南史卷二十一 列傳第十一 王瑜

使者としての苦難

  • 瑒の弟瑜、字は子珪。名を知られ容儀美しく、三十歳で侍中に至った。永定元年、斉への使者となり陳郡の袁憲を副とした。斉は王琳の一件を理由に二人を囚え、斉の文宣帝は外出のたびに死刑囚を連れて従わせ「供御囚」と呼び、怒りに任せて殺すことがあった。瑜と憲は幾度も危険な目に遭ったが、斉の僕射楊遵彦がそのたびに救護した。天嘉二年に帰朝し、再び侍中となり、卒して諡は貞子。

史論

  • 論者は言う。君子がいなければ国を治められないというが、東晋は中原の戦乱を逃れ、江南の一隅で三百年にわたり大国と対峙できたのは、拠るところがあったからだ。当初「王氏と司馬氏が天下を共にする」と諺されたほど、王氏の人倫の盛んさはこの時に始まった。休元(王𢎞)の兄弟が国家の重責を担い、子孫の代に至るまで文雅の家風を欠かさなかったのは偶然ではない。ただ、僧逹の猖狂な性格と元長(融)の躁進を止められなかったことは――(ここで底本の文が途切れている)。