南史卷三十二 列傳第二十二 張融
張融(?-建武四年卒、字は思光)。張暢の子。奇矯な言動と卓抜した才気で知られた文人・官僚で、斉の高帝に深く愛され「いなくてもいけないが二人いてもいけない」と評された。草書・文章に優れ独自の文体を追求し、東海の名医徐文伯・徐嗣伯兄弟とも親交を結んだ。
奇行の才人
- 融、字は思光。弱冠にして名があった。道士の同郡陸修静が白鷺羽の塵尾扇を贈り「これは異物、異人に献ずるにふさわしい」と言った。宋の新安王子鸞の行参軍として出仕。王の母・殷淑儀が薨じた後、四月八日の斎会で灌仏の儀が行われた際、僚佐の多くは一万銭、少なくとも五千銭を出す中、融だけが百銭しか出さなかった。帝は不快に思い「融はひどく貧しいようだ、良い禄に序すべきだ」と言い、封溪令に出された。従叔の永が後渚まで見送り「近く朝旨で戻れると聞いている」と言うと、融は「還れぬことは案じません、還ってまた去ることになるのが心配です」と答えた。
- 赴任の途中、険しい嶂を経て獠賊に捕らえられ食われそうになったが、融は顔色一つ変えず「洛生詠」を吟じ、賊はこれを異とし害さなかった。海を渡って交州に至り、海上で暴風雨に遭っても恐れる色を見せず「乾魚(干した魚)は自らその本郷に還れるが、肉脯(干し肉)はどうしようもない」と詠じた。海賦を作り、その文辞は詭激で他と異なった。鎮軍将軍顧顗之に見せると「これは実に玄虚を超えているが、惜しむらくは塩について書かれていない」と言われ、融はその場で筆を取り「漉沙構白、熬波出素、積雪中春、飛霜暑路(砂を漉して白きを構え、波を熬て素を出す。積雪の中春、霜を飛ばす暑路)」の四句を書き足したという。顗之は融の兄と親交があり、顗之が卒すると融は自ら土を負って墳を築いた。
- 南で交趾太守卞展と親交を結んだが、展が嶺南で人に殺されると融は身を挺して駆けつけた。秀才として対策に応じ中第となり、尚書殿中郎に任じられたが就かず、儀曹郎に改められた。叔父の喪に赴く途中、幹(従者)の錢敬道が杖罰の罪を犯し、延陵の獄に繋がれたが、大明五年の制で二品清官の従者への杖罰は十を超えないと定められていたのに融の左丞孫緬がこれを超えたとして奏上され免官となったが、復位して祠部・倉部の両曹を摂した。時に領軍劉勔が戦死し、融は祠部の議として哭礼が相応しいと述べこれが用いられた。また俗人が正月に太倉を開くことを忌む慣習について、融は「小さな忌みに拘束される必要はない」と議した。まもなく正厨(祭祀の厨房)を兼掌したが、宰殺の場面を目にして車を回して立ち去り、自ら職を解いた。後に南陽王友に転じる。
- 融の父暢が丞相長史であった時、義宣の事変で王玄謨に殺されそうになった経緯があり、当時玄謨の子瞻が南陽王長史であったため、融は官を辞したいと願い出たが許されなかった。融は家貧しく禄を求めたいと従叔の征北将軍永に書を送り、清貧な暮らしを甘んじてきたが世業が清貧続きであることを訴え、三呉の丞や南康太守の職を望む旨を伝え、「官位の等級にはこだわらないが、丞を求めて得られなければ郡を求め、郡を求めて得られなければまた丞を求めればよい」と述べた。また吏部尚書王僧虔に書を送り、「融は天地の逸人であり、進んでも貴きを弁ぜず、退いても賤しきを知らない、ただ家貧しく孤寡を多く抱える身の上ゆえの願いだ」と訴えた。時の議論では融は御人(人を治める)の才ではないとされ、結局実現しなかった。斉の太傅掾となり、中書郎に累遷したが、これを好まず中散大夫を求めたが許されなかった。
- 張氏は敷以来、音辞や儀範を整えることを重んじてきたが、融は風采が奇矯で、座るときも危坐(正座)、膝行の際も裾を引きずり、身を翹(そら)して仰ぎ見るなど、人目を驚かせる仕草が多く、見物人が市を成すほどだったが、融自身は少しも恥じることなく平然としていた。高帝は融を愛し、太尉であった頃、融と親しく交わって「この人物は、いなくてもいけないが二人いてもいけない」と笑った。即位後、手詔とともに衣を賜り「そなたの衣服が粗末なのを見て、清貧を貫く志は分かるが、あまりに襤褸では朝廷の体面にも関わる、これは私が着ていたものを裁ち直させたので、古着ではあるが新品にも勝ろう、履物も一足添える」と伝えた。
- 高帝が太極殿西室に出た際、融が挨拶に赴くのに時間をかけて悠々と階段を昇ったので、帝が「なぜそんなに遅いのか」と聞くと「地より天に昇るのは道理として速くはいかぬものです」と答えた。魏主が淮水まで至って退いた時、帝が「なぜ急に来て急に去ったのか」と問うても誰も答えられぬ中、融が末座から「無道ゆえに来て、有道ゆえに去ったのです」と声を張り上げると、公卿はみなその機知に感服した。
- 融は草書を能くし自らその技を誇っていた。帝が「そなたの書は骨力があるが、二王(王羲之・王献之)の法がないのが惜しい」と言うと、融は「臣に二王の法がないことを恨むのではなく、二王に臣の法がないことを恨みます」と答えた。融が故郷に帰る際、王倹を訪ねると、倹はその地に立って袖を挙げて出迎えず、融もまた手を挙げて倹を呼び「歜(人名、無礼な意)よ、王よ前へ」と言い、倹はやむなく歩み寄った。融は「私が権勢に媚びずに済み、あなたに士に対して歩み寄らせることができたなら、これほど良いことはない」と言った。融は常々「古人に会えなかったことを恨むのではなく、古人が私に会えなかったことを恨む」と言っていた。
- 吏部尚書何戢と親しく、訪ねた際に取次の者が誤って尚書劉澄が来たと取り次いだが、戸口に至ると「これは違う」、望んで澄を見ても「これも違う」、席に着いてもなお「これも違う」と繰り返し言って去った。その奇矯ぶりはこのようであった。長沙王の鎮軍・竟陵王の征北諮議、司徒従事中郎などを兼ねた。永明二年、総明観の講義に朝臣が召集された際、融は扶けられて入り榻に座り、密かに酒を飲み、講義が終わると長嘆して「ああ、孔子とは何と偉大な人物であったことか」と言った。御史中丞到撝に弾劾されて免官となったが、まもなく復職した。融は容貌が短躯醜怪であったが精神は清澄で、王敬則が融の革帯が緩んで髀まで下がっているのを見て「帯が緩すぎる」と言うと、融は「歩兵吏ではないのに帯を締める必要があろうか」と答えた。
- 融が東に出た際、武帝が「どこに住んでいるのか」と問うと「陸には屋なく、舟に住めば水がありません」と答え、後に従兄の緒に尋ねると「融は近ごろ東に出たばかりでまだ住まいがなく、小舟を岸に牽いて仮住まいしている」と答えたため、帝は大笑いした。北使の李道固との応対を任された際、道固は融を見て「張融は宋の彭城長史張暢の子ではないか」と言ったが、融はしばらく顔をしかめてから「先君(父暢)は不幸にも六夷(異民族との交渉)で名を成すことになった」と答えた。
- 豫章王が賓僚を大いに集めた宴で、炙り肉を食べ始めたが行き渡ると炙り人がそのまま去ってしまい、融は塩や蒜を求めたくても言い出せず、ただ食指を半日も動かし続けてようやく諦めた。朝廷への出入りのたびに人々は目を見張った。八年、朝臣が衆瑞を祝賀した際、融は扶けられて拝礼を行い、また有司に弾劾されたが赦された。司徒兼右長史に遷る。竟陵の張欣時が諸暨令として罪に問われ死刑となりそうになった際、欣時の父興世がかつて宋の南譙王義宣討伐の折、官軍が融の父暢を殺そうとした時に自らの袍で暢を覆って庇い難を免れさせた恩義があったため、融は高い沓(履物)を履いて土を負い墳を築いて恩に報いていたほどで、この時竟陵王子良に欣時の身代わりに死ぬことを願い出た。子良は「これは長史の美事だが、朝廷の常典に反しかねず、望みどおりにはできない」と答えた。黄門郎・太子中庶子・司徒左長史に遷る。
- 融は孝義に篤く、忌月(父母の忌日のある月)には三十日間音楽を絶ち、嫂に対してもまことに謹んだ。父暢は臨終に際し諸子に「昔、丞相(義宣)の事変の折、私は同調しなかったために殺されそうになったが、司馬竺超人のおかげで助かった。お前たちは必ずその恩に報いよ」と遺言した。後に超人の孫が微賤な身で冬に母の喪に遭い困窮していると、融はこれを弔い、衣をすべて脱いで賻(喪の贈り物)とし、牛の被い(覆い)を被って帰った。常々兄のように豫章王嶷や竟陵王子良に仕え、子良が薨じた際、かつて仕えた官吏らしく慟哭を尽くした。
- 建武四年、病で卒した。遺言により白い旐(はた)を立て旒(吹き流し)はつけず、祭も設けず、麈尾を持たせた人を屋根に登らせて魂を招かせ、「私が生前愛したものは、雲を凌ぐがごとき一笑三千(何物にも執着しないという意)であった、棺は新調せず、被には孝経・老子を左手に、小品法華経を右手に持たせよ、妾二人は喪が明ければ実家に帰せ、私の生前の風格からすれば、婦人が声を挙げて泣くようなことがあってはならない、閨閤に暫くも留まらせるな」と命じた。融の玄義は師に学ばずして神解が人に勝り、高談には抗し難いものがあった。永明中、疾を得た際、律を問われ自ら序して「私の文章は世人を驚かせるものが多いが、心を耳より優先させたためであり、耳を心の師とすることはできない、文章に常体はなく、体があることを常とするのみ、丈夫たる者は詩書を刪り礼楽を制すべきで、なぜ人の後を追う必要があろうか」と述べた。
- 臨終に際してまた子に「手澤(遺品)が残っているのに、父の書物を読まぬのか。ましてや文の音や情は韻に籠もる、私はそうは思わない、別に遺すものがある、私の文体は変化に富み屡々奇を極める、これは天与のものであり家声を落とすものではない、お前は号泣しながらこれを見よ」と戒めた。融の文集は数十巻あり世に行われた。自らその集を「玉海」と名づけ、司徒褚彦回にその由来を問われると「玉は徳に比し、海は上善を崇めるものだからだ」と答えた。張氏は先に敷・演・鏡・暢があり、後に充・融・卷・稷を「四張」と称した。
- 稷の第六弟の宝積は建武中に廬陵太守として出た。当時の名流謝瀹・何点・陸恵曉・孔珪が融の弟の鉄の座に集った際、何点が「今日はまさに盛会と言えよう、二・五は我らの流儀、阿六(張鉄)は張氏の家を保つ子だ」と言い、王思遠を顧みて「卿は偽って善人ぶっているが実は真実ではない」と言った(二・五は孔珪と融をさし、融は第五であった)。宝積は永元中、湘州行事となり、蕭頴冑が江陵にいた際、腰輿に乗って頴冑を訪ね、悠然とした態度で応じた。頴冑が「なぜこんなに遅く来たのか」と問うと、宝積は「本朝は危乱にあり、四海が乱れる中、比干のように死ぬこともできず、微子のように去ることもできなかった、それでこんなに遅くなった」と答え、頴冑はこれを立派と認め、相府諮議に用いた。後に御史中丞となる。
- 融は東海の徐文伯兄弟と厚誼を結んだ。文伯、字は徳秀、濮陽太守徐熙の曽孫である。熙は黄老の術を好み、秦望山に隠れていた道士から瓠(ひさご)と符(護符)を受け「あなたの子孫は道術で世を救うべき運命にあり、二千石の位を得るだろう」と告げられた。開けてみると『扁鵲鏡経』一巻であり、精心にこれを学んで医術で天下に名を馳せた。子の秋夫はさらにその術に精通し射陽令に至った。ある夜、鬼の呻き声を聞き、事情を尋ねると、東陽出身で腰痛のため死んだ鬼で、死しても痛みが続くので治療を求めるという。秋夫が「どのように治療するか」と問うと、鬼は「芻人(藁人形)を作り、孔穴を按じて針を打ってほしい」と答え、秋夫の言うとおりに施灸・施針し祭って埋めると、翌日その鬼が謝辞を述べに現れ消えたという。世人はその通霊ぶりに感服した。
- 秋夫の子の道度・叔嚮もその技に精通した。道度は脚疾で歩けなかったが、宋の文帝が小輿に乗せて宮中に入れ、諸皇子の治療に当たらせて必ず効験があり、蘭陵太守に至った。文帝は「天下に五絶あり」と言い、いずれも銭唐の出身者――杜道鞠の弾棊、范悦の詩、褚欣遠の模書、褚𦙍の囲碁、徐道度の療病――を挙げた。道度の子が文伯、叔嚮の子が嗣伯である。文伯もその技に精通し学識もあったが、公卿に阿らず医を生業とすることを潔しとしなかった。融は文伯・嗣伯に「昔、王微や嵇叔夜も学んだが至れず、殷仲堪の輩は論外だ、これに至れるのは神明が洞察した者だけで、我らには及ばない、ただ褚侍中澄も貴い身分ながら人を救う技を持つのに、卿らはなぜ通逹の道でないと恥じるのか」と問うと、文伯は「達者だけがこれを崇めるべきと知り、達しない者は多くこれを深い恥と見なす、すでに卑しめられている以上、恥じずにいられようか」と答えた。文伯の効験は嗣伯と並び称された。
- 宋の孝武帝の路太后が病に伏し、諸医が診断できなかったが、文伯は「これは石が小腸を塞いでいるのだ」と診て水剤消石湯を処方すると即座に癒えた。鄱陽王常侍を除せられ、千金を贈られ十日にわたり厚遇された。宋の明帝の宮人が腰痛で心臓にまで及び気を失いかけるほどで、諸医は肉の腫瘍と診断したが、文伯は「これは髪の癥(かたまり)だ」として油を注ぐと髪のようなものを吐き出し、引くと三尺にもなり頭は蛇の形になって動き、門に掛けられたという。すべて吐き終えると病は全快した。宋の後廃帝が楽游苑の門で身重の女性に会い、文伯に「腹の子は女か男か」と診させると「両子です、一男一女、男は左に青黒く小さい」と答えた。帝が短気を起こし切腹させようとしたが、文伯は「もし刀斧を用いれば異変が起こりかねません、針で治療させてください」と願い出て、足太陰を刺し手陽明を補うと、たちまち胎が落ち、二児が続けて生まれ、言葉どおりであった。文伯の子・雄も家業を継ぎ診察に秀で、奉朝請の位に至り清談を能くし貴人らに重んじられた。母に孝謹に仕え、母が没するとほとんど毀滅するほど痩せ、まもなく兄も亡くなり杖にすがって喪に臨み胸を打ち慟哭してついに哀しみのあまり卒した。
- 嗣伯、字は叔紹。孝行があり清談を能くし、正員郎に至り、諸府の佐吏として臨川王映に重んじられた。直閤将軍房伯玉が五石散を十数剤服用しても効かず、かえって冷え性となり夏でも重ね着をしていたが、嗣伯が診て「卿の症状は伏熱、水で発散させねばならないが、冬でなければならない」と言い、十一月に氷雪の盛んな時期を待って二人に伯玉を挟ませ服を脱がせ石の上に座らせ、頭から冷水を二十斛かけると、伯玉は口を閉ざし気を失い、家人が泣いて止めようとしたが、嗣伯は杖を持つ者を配置し諫める者があれば打たせ、さらに水を百斛かけると、伯玉はようやく動き、背に気が満ちて起き上がり「熱くてたまらぬ、冷たいものが飲みたい」と言い、水を一升飲むと病はすっかり癒えた。以後常に発熱し、冬でも単衣一枚で過ごすほど肥え壮健になった。ある老女が長年冷えの病に苦しんでいるのを診て「これは尸注(死者の気にとりつかれた病)だ、死人の枕を煮て服用せよ」と処方したところ治り、後に秣陵の張景という十五歳の少年が腹脹面黄の病で諸医も治せなかったが、嗣伯は「これは石蚘だ、死人の枕を煮て」と処方すると大量の排泄と共に石のように堅い蚘虫の頭が出て治った。また沈僧翼が眼痛と幻視に苦しんだ際も「邪気が肝に入っている、死人の枕を求めよ」と処方し治した後、枕は元の場所に埋め戻させた。
- 王晏が「三つの病は違うのに、いずれも死人の枕を用いて治るのはなぜか」と問うと、嗣伯は「尸注は鬼気が伏して起こらぬために気が滞る病、死人の枕を投じれば魂気が飛び立ち体から離れるので治る、石蚘は久しい蚘虫で薬では動かせぬため鬼物の力を借りて散らす必要があり、故に死人の枕を煮る、邪気が肝に入って眼痛を起こす場合も邪物で釣り出す必要があるため死人の枕を用いる、気が枕から去るゆえ塚間に埋め戻すのだ」と答えた。また春に南籬で遊んでいた際、笪屋(あばら屋)から呻き声を聞き、嗣伯は「この病は重い、あと二日で治療しなければ必ず死ぬ」と往診すると老婆が体の痛みを訴え、体中に黒い腫れ物が無数にあった。嗣伯は湯を一斗余り煮て服用させると、痛みは一時激しくなり床から跳ね上がるほどであったが、まもなく腫れ物から釘のようなものが寸余りずつ抜け出し、膏薬を塗ると三日で治った。これを「釘疽」と呼んだという。
- 同時代に薛伯宗という者がおり、癰疽(できもの)を他所へ移す術に長けていた。公孫泰が背中を患った際、伯宗が気で封じて斎前の柳の木に移すと、翌朝腫れ物は消え、木の側に拳大の瘤ができ、二十余日で膿爛して黄赤色の汁が一斗余り出て、木はそのため萎えたという。
史論
晋以来、淮海の地に居を構えた張氏は賢良を絶やすことがなく、宋斉の間もその雅道はますます盛んであった。先には敷・演・鏡・暢が特に著名であったが、景胤(張敷)の敬愛の道はやや浅く、その身の処し方はなお優れていた。思光(張融)の行いは卓越し常俗の及ぶところではなかった。斉高帝が「いなくてもいけないが二人いてもいけない」と評したのは、その言葉のとおりであろう。徐氏の妙理は霊に通じ、常人の及ぶところではなく、古の医和・扁鵲にも劣らない。融と文伯が親交を結んでいたゆえ、ここに付して記した。