南史卷三十二 列傳第二十二 張沖

張沖(生没年不詳、字は思約)。張敷の甥で養子となる。斉に仕えて地方官を歴任し、東昏侯期に郢城の防衛に当たり、梁の武帝軍に抗して忠節を貫き陣中で病没した。

年表(2件)

辺境の忠節

  • 沖、字は思約。伯父の敷の跡を継ぎ養子となる。沖の母は戴顒の娘で立派な儀範があり、張氏はこれに範を見た。沖は幼くして至孝の性を持ち、従叔の永に従って将帥として仕え、盱台太守に任じられた。永が彭城に出征した際、寒さで軍中に足の脛を凍傷で失う者が十のうち七、八にも及んだが、沖も足の指をすべて失った。
  • 斉の永明八年、仮節監青冀二州行刺史事となる。沖の父が亡くなる際「私を祭るには郷土の産物のみを用い、犠牲を使うな」と遺命したため、沖は鎮の任にあっても四季ごとに呉国から果菜を取り寄せ、蒸嘗(祭祀)のたびに涙を流して供えた。そのまま刺史に転じた。
  • 永元二年、南兖州刺史となり、司州に遷る。裴叔業が寿春を挙げて魏に降ると、また沖を南兖州刺史に遷したが、いずれも赴任しなかった。崔慧景の乱が平定されると、建安王宝夤に代わり建都に戻され、沖を舒州刺史とした。一年のうちに四度も州刺史に任じられ、この時初めて赴任を受け、定襄侯に封じられた。
  • 梁の武帝が挙兵し、手書で説き、また弁士を遣わして説得したが、沖は確固として動じなかった。東昏侯は驍騎将軍薛元嗣・制局監暨栄伯に兵と糧運を率いさせ、沖に西軍(梁軍)を防がせた。元嗣らは劉山陽の敗戦を懲りて沖を疑い進軍せず、夏首浦に留まった。梁の武帝軍が迫ると聞き、元嗣・栄伯は郢城に入った。
  • 竟陵太守房僧寄が代わって還る途中、東昏侯の勅で魯山に留まり驍騎将軍とされた。僧寄は沖に「私は朝廷の深恩は受けておりませんが、先帝の厚恩は蒙っており、微力ながら忠節を尽くしたい」と述べ、二人は盟約を結んで分担して守った。軍主孫楽祖の数千人を魯山の防衛に増援したが、翌年二月、梁の武帝軍が魯山城を包囲し、軍主曹景宗らが江を渡って郢城を攻めた。沖の中兵参軍陳光静らが出撃して戦死。沖は固守して出ず、病篤くなると府僚を励まし誠節を貫くよう言い残して卒した。
  • 元嗣・栄伯は沖の子の孜及び長史江夏の程茂とともに東昏のため固守した。詔により沖に散騎常侍・護軍将軍を追贈。元嗣らは囲城の中で謀策もなく、ただ蔣子文や蘇侯神を迎えて祈祷に頼るのみで、鈴鐸の音が昼夜鳴り止まなかった。子文の神像を陣頭に立てて城壁を巡らせるという有様で、識者はその滅亡を予見した。僧寄は病死し、孫楽祖は困窮して城を降した。郢城は二百余日包囲され、士庶の病死者は七、八百家に及んだ。魯山陥落の二日後、程茂・元嗣らは降伏を議し、沖の子・孜に梁武帝への書を書かせた。沖の旧吏・青州中従事の房長瑜は孜に「先の使君(沖)の忠は昊天を貫き、節操は松竹に勝る、あなたはただ端座して薪を割る覚悟を継ぐべきだ、天運が味方せぬなら幅巾のまま命を待ち、使君のもとに従うべきだ、今もし諸人の降伏の計に従えば、郢州の士女の望みを失うのみならず、彼(梁軍)にも軽んじられよう」と説いたが従わず、ついに郢城は降伏した。当時、沖と房僧寄は臧洪の被囲に比せられた。僧寄には益州刺史が追贈された。