河東王鉉
- 字は宣𦙍、高帝の第十九子。母張氏は高帝に寵愛され、鉉は最も幼く特に心にかけられた。高帝は崩御に際し鉉を武帝に託し、武帝も深く心を用いて柳世隆の娘を妃に迎えさせた。武帝が群臣と共に新婦を見た際涙を抑えられず、豫章王嶷も嗚咽した。明帝が高帝の諸子を誅する際、鉉は高帝に最も愛され才は弱く年も幼かったため全うすることができた。
- 鉉が三、四歳の頃、高帝がかつて昼寝の際に髪を纏っていたところ鉉が高帝の腹の上に登って縄で遊んでいたため、高帝はその縄を鉉に与えた。高帝の崩御後、鉉は宝函にその縄を納め季節ごとに開いては涙を流した。人物は凡庸であったがこの一事だけは特筆された。建武中、高武の子孫が憂懼する頃、鉉は朝見のたびに常に躬を屈め俯き、正面を向いて直視することも憚った。まもなく侍中衛將軍に遷った。鉉が成長すると、建武四年王晏を誅する際に鉉を立てる名目が使われたため鉉は免官され王のまま邸に留め置かれ外人との交通を禁じられた。永泰元年明帝が急病になると、ついに害された。捕らえられた際「死生は命である、建安王(宝寅)のように奴隷になることを乞うようなことはしない」と述べ喜んで薬を仰いで卒した。鉉の二子はまだ幼児であったがともに殺された。
史論
- 豫章文獻王(嶷)は玉のような資質を早くから示し、自らの行いは忠敬に由って安んじ、代宗(武帝)の代替わりの議論が起きても骨肉への愛情を失わなかった。永明の治世が知恵によって仁を為したのは決して虚言ではない。宋が晋から受禅した末に馬氏の一族が廃姓に至ったのに対し、斉が宋から禅を受けた際は劉氏の宗族が皆誅殺されたが、梁武帝は斉の前轍を踏まず、子恪兄弟をみな録用した。これは梁武の弘裕によるものだが、同時に文献王(嶷)の余慶でもある。昔陳思王(曹植)は「権勢のある所は疎遠でも重んじられ、勢いの去った所は近親でも軽んじられる」と上表したが、この言葉は固より根本を固める意図から出たものであった。しかし国を建てるという制度は代替わりのたびに改まり、卿士も入朝して貴藩の輔となる。皇族は同じ血筋を受けながらも、仕えるのに常の資質があるわけではなく秩位にも定数がある。礼と地位が共に隆盛であればかえって猜疑を生みやすい。武帝の顧命の情は深く、正嫡を尊び遠く謀を巡らせ安泰を求める意があったが、明帝が布衣から起こったことに乗じ顧託の実を存続させようとした結果、かえって永命を近戚(傍系)に韜(かく)し、重任を疎親(縁の薄い者)に寄せ、子弟を外に配して強大の備えとし、支庶を内に立てて覬覦(王位への野心)の謀を止めようとした。表裏相い維(つな)ぎ家国を隆んにするつもりが、権柄がかえって覆され制せられうることを慮らず、宗族が殲滅するに至った。曹植の言葉は遠く的中していたと言うべきである。