南史卷四十 列傳第三十 薛安都

出自と後半生

  • 河東汾陰の人。一族は強族で三千家を有した。父の広は魏の上党太守。安都は若くして勇名を馳せ、身長七尺八寸、弓馬に優れ、魏に仕え雍秦二州都統となる。
  • 元嘉二十一年(444年)帰順を求め、河陝で扇動活動を行うことを文帝に許された。孝武帝の襄陽鎮の際、北弘農太守を仮授され、二十七年(450年)柳元景に従い関陝へ進み常に先陣を務めて勝利した。
  • 孝武帝の即位に際し右軍将軍として殿庭に直入する軍功をあげ、南郷県男に封じられた。従弟の道生が犯した罪を巡り、秣陵令庾淑之を殺そうとした事件では柳元景の説得を受けて思いとどまり、無断で罪を犯そうとした罪により免官された。
  • 孝建元年(454年)左軍将軍に復し、魯爽の反乱討伐で自ら躍馬して刺殺し、時人は「関羽の顔良斬りにも劣らない」と評した。侯に進爵。
  • 王玄謨が梁山で南郡王義宣・臧質と戦った際は騎兵を率いて賊陣の右を横撃し大勝に貢献。太子右衛率に転じ、大明元年(457年)魏軍に対して東陽太守沈法系と共に出兵したが、天旱により追撃できず一時罷免。
  • 景和元年(465年)平北将軍・徐州刺史となり明帝即位後、晋安王子勛の反乱に呼応して挙兵。従子索児が朝廷にいたため報を送り、右衛将軍柳光世とともに一族を連れて北へ逃走。青州刺史沈文季・冀州刺史崔道固も同時に反した。
  • 明帝は斉高帝に張永らを率いて討伐させ、薛索児を斬った。子勛平定後、安都は帰順を申し出たが、明帝が張永・沈攸之の大軍を送って迎えようとしたため罪を免れないと恐れ、結局北魏に降った。

薛深(安都の従子)――経歴

  • 本名は道深。斉高帝の諱を避けて改名。安都が彭城を魏に降した際、親族は皆北に入ったが、深は逃れて高帝の淮陰鎮に身を寄せた。
  • 果断で力があり、宋元徽末に軍功で驍騎将軍・軍主となり竟陵侯に封じられた。沈攸之の乱では豫章王嶷に従い東府の防衛にあたり、袁粲が石頭で挙兵した際も急ぎ馳せ参じた。
  • 高帝即位後、淮陰太守を経て直閤将軍・太子左率・左衛将軍を歴任、隆昌元年(494年)司州刺史・右将軍となり卒した。