南史卷二十七 列傳第十七 孔覬

字は思遠、会稽山陰の人(?–466年)。清貧・剛直な官僚で、酔中でも政務を誤らなかったことで知られ、顧覬之と並び宋代清儉の代表とされた。泰始年間、明帝に対し東土で挙兵するも敗れ、処刑された。

年表(5件)

孔覬

  • 字は思遠、若くして骨鯁で風力あり是非を己の任とした。口吃だったが早くから知られ、中書黄門侍郎に至った。晋安帝時代の散騎常侍は侍中に劣らぬ選望であったが後に地位が軽んじられ、孝建三年(456年)孝武帝がその選を重んじようとし、吏部尚書顔竣が覬と司徒左長史王景文を推挙したが、帝は権威の集中を嫌い吏部尚書を二人制にしその任を軽くした。侍中蔡興宗は「常侍の選は名を重んじても実を伴わない」と評した。
  • 大明元年(457年)太子中庶子・翊軍校尉、秘書監・廷尉卿・御史中丞を歴任。令史を鞭打ち有司の弾劾を受けたが問われなかった。六年(462年)安陸王子綏の後軍長史・江夏内史。酒に溺れ酔えば日を跨いで醒めず、僚属を軽んじ権幸に阿ることもなく畏れ疎まれた。清貧を貫き府の典籤が事を諮る際は呼ばれねば進まず、退がれとの命なくば動かなかったが、酔いの中でも政務は明晰で滞りなかった。「孔公は一月二十九日酔っていても、世人の二十九日の醒めているときより勝る」と評された。孝武帝は召見の前に必ず酔い醒めを確認させた。素朴を貫き宝玩を得ても粗末な物を替えなかった。呉郡の顧覬之も倹素で名高く、宋代の清儉の代表として並び称された。
  • 弟の道存や従弟の徽が財産を営むのを好んだため、二人が休暇で東に帰る際、覬は渚まで出迎え、荷が綿絹紙席の類だと知ると偽って喜び「近ごろ足りないものだった」と置かせたのち正色し「お前たちは士流にありながら商人のようなまねをするのか」と焼き捨てさせた。先任の御史中丞庾徽之は華美を好んだが、覬が代わると衣冠器用が質素になり、蘭台の令史や三呉の富人は当初これを軽んじたが、覬の厳粛な威風に恐れ入った。
  • 司徒左長史。道存が後軍長史・江夏内史として覬の後任に。東土の大旱で米価が高騰した際、道存は覬の窮乏を案じ米五百斛を送ったが、覬は「三年の任期を終えて帰る日にも路銀に困らなかった、着任後間もないのになぜこれほどの米が要るのか」と送り返そうとし、吏に「昔から米を上水に運んだ例はない」と諭され都で売却させた。
  • 泰始元年(465年)侍中、のち尋陽王右軍長史・行会稽郡事。明帝即位後、太子詹事に召され、旧佐平西司馬庾業を右軍司馬として会稽郡事の後任にあてた。上流の反乱に際し都水使者孔璪が東に赴き、覬に廃帝の浪費と国庫窮乏を説き、南北の同時蜂起を勧めた。覬はこれに動かされ発兵し檄を飛ばした。子の長公と璪の子の淹・玄も都で密かに呼応を計画。泰始二年正月(466年)逃亡し東帰、呉郡太守顧琛にも呼びかけたが、琛は老母のことや建康との近さを憂慮し逡巡、少子の琛の子寳(山陰令)は南師接近・朝廷弱体を報じ順従を勧めたが、覬の前鋒軍が浙江を渡ったため琛は郡を挙げて反した。呉興太守王曇生・義興太守劉延熙・晋陵太守袁標が呼応、庾業は延熙に代わり義興、延熙は巴陵王休若の鎮東長史に転じ、業は延熙と長塘湖で合流した。
  • 明帝は建威将軍沈懐明・尚書張永・巴陵王休若らを東討に派遣。孔璪配下の孫曇瓘らは晋陵九里に陣を敷いたが、懐明は牛牽で兵少なく張永も曲阿で懐明の安否不明のため延陵に退き、諸将は撤退を勧めたが休若は「敢えて退けと言う者は斬る」と厳令、軍主劉亮の到着で軍は安定した。斉高帝が東討の軍を率い張永らと晋陵九里曲で対陣、積射将軍江方興・南台御史王道隆が偵察に赴くと、賊将孫曇瓘・程扞宗・陳景遠の五城のうち扞宗の城が未整備と見て道隆は急襲、扞宗を斬った。劉亮が刀楯で敵柵に突入し全軍が崩れ、斉高帝・張永らが追撃し大破。曇瓘は敗走、孔璪と曇生は倉庫を焼いて銭唐へ逃れ、会稽でも西軍の接近に将士が離散した。
  • 上虞令王晏が挙兵し郡を攻めると覬は動揺、その夕方千人を率い東討と称して実は石瀃に逃げようとしたが潮の干潮で行けず、衆は離散、門生が小舟で山陰の村に匿ったが村人が縛って晏に送った。晏は「これは孔璪の罪、卿には関わりないと上申しよう」と誘ったが、覬は「江東の処分はすべて自分の責任、罪を他に転嫁するのはお前たちのやり方」と拒み、晏は東閣外で斬った。臨終に酒を求め「これが生涯の好物だ」と語った。顧琛・王曇生・袁標らは呉喜に投降し許された。東軍の首謀者七十六人のうち陣中で斬られたのは十七人、残りは赦された。挙兵の際、覬は宣陽門の道に立ち丘陵ばかりを見る夢を見て「丘陵とは平らかならぬということ、建康を平定するのは難しかろう」と語ったという。弟の道存は黄門吏部郎・南海太守、晋安王子勛の偽号のもと侍中・行雍州事に任じられ、乱の失敗後殺された。