南史卷二十六 列傳第十六 袁泌

袁泌

  • 字は文洋、清正で幹局あり容体魁偉、志行慎み深く、梁で諸王府の佐官。侯景の乱で兄君正が呉郡太守のとき、簡文帝は泌を東宮領直に任じ呉中で募兵させた。景の台城包囲時、泌は率いた兵で援軍に赴いたが城陥落後、鄱陽嗣王範に依り、範没後は侯景に降った。景平定後、王僧辯は泌を富春太守・丹陽尹に推薦。貞陽侯明が僭位すると侍中とし斉への使者に立てた。陳武帝受禅後、泌は斉から梁の永嘉王荘に従い王琳のもとに赴き、荘が尊号を称すると侍中・丞相長史となったが、琳敗北後、衆はみな離散する中、泌だけが小舟で荘を北境まで送り届け、御史中丞劉仲威に荘を託した後帰陳し罪を請うた。文帝はその義を深く評価し、通直散騎常侍を歴任。周に使いし宣帝入輔の際、司徒左長史となり官にあって没した。臨終に子芳華に「朝廷に功績がない、埋葬は簡素に、贈諡も受けるな」と戒めた。子はその遺志に従ったが朝廷は聞かず金紫光禄大夫を贈り諡質。

史論

  • 天地は悠久、生は再来せず、大図に拠って天下を軽んじ、寸陰を惜しんで尺璧を賤しむ者もあれば、義を生より重んじて主に殉じる者は稀である。宋斉以来、袁氏一門は世々忠義を貫いた。もし袁淑の節がなければ、家門は何を貴んだろうか。袁顗は末路こそ乱れたが、本心には拠るところがあった。彖の出処進退は家風にふさわしく、粲の生き方は仁勇に近い。「疾風に勁草を知る」とはこのことだ。かつて王経の峻節が晋代に称えられたように、粲の貞固もまた斉代に改葬された、その激励の跡は代を隔てて符合する。昻は乱世に生まれながら、独夫が徳を失っても臣節を改めず、梁武帝の命に抗した義烈があった。従兄の喪に服を重んじた悌心の高さ、太子の継嗣を諫めた直言、栄を辞し身後に心を残した志、進退を通じて職を全うしたのは一代の名公である。樞は風格峻整、憲は仁義を貫き、韓子の言う「臣たるもの二心なきを尽くす」を憲は裏切らず、晩年まで称賛された。敬・泌の身の処し方もまたそれに劣らない。