南史卷三十五 列傳第二十五 劉湛
劉湛(字は𢎞仁、?–440年代、南陽湼陽の人)。宋の彭城王劉義康の側近として長く府事を委ねられ、経国の才を自任した重臣。文帝にも重用され太子詹事・領軍などを歴任したが、殷景仁との対立から義康の専権を煽り両者の確執を深めた末、謀反を企てたとして誅殺された。享年四十九。
才幹と専横
- 劉湛は字を𢎞仁といい、南陽湼陽の人。祖父の劉躭、父の劉柳はともに晉の左光祿大夫開府儀同三司。湛は伯父の淡の継嗣となり安衆縣五等男を襲封した。若くして局量に優れ浮華を尚ばず、経伝を博渉し前代の故事に通じ、常に管仲・諸葛亮に自らを比した。文章を好まず談議も好まなかった。宋の武帝の太尉行參軍となり厚遇され、父の喪では江州から贈られた財を一切受けなかった。
- 相國參軍として謝晦・王𢎞にその器幹を称えられた。武帝が晉命を受けた際、第四子の劉義康が冠軍將軍豫州刺史として夀陽に鎮すると湛はその長史・梁郡太守として輔佐し、義康が若く政務に疎いことから府州の事を一任され右將軍に進んだ。義康の南豫州転出に従い歴陽太守を兼ね、剛厳な統治で百銭以上の贓吏を悉く誅殺し綱紀を粛正した。
- 廬陵王劉義真の車騎將軍南豫州刺史府でも長史・太守として仕え、武帝の喪中に義真が私に酒肴を用意した際「公は今かかる饗応をなすべきでない」と正色して諫めた。広州刺史・侍中を歴任し、文帝が王華・王曇首・殷景仁と湛の四人を合殿で宴した際、王華らの退出後「この四賢は一世の秀才だが、後世これに継ぐ者は難しかろう」と嘆じたという。
- 江夏王劉義恭の江陵鎮に伴い南蠻校尉・撫軍長史として仕えたが、王𢎞が輔政し王華・王曇首が朝廷の要職にあったことに不満を抱き「二王は代邸以来の旧臣でなければここまで至れなかった、幸運に恵まれただけだ」と漏らした。汲黯・崔琰を慕い長子を黯(字長孺)、次子を琰(字季珪)と名付けたが、琰は江陵で病没し、湛は自ら喪を送る許しを求めた。義恭も文帝にこれを取り次いだが、文帝は西方の重責を理由に許さず、湛を篤く信任する意を示した。
- 義恭は狷介な性格で年長になるにつれ専政を望み、湛にたびたび掣肘されたことから両者の間に軋轢が生じた。文帝は密かに義恭を詰問したが、義恭は「湛には臣下の礼がない」と弁じ、怨言を漏らした。文帝は双方に融和を促す詔を下した。王華・王曇首の死後、殷景仁の推挙で湛は太子詹事・給事中に召され、殷景仁とともに重用されたが、湛は「今の世で宰相となるのは難しいことではない、南陽郡の漢代功曹程度に過ぎぬ」と嘯いた。翌年殷景仁が尚書僕射・領選・䕶軍將軍に転じると湛は領軍に代わり、十二年には詹事も兼ねた。
- 湛と殷景仁は元は親しかったが、殷景仁が内廷を専断するのを疎まれていると感じ、彭城王劉義康の権勢に取り入り景仁の排斥を図った。義康の属官や湛の徒党は殷景仁の門を訪ねぬよう申し合わせ、湛の党・劉敬文の父・成がこれを知らず殷景仁に郡を求めたため敬文は父を厳しく責め立てた。義康の専権が強まるにつれ湛はますます阿り、皇帝への礼を失した。文帝はひそかに不満を募らせた。
- 湛は入朝時には政道を論じ故事に通じ、聞く者を飽きさせなかった。雲龍門を出ると御者は驚くほど早く車を解き従者は散じるのが常であった。晩年、義康を煽り朝廷を軽んじる態度が目立ったが文帝は表向き待遇を変えなかった。文帝は側近に「湛が西から戻った当初は日の長短を気にして早く去るのを恐れたが、近頃は逆に去らぬのを恐れる」と語ったという(湛の幼名は斑獣といい「斑」の由来)。丹陽尹に遷り詹事を兼ねた。
- 十七年、実母の喪に服す頃には義康との仲は既に険悪で、湛自身も破滅を悟り「今年こそ事が起きよう」「もはや望みはない」と語った。禍が迫るなか室内に伏兵を潜ませ文帝の弔問を狙う謀を企てたが計画は漏れ、十日後に廷尉に下され獄中で誅された。享年四十九。子の黯らも連座して誅され、弟の素(黄門郎)は広州へ流された。湛は捕縛の際「もはや乱れたか」「わしが『我を乱すな』と言わなければ自ら乱を招くこともなかったろう」と漏らし、獄中で弟の素に「お前まで巻き込んだか。悪を勧めれば悪は避けられぬと互いに戒め合ったのに、今日はどうしたことか」と語ったという。湛は女児を生むたびに殺したため世に怪しまれた。