。
  • 沈攸之の反乱に高帝が憂慮した際、善明は「攸之は八州を統べ十年に及ぶ野心を蓄えてきたが、性は険躁で慎重さを欠き、挙兵しながら旬余り進撃を躊躇っている、兵機に疎く人心も離れ内輪もめもあり天も味方せぬ証拠、今や籠の鳥に等しい」と分析し的中させた。乱平定後、高帝は「卿の攸之への策は張良・陳平にも劣らぬ」と称え、太尉右司馬に進め、齊台建設で右衛將軍に任じたが病と称して辞退。司空褚彦回に「高尚な生き方を志すのは元来卿の意向だが、今は朝廷が期待している、隠遁の時ではあるまい」と諭され「元来仕官の望みはなかったが知己を得たので尽力してきた、天下が治まった今、望みは遂げられた、富貴を求めはしない」と答えた。

劉善明――政策提言と晩年

  • 高帝即位後、勲功に報いようと「淮南は都に近く要衝、親しい賢臣でなければ任せられない、卿とは寝食を共にする間柄だ」と述べ、淮南宣城二郡太守を代行させ新塗伯に封じた。上京して上表し十一条の政策提言を行った(遠方への慰撫、京畿の高齢者・病者への医薬支給、大赦の実効性確保、劉昶への備え、大明以来の苛政の廃止、土木事業の停止、皇子皇女の倹約、百官への直言の奨励、忠孝廉潔の士の登用、北使人選の重要性、交州への懐柔策)。また「賢聖雑語」を撰して諷諫し、宣陽門の造営に反対する上表もし、守宰の明察・学校の整備・賓館の開設などを説き、帝はこれに応え政策の一部を停止した。
  • 善明は身長七尺九寸、質素で声色を好まず、茅屋に住み節倹であったが、州郡を歴任するうちに財貨に手を染めるようになり、崔祖思に理由を問われ「管仲を知る鮑叔のように、あなたには本音を言える」と涙し「心が乱れている、廉潔を保つ余裕がない」と答えた。得た金銭はすべて母の贖還に充て、母が戻ってからは再び清廉に戻り俸禄を親友に分け与えた。崔祖思とは親交が篤く、祖思の死を聞いて慟哭し発病、建元二年に卒し、薄葬を遺命、左将軍・豫州刺史を追贈され烈伯と諡された。子劉滌が継いだが家に蓄えはなく書八千巻のみで、高帝は葛塘屯の穀五百斛を「葛屯もまた私の垣根の下、後世に善明への厚遇を伝えるため」と賜った。
  • 善明の従弟劉僧副(字士雲)は前将軍・豊陽男に封ぜられ、巴西梓潼二郡太守で卒し、功臣像に描かれた。兄の劉法護(字士伯)は学問に優れ済陰太守となった。

史論

  • 『詩経』に「威儀は謹厳であってこそ人の則となる」「その儀に狂いがなければ四方の国の模範となる」とある通り、庾杲之の風流、庾蓽の身の処し方には、まさにこの理があった。
  • 王諶の性行、孔珪の学業への志は、いずれも人望に値するものであった。
  • 劉懷珍の一族は文質ともに立派で、宋から梁に至るまで三代を経て、ある者は隠遁の節操で高く評価され、ある者は文雅で重んじられた。古人の言う「立言・立徳」とは、まさにこの一族に当てはまるものであろう。