南史卷二十二 列傳第十二 王曇首

王曇首は太保王𢎞の弟。宋の武帝・文帝に仕え、文帝の即位を強く後押しして徐羨之ら誅殺・謝晦平定に功があった侍中・領驍騎将軍。智謀と度量に優れ私欲を持たず、元嘉七年に三十七歳で没した。子は王僧綽。

年表(3件)
  • 元嘉四年車駕の広莫門開門を巡る旨に答申し新たな規定を立てさせる
  • 元嘉七年三十七歳で卒し、文帝が慟哭する
  • 元嘉九年徐羨之ら誅滅の功により豫寧県侯を追封され、諡は文

経歴

  • 王曇首は太保王𢎞の弟。幼くして質朴を尊び、兄弟で財産を分ける際も曇首はただ図書のみを取った。琅邪王の大司馬属として召され従府公とともに洛陽の園陵修復に赴き、従弟の球とともに宋の武帝に謁見した。帝が「そなたらは膏粱の世徳がありながら志を屈して戎旅に従うのか」と問うと、曇首は「神武(武帝)に従うからには、懦夫でも志を立てられます」と答え、傍らの謝晦は「仁者にはまさに勇がある」と評し、帝は喜んだ。彭城で大会し戯馬台で詩を賦した際、曇首の文が最初に完成し、帝が兄の𢎞に「弟はそなたと比べどうか」と問うと、𢎞は「私の家門ほどであれば、何の望みがありましょう」と答え、帝は大笑した。
  • 曇首は智謀と度量があり、喜怒を色に表さず、家内は睦まじく、金玉を手にせず婦女にも装飾を許さず、禄賜以外は一毫も受け取らなかった。文帝の鎮西長史となった際、武帝は文帝に「曇首は輔相の才である、何事も彼に諮るように」と告げた。文帝が迎えられて大統を継ぐ際、議者の疑いをよそに曇首は到彦之の従兄華とともに強く上行を勧め、天人の符応を説いて帝はついに率府州の文武を厳兵させ自衛させ、台の遣わした百官の衆力を近づけさせなかった。中兵参軍の朱容子が刀を抱いて平乗戸外に立ち、旬を重ねても帯を解かなかった。即位後、文帝は曇首に「宋昌(漢文帝を助けた功臣)の見識がなければこの日はなかった」と述べ、曇首を侍中・領驍騎将軍、容子を右軍将軍とした。徐羨之らの誅殺、謝晦の平定は、いずれも曇首と華の力によるものであった。
  • 元嘉四年、車駕が北堂を出た際、三更に広莫門を開かせようとしたが、南台は「白獣幡・銀字棨が必要」として開門を拒み、尚書左丞の羊玄保が御史中丞の傅隆を弾劾すべしと奏した。旨が曇首に下ると、曇首は「異なる勅がなく幡棨も欠けている以上、上旨とはいえ単なる刺(略式の指示)と変わらない。元嘉元年・二年にも再度開門した先例があり、これは以前の違例であって、今回旧例を守ったことは非礼にはあたらない。白獣幡・銀字□(底本欠字、文脈上「棨」か)を求めず開門を遅らせたのは尚書の相承の落ち度であり、これも糾正すべきである」と述べ、上は特に不問とし新たに規定を立てた。太子詹事・侍中はそのまま。謝晦平定の後、上は曇首らを封じようとして宴集の場で酒を挙げこれを勧め、御牀を撫でて「この座は卿ら兄弟がいなければ今日はなかった」と言い、詔を示した。曇首は「国家の災いに乗じて身の幸いとするのは許されません」と述べ、「陛下が私を厚遇されようとも、直筆の史官に何と申しましょうか」と言って、封賞の話は取りやめとなった。
  • このとき𢎞は録尚書事かつ揚州刺史であり、曇首は上に信任され両宮に兼任した。彭城王義康は𢎞と並んで録尚書事にあることを快く思わず、さらに揚州を得て曇首の権を分けようとし、いよいよ不満を募らせた。曇首は固く呉郡への転出を願ったが、文帝は「大厦を建てながらその棟梁を失うようなことがあってよいか。賢兄(𢎞)はしばしば病と称し州任を固辞しているが、もし将来これを許すなら、この地位は卿でなくて誰であろう」と答えた。当時𢎞は久しく病み位を辞そうとしても許されず、義康は賓客に「王公(𢎞)は久しく病んでいるのに、神州(揚州)に臨んでよいものか」と語った。曇首は𢎞に府兵の半数を減らして義康に配するよう勧め、義康はようやく満足した。元嘉七年、曇首は三十七歳で卒した。文帝は慟哭して「王詹事(曇首)の病が救えなかったのは国の衰えである」と嘆いた。中書舎人の周赳が側にいて「王家が衰えようとするとき、賢者が先に亡くなるものです」と言うと、上は「まさに我が家が衰えるのだ」と答えた。光禄大夫を追贈され、九年、徐羨之ら誅滅への功により豫寧県侯を追封され、諡は文。孝武帝の即位後、文帝廟庭に配饗された。子の僧綽が跡を継いだ。