出自と経歴
- 趙倫之、字は幼成。下邳僮の人。宋の孝穆皇后の弟。幼くして父を失い貧しかったが、母によく孝を尽くしたと称された。
- 宋の武帝が挙兵すると軍功により閬中県五等侯に封ぜられ、雍州刺史まで昇進した。
- 武帝の北伐に際し、倫之は順陽太守の傅弘之・扶風太守の沈田子を派遣して嶢柳から出撃させ、姚泓を藍田で大破させた。
- 武帝が禅譲を受けると佐命の功により霄城県侯に封ぜられた。少帝即位で護軍に任ぜられ、元嘉3年(426年)に領軍将軍となった。
- 外戚として貴顕であったが日々の暮らしは質素で、世事に疎く不器用な性格だった。長らく地方の要職(方伯)にあって公私ともに富裕であったのに、都に入り護軍となった際は力量不足として貶められたと評された。范泰が戯れに「司徒公の欠員には必ず汝が老臣を用いる。私は言わぬが、汝の資質・出自からすれば外戚として高い官位につくのが順当なだけだ」と言うと、倫之は大いに喜び、たびたび酒肴を持って范泰を訪ねた。
- 元嘉5年(428年)に没し、諡は元侯。子の伯符が跡を継いだ。
趙伯符――経歴
- 伯符、字は潤逺。若くして弓馬を好み、寧遠将軍として義徒(民兵)を統率し、宮城の北を守った。火災や強盗が起きるたびに自ら甲冑を着けて郡県の討伐を助け、武帝に高く評価された。
- 文帝即位後、徐州・兗州二州刺史を歴任した。政治は苛酷で、吏人は虎狼と同居するように恐れたが、そのため盗賊は遠く逃れて境内に入る者がなかった。
- 元嘉18年(441年)、領軍将軍に召された。以前は外監(禁軍の監督官)は領軍の統属を受けなかったが、統属すべき場合は別に詔があった。この時から外監は領軍に統属するようになった。
- のちに丹陽尹となり、都では厳酷な統治を行い、官署の職員は堪えられずに逃亡する者もいた。逃亡して捕らえられた者は投水させて殺した。筆吏が筆記の際に指示を誤ると鞭打ち五十を科した。
- 伯符の妻(倩)は文帝の第四女海塩公主に嫁いでいた。倩が戯れに主の手を打ったことが文帝の耳に入り、文帝は激怒して離婚させた。伯符はこれを恥じ恐れて発病し没した。諡は肅。爵位は孫の朂まで伝わったが、斉が禅譲を受けると国は除かれた。