南史卷二十一 列傳第十一 王瞻

地方官としての評判

  • 瞻、字は思範。𢎞の従孫。祖父の柳、字は休季は光禄大夫・東亭侯。父の猷、字は世倫は侍中・光禄大夫。瞻が六歳の時、師の家に通う途中を伎人が通りかかると同門の者はみな見物に出たが瞻だけは見向きもせず学業を続けた。従父の僧逺はこれを異とし、父の猷に「わが宗家は衰えない、この子に望みを託せる」と言った。十二歳で父の喪に服し孝を尽くし、喪明けに東亭侯を襲封した。後にやや遊興を好み郷里の患いとなり軽薄と称されたが、成長すると節を改め士操を修め、書記に渉猟し囲碁・弓射を能くし、驃騎将軍王晏の長史を歴任。晏が誅されると晋陵太守に出され、清廉に政を行い妻子も飢寒を免れず、廉平と称された。王敬則が反乱を起こした際、瞻は都に赴く途中、敬則の軍が晋陵郡を経て郡人の多くが従ったが、敬則が敗れ台軍が党類を討伐しようとすると瞻は「愚民は動きやすいが窮追すべきではない」と説き斉の明帝はこれに従い、万を数える人々が助かった。御史中丞に遷り、梁台建国後は侍中吏部尚書となり、性は率直で選部の判断は自らの意に多くを行った。酒を好みしばしば終日飲んでも精神は明朗で簿書を廃しなかった。梁の武帝は常に「瞻には三つの技がある。弓射・囲碁・酒だ」と称えた。卒し諡は康侯。子の長玄は早世。𢎞の四人の弟は虞・柳・孺・曇首。虞、字は休仲は廷尉卿となり、子の深、字は景度は美名があり新安太守となった。柳の事跡は前に記した。孺・曇首は別巻に記す。