南史卷三十三 列傳第二十三 徐廣

徐広(?-元嘉二年卒、字は野人)。東莞姑幕の人。博学で百家数術に通じ、東晋の秘書郎から仕え、宋建国後も晋の旧臣としての節義を守り続けた史家。『晋紀』四十二巻を撰し、義熙十二年に完成させた。兄邈の子・徐豁も始興太守として直言で知られた。

年表(7件)
  • 義熙初車服の儀注を撰し鎮軍諮議参軍領記室に除せられる
  • 義熙二年尚書の奏で晋史を撰し終える
  • 義熙六年驍騎将軍に遷る
  • 義熙十二年『晋紀』四十二巻が完成し上表される
  • 永初元年中散大夫に除せられ帰郷を許される
  • 元嘉二年卒す
  • 元嘉初年甥の徐豁、始興太守として三事を上表し文帝より絹二百匹・穀一千斛を賜る

『晋紀』撰述と旧朝への節義

  • 徐広、字は野人、東莞姑幕の人。父は藻(都水使者)、兄は邈(太子前衛率)。家は代々学を好み、広はとりわけ百家数術に精通した。家貧しく産業を顧みず、妻の中山劉謐之の娘は不満をたびたび述べたが、広は数十年変わらず、遂に離縁となった。
  • 晋の孝武帝がその博学を認めて秘書郎とし、秘閣で校書に当たり職僚を増置した。隆安中、尚書令王珣の推挙で祠部郎となる。李太后が崩じた際の服喪議論で「太皇太后の名位は正しく体は皇極に同じ、母は子によって貴いという春秋の義に照らせば、成風夫人の号が昭公に三年の喪を服させた先例があり、祖は孫を厭わないという礼に基づき、祖母後継の例に準じ斉衰三年とすべき」と論じ、これが用いられた。会稽王世子元顕が録尚書となり百僚に敬意を示させようとした際、内使で立議させられたことを広は恥辱と感じ続けた。
  • 義熙初、宋の武帝の命で車服の儀注を撰し、鎮軍諮議参軍領記室を除せられ、楽成県五等侯に封じられた。員外散騎常侍領著作郎に転じ、二年、尚書の奏で晋史を撰し終えた。六年、驍騎将軍に遷り、風雹の災いに際し帝に多く進言し勧免を得た。大司農領著作郎、秘書監に遷る。桓玄篡位の際、安帝が宮を出た時に広は列に加わり悲慟の色を隠さず、武帝の受禅・恭帝の遜位の際にも涕泗を流し、謝晦に「徐公はもしや小過があるのでは(涙をこぼしすぎでは)」と問われると「私と君とでは事情が異なる、君は佐命の功臣として千載の好機に逢ったが、私は代々晋の徳を受けた身、故主を眷恋する(懐かしむ)のだ」と答えて涙した。
  • 永初元年、中散大夫に除せられたが、墳墓が晋陵丹徒にあり、京口で生まれ育ち、息子の道秀もここに宰していることを理由に帰郷を願い許された。厚遇を受け、読書を好み八十を超えても毎年五経を一遍読んだという。元嘉二年、卒した。『晋紀』四十二巻は義熙十二年に完成し上表された。他に答礼問百余条も世に行われた。当時、高平の郗紹も『晋中興書』を著しており、何法盛に見せたところ、法盛はこれを盗もうとし、紹に「あなたは名位が高く著述の名声を必要としないが、私のような寒士は袁宏・干宝のように著述によって名を残す必要がある、これを恵んではくれないか」と頼んだが紹は与えなかった。書が完成し斎内の厨に置かれていた際、法盛は紹の不在に乗じて忍び込み書を盗み、紹は写しを持たなかったため、遂に何法盛の書として行われた。

徐豁――始興太守の直言

  • 徐豁、字は万同、広の兄の子。父は邈(晋の太子前衛率)。宋の永嘉初年、尚書左丞・山陰令として法理に精練し重んじられた。元嘉初年、始興太守として三事を上表し、文帝はこれを嘉して絹二百匹・穀一千斛を賜った。広州刺史に転じたが赴任前に卒した。