南史卷三十六 列傳第二十六 羊玄保

出自と生涯

  • 羊玄保、太山南城の人。祖父の羊楷は晋の尚書都官郎、父の羊綏は中書侍郎であった。
  • 玄保は初め宋の武帝の鎮軍参軍となり、少帝の景平年間に累進して司徒右長史となった。府公の王弘は彼を高く評価し、左長史の庾登之、吏部尚書の王淮之に「卿ら二賢は明朗で理解が深いが、弘く懿しき人望では羊(玄保)を推すべきだ」と語った。
  • のち黄門侍郎となり、囲碁に優れ品第三であった。文帝も好んで対局し、郡を賭けて玄保が勝ち、これにより宣城太守に補された。
  • 先に劉式之が宣城太守であった際、逃亡した吏人につき、一人でも捕らえられなければ符伍の里吏を州の作部に送るが、捕らえた者には位二階の賞を与える制度を立てていた。玄保はこれを不当とし、逃亡は困窮から生じるものであり、この制度は事を苦しくするだけであり、一郡のみに施行するのは不公平と上奏し、この制度は廃止された。
  • 丹陽尹、会稽太守、太常、呉郡太守を歴任。文帝は玄保の廉素寡欲を理由に名郡をたびたび授けた。政績は際立たなかったが、離任後も常に慕われ、財利や産業を営まず家計は質素であった。文帝はかつて「仕官には才だけでなく運命も要る。良い官職の欠員があるたびに、私は必ず羊玄保を思い出す」と語った。
  • 元凶劉劭の簒立時、吏部尚書・領国子祭酒に任じられた。孝武帝の討伐軍が至ると朝士の多くが南へ逃げたが、劉劭が群僚を集め刀を横たえて怒りをぶつけたとき、皆恐れて発言できなかった中、玄保は顔色を変えず徐ろに「臣はこれ死をもって朝に奉ず」と答え、劭の怒りは解けた。
  • 孝武帝即位後、金紫光禄大夫となり、謹厳さで知られた。大明5年(461年)散騎常侍・特進を加えられた。玄保は若い頃から老年に至るまで祭祀を謹んで行い、四季の新物は先に供えなければ口にしなかった。卒し、諡は定。

羊戎――羊玄保の子

  • 羊戎は若くして才気があったが軽薄で行いが正しくなく、双声(頭韻を踏む言葉遊び)を好んだ。江夏王義恭が斎(宴)を設けた際、羊戎に牀(寝台)を敷かせたところ王が牀を狭いと言うと、羊戎自ら牀を開いて「官家は狭いのを恨むなら、さらに八分広げましょう」と答え、王は笑って「卿はただ双声が上手いだけでなく弁士だな」と言った。
  • 文帝は玄保と好んで囲碁をしたが、あるとき中使が来て「今日、上はなぜ私を召すのか」と玄保が尋ねると、羊戎は「金溝は清く澄み、銅池は揺らめき、光景がよいので、きっと熱戦の碁になるでしょう」と答えた。
  • 玄保はその軽薄さを嫌い、「この子は必ずわが家を滅ぼす」と述べた。羊戎は通直郎の位にあったが、王僧達とともに時政を誹謗したかどで死を賜った。死後、孝武帝が玄保を引見すると、玄保は「臣に日磾(漢の金日磾)の明察なく、これゆえ上に背いた」と謝し、上はその言葉を美とした。
  • 羊戎の二人の弟は、文帝がそれぞれ咸・粲と名を賜り、玄保に「卿の二子に竹林の遺風があるようにさせたい」と語った。
  • 玄保は囲碁に優れ、何尚之もこれを好んだ。呉郡の褚𦙍は7歳で高い品位に入り、成人すると当代随一となった。父の褚栄期が臧質と共謀した反逆に連座して誅殺されるはずであったが、何尚之が固く請い、その棋芸は古今に卓越しており、魏犨が才により罪を免れた例のように父の罪で子を宥した先例は多いとして、その微命だけは残し異能の術を絶やさぬよう乞うたが許されず、時人はこれを惜しんだ。

羊希――羊玄保の兄の子

  • 玄保の兄の子、羊希、字は泰聞は若くして才気あり、尚書左丞となった。
  • 揚州刺史の西陽王劉子尚が上言し、山湖の禁は旧規があるが民間の風習が緩み、封熂占山(山を囲い水を占有し家の利とする旧慣)が守られなくなり、近頃はいっそう頽廃し、富強な者が山嶺を兼併し占有する一方、貧弱な者は薪を採ることすらできず、漁労の地も同様であり、これは民を害する深い弊害であるとし、政の是正すべき事とした。
  • 有司が壬辰の詔書を検すると、占山護宅を強盗律に照らし贓一丈以上は皆棄市とあった。羊希はこの壬辰の制が厳格に過ぎ、実際には遵守しがたく、時とともに緩んで占山封水がまた盛んになり既成の産業となっていることから、一挙に取り除けば怨嗟を招くとし、改めて5条の制度を刊定した。
  • 山沢のうち先に封熂して竹木や果樹を育て林となしたもの、また陂湖・江海の魚梁・鰌鱺の漁場で常に手入れをしているものは、追奪しないこと。
  • 官品第一・第二品は山3頃を占めることを許す。第三・第四品は2頃50畝。第五・第六品は2頃。第七・第八品は1頃50畝。第九品および百姓は1頃とし、いずれも品格に応じて資簿に登記する。
  • 先にすでに占有した者はさらに占有してはならず、占有が足りない者は限度まで補って占有してよい。
  • 前条の旧業でないものは一切禁じてはならない。
  • 違反した者は、水土1尺以上の占有はすべて贓に算入し常盗律に照らし処罰する。
  • あわせて咸康2年(336年)の壬辰の旧科を廃止する。
  • 詔はこれを許可した。
  • 当時、益州刺史の劉瑀は先に右衛将軍であった頃、府司馬の何季穆と不仲であった。季穆は尚書令の建平王劉宏に信任され、しばしば宏の前で劉瑀を誹謗した。劉瑀が益州に出た際、士人の妻を強奪して妾とし、劉宏は羊希にこれを摘発させ、劉瑀は坐して免官された。劉瑀はこれを深く恨んだ。門生の謝元伯が羊希のもとに出入りしており、劉瑀は密かに免官の経緯を探らせたが、羊希は「これは我が意ではない」と答えた。劉瑀はその日のうちに劉宏の門に赴き陳謝の文を奉り「羊希から聞いた」と述べ、羊希は機密漏洩の罪で免官された。
  • 泰始3年(467年)、寧朔将軍・広州刺史となる。4年、羊希は沛郡の劉思道に晋康太守を行わせ俚族討伐を命じたが、思道は節度に違反し戦況を不利にした。羊希が思道を捕らえようとすると、思道は命に従わず所部を率いて広州を襲い、羊希は城を越えて逃げたが、思道に捕らえられ殺された。
  • 羊希の子の羊崇、字は伯遠は尚書主客郎であったとき母の喪に哀毁が礼を過ぎ、広州の乱を聞くとその日に裸足で新亭へ走り出たが、歩けなくなり江のほとりに倒れ伏し、妻が小舟で運んだ。父の埋葬が終わると哀しみに堪えず卒した。