南史卷二十二 列傳第十二 王慈

経歴

  • 慈、字は伯宝。八歳の時、外祖父の宋の太宰江夏王義恭に迎えられて内斎で宝物を思うままに取らせられたが、慈は素琴・石硯・孝子図のみを取った。義恭はこれを善しとし、袁淑もその幼時に背を撫でて「叔慈(慈)は内に潤いがある」と評した。若くして従弟の儉とともに書を学んだ。謝鳳の子超宗がかつて僧虔を訪ねた際、東斎に赴き慈を訪ねると、慈は書の練習中で筆を止めなかったため、超宗が「卿の書は䖍公(僧䖍)と比べどうか」と問うと、慈は「私の書を父に比べれば、鶏を鳳に比べるようなものです」と答え、超宗は狼狽して退いた。十歳の時、蔡興宗の子約とともに寺に参詣し、たまたま沙門懴約に会うと「衆僧よ、今日は虔虔(つつしみ深い)と言えよう」とからかわれ、慈は即座に「卿はこのようでは、どうして蔡氏の宗を興せようか」と応じた。呉郡太守・大司馬長史・侍中・領歩兵校尉・司徒左長史を歴任。慈は脚を患い、斉の武帝は王晏に「慈は軽い病で騎馬できない、車に乗って仗の後ろに従わせよ」と勅した。江左以来こうした例は少なかった。慈の妻は劉彦節の娘で、子の観は武帝の長女呉県公主を娶り、婦礼を修めて姑にすら未だ答えなかったという。江夏王鋒が南徐州妃としたのは慈の娘であった。慈は東海太守・行徐州府州事となり、還って冠軍将軍・廬陵王中軍長史に任じられたが拝命前の永明九年に卒し、太常を追贈され諡は懿。子の泰。