南史卷二十一 列傳第十一 王𢎞

王𢎞(字休元、375–432年)は琅邪臨沂の人、王導の曽孫。宋武帝に仕え尚書僕射・司徒・録尚書事を歴任した宰相格の重臣。徐羨之らの廃立には連座せず、弟王曇首とともに文帝の信任を得た。清廉な家風は「王太保家法」と称された。

年表(5件)

出自と経歴

  • 王𢎞、字は休元、琅邪臨沂の人。曽祖父は王導(東晋の丞相)、祖父は王洽(中領軍)、父は王珣(司徒)。𢎞は若くして学を好み、聡明で知られた。弱冠で会稽王道子の驃騎主簿となった。父珣は財物の蓄財を好み家に多くの財を残したが、珣が薨じると𢎞はことごとく借用証文を焼いて負債を取り立てず、残りの家業もすべて弟たちに委ねた。
  • 桓玄が建業を制圧して道子を捕らえ廷尉に送った際、群臣は恐れて誰も見送らなかったが、𢎞だけは喪に服しながら道端で拝礼して見送り、車にすがって涙を流した。論者はこれを称えた。
  • 宋の武帝(劉裕)に召されて鎮軍諮議参軍となり、功により華容県五等侯に封ぜられた。太尉左長史に累進し、北伐に従軍して先鋒が洛陽を平定したのちも九錫の授与が遅れると、𢎞は使者を都に遣わし朝廷を促した。時に劉穆之が留守を掌っていたが、勅旨が北から下ったことを恥じ発病して没した。
  • 宋国建国にあたり尚書僕射となり選挙を掌り彭城太守を兼ねた。世子左衛率の謝霊運が軍人桂興の妾を姦淫し、興を殺して屍を捨てた事件で、御史中丞の王淮之が弾劾しなかったため、𢎞は上奏してこれを糾弾し、武帝は「これを永制とせよ」と答えて霊運は免官された。
  • 江州刺史に転じ賦税を省き徭役を簡易にして百姓を安んじた。永初元年、佐命の功により華容県公に封ぜられ、三年に入朝して衛将軍・開府儀同三司に進んだ。武帝が宴で「我は布衣より起こり、ここまで至るとは望んでいなかった」と述べ、傅亮らが功徳を盛んに称えたのに対し、𢎞だけは「これは天命であり求めて得られるものでも、退けて去るものでもない」と率直に答え、その簡潔さが称賛された。
  • 少帝景平二年、徐羨之らが廃立を謀り𢎞を召して入朝させた。文帝が即位すると策謀に与った功で司空に進み建安郡公に封ぜられたが固辞して許された。車騎大将軍・開府・刺史の任はそのまま。徐羨之らが廃立弑逆の罪に問われ誅殺される際、𢎞は首謀者ではなく、弟の曇首も文帝に信任されていたため誅を免れ、密使で報告を受けた。
  • 羨之誅殺後、侍中・司徒・揚州刺史・録尚書事に遷り、班剣三十人を賜った。文帝が謝晦討伐に西征した際、彭城王義恭とともに留守を守り、中書省に入って隊仗を出入りさせ権りに参軍を置いた。元嘉五年春、大旱があり𢎞は自らの咎として辞位した。
  • 先に彭城王義康が荊州刺史として江陵に鎮していた頃、平陸令の河南の成粲が𢎞に書を送り「満つれば欠けるを慎むべし」と戒め、彭城王が入朝して朝政を執り、竟陵王・衡陽王は外藩に出るべきだと説いた。𢎞はこれによって固辞を重ね、衛将軍・開府儀同三司に遷った。
  • 元嘉六年、𢎞は再び彭城王を入朝させ輔政させるべきと上表し、州の解任を求めた。義康が代わって司徒となり𢎞と録尚書事を分担したが、𢎞はまた分録を辞退した。𢎞は政務に通じ庶事に心を配り、時宜を斟酌して寛容を旨とした。八座丞郎への疏で、「同伍(隣保連座)の犯法は士人を罪しない規定があるが、詰責のたびに訴えが起こる。恩赦を常とすれば法が行われず、規定通りにすれば人々が苦しむ。制度を改めるべきだ」と述べたが、時の議論は一致しなかった。𢎞は「人士とされれば庶人の罰科がなく、庶人と位置づけられれば人士の罰を受けるのは道理に合わない。人士に同伍の連座を科さず、その奴客に罪を負わせるのがよい。奴客がなければ贖罪を課し、修身の閭閻に暮らして群小と隔たりのある者、あるいは奴僕を持たぬ者で衆に明らかな者は、官長・二千石が親しく確認して裁くべきだ。また主守の窃盗は五疋、常人の窃盗は四十疋でともに大辟としているのは重すぎる。主守窃盗は十疋、常人窃盗は五十疋で死とし、四十疋は減じて兵役に補すべきだ。官長以上で栄禄を受けながら五疋を貪る者は士人としてなお咎めがあってよいが、この輩が士人であれば殺せなくとも謫は免れず、聖旨の裁決を仰ぐべきだ」と提言し、文帝はこれに従った。
  • 𢎞はまた「旧制では十三歳で半役、十六歳で全役とするが、今は四方無事であるから、十五・十六歳を半丁、十七歳を全丁とすべきだ」と上言し、許された。弟の曇首が没すると文帝は嘆き悲しみ、𢎞を見て涙を流したが、𢎞は表情を変えなかった。彭城王義康が文帝に「曇首は家宝でもあり国器でもあったのに、𢎞の悲しみが釣り合わないのはなぜか」と問うと、帝は「賢者の心は推し量れぬもの、彼の胆力の大きさが分かる」と答えた。
  • 元嘉九年、太保・領中書監に進んだがその年に薨じた。太保・中書監を追贈され、節を加え羽葆鼓吹、班剣を増して六十人とし、諡は文昭公。武帝の廟庭に配食された。

人物評

  • 𢎞は人望のある人物で、何事にも礼法を重んじ、立ち居振る舞いや書翰の儀礼を後人が皆倣い、「王太保家法」と呼ばれた。歴任した藩輔でも財利を営まず、薨去後は家に余財がなかった。一方で軽率で威儀に欠け、避諱を疑う客に対して「家の諱は蘇子高と同じだ」と答えるなど性格は狭量で、人が意にそぐわないとすぐに詈辱を加えた。若い頃、公城の子野の家で博打をしたことがあり、後年権勢を得てからその仲間が官職を求めてきた際、「君は博打で金を得たのに何のために禄が必要か」と詰った。相手が「公城の子野は今どこにいるか」と切り返すと、𢎞は黙り込んだ。自ら選挙を掌り朝政を総録する立場になると、栄爵を人に加える前に必ず先に叱責を加えてから施行し、愛想よく応対して喜んで語る者には必ず何も与えなかった。理由を問われると「爵位を人に加えたうえで慰労までしては、主上と功を分かち合うことになり、これは君に対する姦計だ。求める者を絶てば官の叙用の分は失われないが恩を欠き、顔色一つ変えなければ大いに恨みを買う」と答えた。人々はこれに納得した。子の錫が跡を継いだ。