江夏王鋒
- 字は宣穎、高帝の第十二子。母張氏は容徳があり、宋の蒼梧王がこれを強引に得ようとし鋒をも害そうとしたため、高帝は恐れて鋒を旧宅に置けず張氏の家に匿った。当時年四歳。方正な性で学を好み、書を学びたかったが張家に紙札が無く、井欄に寄って書き、書き満ちると洗って再び書くことを繰り返した。また朝起きて窓の塵を払わず先にその塵の上に書字を画いた。五歳で高帝が鳳尾諾を学ばせると一度で習得し、高帝は大いに悦び玉麒麟を賜って「麒麟が鳳尾に賞を与える」と述べた。十歳で文章を作れるようになった。武帝の時代、藩邸は厳しく取り締まられ諸王は異書を読めず五経の他は孝子図のみ許されたが、鋒はひそかに人を遣わして市里街巷で図籍を買い集め、一か月余りでほぼ揃えた。琴書を好んだのは天性であった。
- かつて武帝に拝謁した際寳装の琴を賜り御前で弾じ大いに賞された。帝は鄱陽王鏘に「闍黎(鋒の幼名)の琴もまた柳令の流れを汲んでいる、事ごとに意を持っているので人を治める任を試したい」と語ると、鏘は「昔鄒忌は鼓琴によって斉威王に国政を委ねられました」と答えた。後に出て南徐州刺史となり、人と交わることをよくし、行事主文和・別駕江祏らと親しく交わった。後に文和が徴されて益州に赴く際、酒を設けて別れを告げると文和は涙を流し「私は若い頃詩を作ったことはなかったが、今日別れを惜しみ思わず文が生まれた」と述べ、王儉はこれを聞き「江夏王はまさに善く変える素絲というべきだ」と述べた。
- 書を能くし当時の藩王に推されたが、南郡王昭業も工みと称され武帝に「私の書は必ず江夏王より勝るはずです」と述べたところ、武帝は「闍黎が第一、法身が第二だ」と答えた(法身は昭業の幼名、闍黎は鋒の幼名)。隆昌元年侍中領驍騎將軍、まもなく祕書監を加えられた。
- 明帝が権藩の危懼を知る頃、江祏はかつて王晏に「江夏王は才行があり自ら能を隠すこともよくする、琴道を羊景之に授けたため景之が名を成し江夏はその中に技を隠している、これは琴だけでなく他の技もみな同様だ」と語った。鋒はこれを聞いて「江祏はまた混沌の書眉(余計な世話)をしようとし、益にはならず害になるだろう。私はただ酒と犬馬を好むだけで、生涯において傑出したものなど何もない」と嘆じ、当時これを話柄とされた。常にふさぎがちで「修柏賦」を著してその志を示し、「群を殊にして抗立し、また貞を含んで挺正する、豈に春日の自ら芳しきならんや、霜の下にあってこそ盛んなり、衝風もその枝を摧くこと能わず、積雪もその性を改むること能わず、坎壈たること当年なりとも後凋の詠むべきを度れ」と記した。当時、鼎業(帝位)が潜かに移りゆく中、鋒は独り慨然と匡復の意を持っていたが、行事典籤に阻まれ果たせなかった。
- かつて明帝との話の折に遥光の才力を委ねるべきかとの話が及び、鋒は「遥光の殿下(明帝)に対する関係は、殿下の高皇(高帝)に対する関係と同じです、宗廟を衛り社稷を安んじる寄る辺です」と答え、明帝は顔色を失った。鋒は武力があり、明帝が諸王を殺すたびに鋒は書を送って詰責し、明帝の左右も取り次がなかったため、明帝はこれを深く憚り邸で捕らえることができなかった。鋒が邸を出て車に乗る際、兵たちが車に上って防ごうとしたが鋒は手で数人を撃ち払い、彼らはみな倒れたが、最終的に迫害され殺された。江斆はその死を聞き「芳蘭は門に当たれば刈らねばならぬというが、その修柏の賦もまた同じであろうか」と涙を流して評した。