南史卷十三 列傳第三宋宗室及諸王上 衡陽文王義季
劉義季、武帝の第七子(?–447年)。荆州刺史として財政を立て直すなど治績を挙げたが、兄彭城王義康の廃黜以降は酒に耽り、文帝の再三の訓誡にも改まらぬまま病を得て世を去った。
年表(4件)
- 元嘉元年424年衡陽王に封じられる
- 元嘉十六年439年臨川王義慶に代わり都督荆州刺史となる
- 元嘉二十一年444年征北大将軍・南兖州刺史に徴される
- 元嘉二十四年447年彭城で薨去
治績と晩年
- 劉義季は幼くして夷簡(率直で謙虚)で鄙近の欠点がなかった。文帝が荆州にあった頃、武帝が随行させて以来文帝に特に愛された。元嘉元年(424年)衡陽王に封じられ、十六年(439年)臨川王義慶に代わり都督荆州刺史となった。義慶在任中に巴蜀の擾乱で軍旅が続き府庫が空虚となっていたが、義季は財を蓄え用を節約し数年で復充した。
- 隊主續豐の母が老いて家貧しく肉を口にしなかったことに義季はその志を哀れみ、月に米二斛・銭一千を給し、豐に肉を食べさせた。義季は書を拙くし、上啓の文書は人に書かせ自ら署名のみを行った。かつて郢で大蒐(狩猟)を行った際、苫をまとい耕す老人があり左右に追い払わせようとしたところ、老人は耒を抱えたまま「昔楚子が遊興を貪り令尹に譏られた故事がある、今は農耕の始めの時、一日でも耕作を怠れば時を失う、大王が馳騁を楽しみのために老夫を追い払うのは勧農の意に反する」と答えた。
- 義季は馬を止め「この者は賢者である」として食を賜おうとしたが、老人は「大王の賜物を等しく人々に分け与えられれば、農時を奪わぬ限り一時に皆その恩を受ける、これでこそ王の賜は老人一人の私事とならぬ、この飯は私には受けられない」と述べ、名を問われても答えず立ち去った。
- 義季は酒を嗜み、彭城王義康が廃されて以後は長夜の飲を続けほとんど酔いから覚めない日々を送った。文帝は「これは事業を損なうだけでなく自身の本性をも損なうもの、汝もよく知っているはずだ。近くは長沙の兄弟がこれで身を誤り、故将軍蘇徴も酒に耽って病を得て命を落とした、一門にこのような酣飲の風があってはならない、汝は誰からこれを得たのか」と責めたが、義季は詔を奉じても酒色を改めず病を得て終には命を落とすに至った。
- 二十一年(444年)征北大将軍・開府儀同三司・南兖州刺史・都督に徴された。州を発つ日、帷帳・器服など刺史に随行すべきものはすべて留め、荆楚の人々は美談とした。二十二年(445年)徐州刺史に遷り、翌年魏が北州を攻め動揺すると、義季は禍を懼れ功勲を求めず他の経略を行わず、ひたすら飲酒に終始したが、文帝はまた詔してこれを責めた。
- 二十四年(447年)彭城で薨去。太尉江夏王義恭は表して職を解いて喪を迎えようとしたが許されず、上は東海王禕を遣わし喪を迎えさせ司空を追贈した。爵位は孫に伝わり、齊の受禅により国は除かれた。
史論
- 論じて言う。古来帝王の興隆は暦数に係るとはいえ、多くの困難を経啓する過程では必ず親賢の助けを藉りている。餘祅(劉毅ら)の内侮や桓氏・司馬休之らが交々迫る中、荆楚の勢いは累卵のごとくであった。もし上(武帝)の謀略が一手でも欠けていれば得喪の機はどうなっていたか分からない。烈武王(道規)は群才を集め盛策を揚げて一挙に強敵を掃い、これも人謀の致すところと言えよう。長沙王(道憐)は位が台鼎に列しながら本根の任を受けなかったが、その行事から武帝の智慧を汲み取っていたことが知れる。
- 廬陵王(義真)は帝子の重みと高明の姿を兼ねながら、まだ隙も現れぬうちに忌克により禍を招いた。痛ましいことだ。天倫は子と分身共気の理があり親愛の道は人理として同じだが、富貴の情はこれと相反することがある。龎公(龎徳)の言に「周公・管蔡に比べれば、もし茅屋に住んでいたなら放殺の酷はなかったろう」とあるのは、彭城(義康)・南郡(義宣)を見るとまさにその通りである。
- 江夏(義恭)は地位は愛子、位は上相に当たり、大明の世には親礼が朝廷に冠絶しながら身を屈し卑下して両朝の暴主に猜色を持たせず十余年を全うしたが、永光の幼主の代に周公旦の重責が自らに帰した際、氷を踏むような憂慮が既に除かれ泰山の安きを恃めると考えたのも束の間、体を裂かれ肌を分かたれる惨劇に至った。古人が微かな兆しにも誡めを致したのは、まさにこの篤い教訓のためであろう。
- 衡陽(義季)は晩年酒徳に沈み、その禍の先後は異なるとはいえ、その将来は覆車の鑑(前車の轍)を存さなければどうしてこうなったであろうか。