南史卷四十九 列傳第三十九 孔珪
孔珪(字德璋、会稽山陰の人)。道教に篤い父孔霊産の家に生まれ、律学に通じ晉の律注を校正・整理した。風雅を好み、庭に草を刈らず蛙の声を「両部の鼓吹」と称した逸話で知られる。
出自と父霊産の信仰
- 字德璋、会稽山陰の人。祖父孔道隆は侍中。父孔霊産は泰始中、晉安太守で隠遁の志を持ち、禹井山に道館を建て精進潔斎、静室で四方に朝拝し、銭唐を過ぎるたびに舟中から杜子恭(道教の師)の墓を遥拝し、都に着くまで東を向いて座り背を向けなかったという篤い信仰を持った。元徽中、中散大夫として星占・術数に通じ、齊高帝輔政下で沈攸之の挙兵に際し「攸之の兵は強くとも天運から見て何もできまい」と予言し的中させ、高帝から光禄大夫に抜擢され、篭に乗せられて霊台の占候の任に就いた。高帝から白羽扇・素隠机を贈られ「君に古人の風あり、故に古人の服を贈る」と評され栄誉とされた。
刑律の校定
- 珪は少くして学識と美誉を持ち、太守王僧虔に重んじられ主簿となり、秀才に挙げられ殿中郎、高帝の驃騎記室参軍として江淹と文書を分担、尚書左丞。父の喪で退官し兄孔仲智と父の山荘に住んだ際、仲智の妾李氏の驕慢・無礼を太守王敬則に告げ処刑させた。
- 永明中、黄門郎・太子中庶子・廷尉。江南で用いられていた晉の張斐・杜預の律注二十巻を、武帝の意向で尚書刪定郎王植が整理した律を珪が校正し、張斐注七百三十一条・杜預注七百九十一条のうち重複や不備を整理して一千五百三十二条・二十巻にまとめ、外部での校正を経て公卿八座で議定した(竟陵王子良は軽い判断に傾いた)。永明九年、律文二十巻・録序一巻を上表し、律学助教の設置も提案したが実現しなかった。御史中丞に転じた。
風雅な晩年
- 建武初、平西長史・南郡太守。魏との連年の戦禍で百姓が疲弊したため和議を上表したが帝は聞き入れず、侍中に召されたが赴任せず本任に留まった。風雅で酒を七八斗飲み、外従兄弟張融や琅邪王思遠・廬江何点・何胤兄弟と親交を結び世務を好まず、庭に草を刈らず蛙の声がするのを楽しみ「陳蕃(後漢の隠者的高潔の士)を気取っているのか」と問われ「これを両部の鼓吹(音楽)としている」と答えた。王晏が鼓吹を鳴らして訪ねてきたが蛙の声を聞いて「これはやかましい」と言った際「私が聞く鼓吹には及ばない」と切り返し、王晏を恥じ入らせた。
- 永元元年、都官尚書・太子詹事・加散騎常侍。三年、東昏侯の乱暴な行いに際し輿で運ばれるほど病が重くなり卒し、金紫光禄大夫を贈られた。