南史卷四十三 列傳第三十三齊髙帝諸子下 始興簡王鑑

始興簡王鑑

  • 字は宣徹、高帝の第十子。聡警な性で八歳で生母を喪い、その号泣は人並みを超え数日で骨立するほどだった。豫章文獻王嶷はこれを聞きその頭を撫でて嗚咽し高帝に「この子の操行は人並みでない、無事でいられるか心配だ」と語り、高帝も悲しみに堪えなかった。初め広興郡王に封ぜられ、当時祕書丞であった袁彖は早くから令誉があり高帝が鑑を重んじたため彖を友とした。後に始興に改封された。
  • 晋以来、益州刺史はみな良将が任じられてきた。宋の泰始中、益州市橋に小洲が忽然と生じ、道士邵碩がこれを見て「貴い王がこの州に臨むはずだ」と言った。刺史劉亮の齋前の石榴樹が冬に花を咲かせ、亮がこれを碩に問うと「これは狂華という、宋の諸劉滅亡の兆しだ、あと二年で君は世を終え、その九年後宋は滅び、滅んだ後に勝憙という王がこの州に来るだろう、その頃には蜀土が平らかであってほしい」と答えた。碩は始康の人で、元徽二年忽然と人に「私は命が終わる」と告げ、横になって死んだが、後に人が荊州上明で碩が片方の壊れた履を左脚に縛って速く歩いているのを見たといい、その後行方は分からなくなった。永明二年武帝はもはや諸将を益州に用いず、初めて鑑を益州刺史督益寧二州軍事に任じ鼓吹一部を加えた。「勝憙」の反語は「始興」であり、碩の言葉はこれで験されたとされる。
  • 先に劫帥韓武方が党千余人を集め水路を断って暴れ、郡県は禁じられず旅を絶っていた。鑑が上明に至ると武方はついに降ったが、長史虞悰らは口を揃えてこれを殺すよう請うた。鑑は「武方は積年暴虐を働いたが、今降った者を殺せば信義を失い、以後善を勧める術がなくなる」と述べ、上に啓してついに宥した。これにより巴西の蛮夷の凶暴な者は皆風を望んで降附した。
  • 新城に至った際、道々「陳顯達が大々的に兵馬を選んでおり出兵に応じないだろう」との噂が流れ、巴西太守陰智伯もそう信じたため新城に十余日留まり、典籤張曇晳を遣わして形勢を探らせた。まもなく顯達は使者郭安明・朱公恩を遣わし書を奉じ贈り物をしてきたため、皆が鑑に彼らを捕らえるよう勧めたが、鑑は「顯達は本朝で節を立てた人物であり、必ずそのようなことはあるまい。曇晳が戻り、もし異心があれば安明らを捕らえても遅くはない」と述べた。二日後曇晳が戻り、顯達が家族をすでに城から出し朝夕殿下(鑑)の到着を待っていると説いたため、鑑は前進した。
  • 当時年十四で学を好み文をよく作った。装飾を重んじず器物・服装は質素で、高士の風があった。記室參軍蔡仲熊と張儀楼に登り古今の先言往行や蜀土の人物を論じ合い、鑑の言辞は和やかで筋道立っており仲熊の応対も滞らず、当時盛事とされた。州城の北門が常に閉ざされていたことについて虞悰に尋ねると、悰は「蜀中には夷狄の暴徒が多く時に抄掠に来るため、代々これを閉じてきました」と答えた。鑑は「古人曰く『善く閉ざす者は関鍵無し、徳にあって門にあらず』と言う」と述べてこれを開かせた。戎夷は義を慕い、州は清謐となった。
  • 州園の地から古墳が見つかり、棺は無く石槨と銅器十余種、古い形の玉璧三枚、宝物が多く数多にあり判別できないほどで、金銀で蚕や蛇の形にしたものが数斗、朱沙で阜(丘)を、水銀で池を作ったものもあった。左右の者は皆これを取るよう勧めたが、鑑は「皇太子(文恵太子)が昔雍にいた頃、古墳を発掘し玉鏡・玉屏風・玉匣の類を都に持ち帰ったことがあったが、私はそれをよく思わない」と述べ、功曹何佇を遣わして墳を築き直させ、宝物は一切手をつけさせなかった。性は清廉で、蜀にいた数年間、営造をせず資用は一年に三万に満たなかった。王儉は常に「始興王は尊貴でありながらその行いはみな素朴な士である」と嘆じた。
  • 当時、広漢什邡の人段祖が淳于(打楽器)を鑑に献じた。古い禮器で高さ三尺六寸六分、周囲三尺四寸、円筒形で銅色は黒く漆のようで甚だ薄く、上に銅馬を繋ぎ縄で地から一尺余り離して吊るし、水を注ぎまた器に水を盛って下に置き、芒の茎を心に当てて跪き淳于を手で振ると、雷のような音が鳴り響き清らかな余韻がしばらく続いて絶えた。古の楽を節する道具であるという。
  • 五年、鑑は龍角一枚(長さ九尺三寸、紅色で文様あり)を献上した。九年散騎常侍祕書監領石頭戍事となり、上は鑑と久しく別れていたため車駕を石頭に幸して宴会し賞賜した。まもなく左衛將軍に遷ったが拝命前に病を得た。上が南康王子琳のために起こした青陽巷第が新たに成り、車駕が後宮と共に第に幸して楽飲した日、鑑が病んだため上は騎馬の使者を遣わして相次いで疾を問い楽を止めさせ、まもなく薨去した。