南史卷三十三 列傳第二十三 范泰
范泰(?-元嘉五年卒、字は伯倫、諡は宣侯)。順陽の人。東晋末より宋の武帝・文帝に仕えた重臣で、酒を好み率直な性格で武帝に愛されたが政治の要職には就かなかった。文帝の即位後は先朝の旧臣として厚遇され、上表・諫言を通じて朝政に関わった。子の范曄は『後漢書』の撰者。
出自と生い立ち
- 范泰、字は伯倫、順陽の人。祖父の汪は晋の安北将軍徐兖二州刺史、父の寧は豫章太守で、いずれも前代に令名があった。泰は太学博士として出仕、外弟(従弟)の荊州刺史王忱に天門太守として招かれた。忱は酒に溺れ酔うと数旬を要したが、醒めると威儀を正した。泰が酒害を切に諫めると、忱は「これほど諫めてくれる者は初めてだ」と嘆じた。ある人が忱に「范泰は謝邈と比べてどうか」と問うと「茂度(謝邈)は漫(散漫)」、「殷覬と比べては」には「伯道(殷覬)は易(安易)」と答えた。忱が中原奪還の志を語り、泰を先鋒に立て後方を任せたいと言うと、泰は「百年の賊は前賢も屈するもの、功名は貴くとも私の望むところではない」と答えた。
- 忱の病没後、泰は驃騎諮議参軍に召され中書郎に転じた。会稽世子元顕が権を専らにし内外の百官が上奏を経ず元顕にのみ籤(伝達)するようになった時、泰は不当と論じたが容れられず、父の喪で辞職。爵を襲ぎ遂郷侯となる。桓玄が晋を輔ける際、御史中丞祖台之が泰と前司徒左長史王淮之・輔国将軍司馬珣之を、居喪中に無礼があったとして弾劾し、泰は連座して丹徒に流された。
- 宋の武帝の義旗(挙兵)に応じ、黄門侍郎・御史中丞に累遷したが、殷祠の議論で誤りを犯し白衣(無位無官)のまま職に留められ、東陽太守に出た。侍中・度支尚書を歴任。僕射の陳郡謝混が後進の名士を評した際、武帝が泰の評判を尋ねると「王元(王恢之)と同格の人物だ」と答えた。太常に転じる。
- 司徒道規に子がなく文帝(劉義隆)を養っていたが、道規の薨去後、兄道憐の第二子・義慶を嗣子とした。武帝は道規が生前文帝を寵愛していたことと、道規の追封(南郡公)に伴い、以前の華容県公の爵位を文帝に与えようとしたが、泰は「礼に二主なし」と議し、文帝は本来の属籍に戻された。散騎常侍を加えられ、尚書兼司空として右僕射袁湛とともに宋公九錫の授与に当たった。武帝の軍に従い洛陽に至り、彭城への帰途、武帝と共に城に登った際、泰は足の病があったため特に輿に乗ることを許された。
- 泰は酒を好み小節に拘らず、率直で物事にこだわらず、公の座でも私室と変わらぬ談笑をしたため武帝に愛されたが、政治には短所があり要職には就かなかった。武帝受命後、国学建設の議で国子祭酒を領したが、学校は結局建たなかった。泰は上表して奨進の道(教育振興)を説いた。
- 財政難のため新たに五銖銭を鋳造する議が出た際、泰は「国の弊を救うには根本(農本)に努めるべき、百姓が不足すれば国も不足する。根本が不足して末(商業・貨幣)が余ることはない。かめが漏れていても中身が残っていれば有識者は惜しまず、裘(毛皮)を裏返しにして薪を背負う(本末を誤る例え)ようなことをすれば毛を損なう、王者は有無を語らず、諸侯は多少を説かないもの、食禄の家は百姓と利を争わない、故に葵を抜く話も蒲を織る話もそれぞれ意味があり、貴賤に秩序があり職分に乱れがないのが理想。今の憂いは農民が少なく倉廩が満たないことにある。転運はやまず、資食する者が多く、家に私蓄がないため飢饉に備えられない。貨は貿易のためにあり多寡を問わない、昔の貴きも今の賤しきも同じものだ。官民の流通さえ均衡すれば不足は憂うるに及ばない。もし必ず貨幣を増やして国用を賄おうとするなら亀貝の類も古来行われた方法だ。銅の器としての用途は広く、鐘律や機衡(天文儀器)、鼎や鐸など瑞祥にも関わる重要な材である。これを毀して無用の銭に変えれば、貨としては功に労が見合わず、用としては君臣ともに困窮する。実質で計れば損の方が多い。長久の道を思い、速効を求める情を抑え、山海の富を弘め、芻牧(民の声)の議を選ぶべきだ」と諫めた。
- 景平初年、特進を加えられ、翌年致仕して国子祭酒を解いた。少帝が在位中多くの過失を犯した際、泰は上封事(密奏)で極諫したが、少帝は容れずとも咎めなかった。徐羨之・傅亮らと泰は素より不仲であり、廬陵王義真・少帝が相次いで殺害されると、泰は親しい者に「私は古今を見てきたが、遺詔で後事を託されながら嗣君を殺し賢王を殺すような者は見たことがない」と語った。
- 元嘉二年、泰は元日の賀表を上げ旱害について多く奨勧したが、その後軽舟に乗って東陽に遊び任心のまま朝廷に関わらなかったため有司の弾劾を受けたが、文帝は問わなかった。文帝が親政するようになっても羨之らはなお重権を握っていたため、泰はまた上表して得失を論じたが、その言葉が当路の子弟に及んだため禁じられ、上奏されなかった。元嘉三年、羨之誅殺後、侍中左光禄大夫国子祭酒領江夏王師特進に進んだ。文帝は泰を先朝の旧臣として厚遇し、脚疾のため宴の際に特に輿に乗ることを許した。
- その年の秋、旱害と蝗害が起こると、泰は「蝗を捕らえるための課役はかえって民を苦しめるだけで枯苗の助けにはならない」と述べ、また「女性への恩赦は昔からの慣例、謝晦の婦女もいまだ収監されている、一匹夫の嘆願にも感応があるはず」と上表し、文帝は謝晦の婦女を赦した。司徒王弘が輔政すると、泰は「彭城王(劉義康)は帝の次弟、召し還して朝政に参与させるべきだ」と説き、弘はこれを容れた。旱害・疫病が続く中、泰はさらに上表して勧誡した。
- 泰は篇籍を博覧し文章を好み、後進を愛し奨励して倦むことがなかった。『古今善言』二十四篇と文集を著し世に伝わった。晩年は仏事に篤く、邸宅の西に祗洹精舎を建てた。五年、卒した。開府の贈位が議されたが、殷景仁が「泰は素より重望がない」として容れられず、台司(三公)とはならなかった。葬儀の際、王弘は棺を撫でて「君は生前殷鉄(我らの不和)を重んじていたが、今この報いをする」と哭した。車騎将軍を追贈され、諡は宣侯。第四子の曄が最も知られる。