南史卷四十 列傳第三十 魯爽

出自と最期

  • 小字は女生。扶風郿の人。祖父の宗之は字彦仁、東晋に仕え南陽太守に至り、義熙元年(405年)に義兵を起こし雍州刺史となり南陽郡公に封じられた。武功が高く自ら疑心を抱き、司馬休之が討たれると共に北の姚氏(後秦)へ奔り、間もなく病死した。
  • 父の軌(一名象歯)は弓馬に優れ、竟陵太守を経て父とともに姚氏に入る。宋の武帝が長安を平定すると、休之と共に北魏へ奔り、魏は軌を荊州刺史・襄陽公として長社に鎮させた。孝武帝が襄陽に鎮した際、軌は帰順を図ったが果たせなかった。
  • 爽は若くして武芸に優れ北魏の太武帝に重んじられ、父の死後、荊州刺史・襄陽公として長社に鎮したが、粗暴で酒に酔い過失が重なり太武帝に誅殺されかけた。
  • 弟の秀(小字天念)は魏で中書郎・広陵侯となっていたが、南帰を密議していた広平の程天祚と結び、元嘉二十八年(451年)、太武帝の南征に従軍中に爽・秀・程天祚らともども宋へ帰順した。文帝は爽を司州刺史、秀を滎陽頴川二郡太守とした。
  • 翌年、魏の攻勢に伴い許洛に出兵するも王玄謨が碻磝で敗れ、爽も軍を収めて南還。元嘉三十年(453年)、元凶劉劭の弑逆に対し南譙王義宣が挙兵すると、爽は雍州刺史臧質とともに江陵に赴き、平定後は豫州刺史・加都督となって夀陽に至るが、賓客を厚遇し武具を集めるなど不穏な動きを見せた。
  • 孝建元年(454年)二月、義宣・爽が謀反を計画。爽は酒に酔って軽率に先走り、その軍に黄色い標を戴かせ「建平元年」と称して法服を密造、義宣らを丞相・車騎に擬した文書を送った。義宣は驚愕し、法服は竟陵県に留め置かれ進軍を止められた。爽は独断で厯陽から采石を渡り、質と水陸から進んだが、左軍将軍薛安都と遭遇し刺殺された。首は建業に送られ、子弟は皆処刑された。