南史卷十三 列傳第三宋宗室及諸王上 南郡王義宣

劉義宣、武帝の第六子(?–454年)。長く荆州を鎮め兵強く財に富んだが、孝武帝との不和と臧質の煽動により孝建元年に挙兵、梁山の戦いで大敗して江陵に逃れ、捕らえられて獄中で殺害された。

年表(6件)

出自と反乱

  • 劉義宣は生まれつき舌が短く言葉が滞った。元嘉元年(424年)竟陵王に封じられ都督南兖州刺史、中書監・中軍将軍に遷り鼓吹を給された。竟陵の群蛮が横行し民が疲弊したため南譙王に改封された。
  • 十三年(436年)江州刺史・都督に出た。武帝は荆州が上流の要地で地広く兵彊いことから遺詔で諸子に次第に居させることを定めており、謝晦平定後は彭城王義康に授け、義康が入相すると江夏王義恭、その後は臨川王義慶が居した(義慶は宗室の令望に加え臨川烈武王の大功による)。次に義宣が来る順であったが、義宣は人材が乏しいとして十六年(439年)衡陽王義季に代えられ、義宣は南徐州刺史とされた。会稽公主がしばしば異議を唱え、上は長らく躊躇していた。
  • 二十一年(444年)義宣を都督七州諸軍事・車騎将軍・荆州刺史に任じ、先に中詔を賜って「師護(義季の小字)が西で久しく比表求還していたが、経国の常理は必ずしも一つの方針に固執するべきではない、今汝に代えたいと思う。師護に殊績はないが節を守り物と懐を通わすことは容易ではなく、既に彼には次第があり士庶に安んじられており議論もあった。今回の交代は汝のためである。汝と師護は年時同輩だがそれぞれに美点があり、物議も少なからずあろう。もし今後何かを減じることがあれば西夏(荆州)に大きな支障となり遷代の譏りは私に帰するだろう」と語った。
  • 義宣は着任後、自ら政事に励んだが、白皙で美髭眉、長七尺五寸、腰帯十囲、嬪媵は千余人、尼媼数百、男女三十人を蓄え、崇餙綺麗で費用は殷広であった。司空に進み侍中を改めた。二十七年(450年)魏軍南侵に際し義宣は上明への逃走を考えたが、文帝は「民務を修めよ、潜逃の計は不要」と詔した。司徒・揚州刺史・侍中に遷った。
  • 元凶が弑逆して即位すると義宣を中書監・太尉・領司徒とした。義宣はこれを聞くと即座に挙兵し甲卒を徴聚、檄を近逺に伝え、孝武帝の討伐に呼応、参軍徐遺寳に衆三千を率いさせ先鋒とした。孝武帝即位後は義宣を中書監・都督揚豫二州・丞相・録尚書六條事・揚州刺史とし羽葆鼓吹・班劒四十人を加え、南郡王に改封、生母を献太妃に追諡、次子宜陽侯愷を南譙王とした。
  • 義宣は内任を固辞し、愷の王爵も辞退したため、都督八州諸軍事・荆湘二州刺史・持節侍中丞相に改授された。愷は宜陽縣王に降され、将佐以下も皆賞秩を加えられた。義宣は鎮に十年、兵強く財富み、首義の名は天下に轟き、求めるところは必ず叶えられた。朝廷の制度も意に沿わなければ遵わず、孝武帝への献酒でも自ら先に酌んで飲み、余りを封じて贈るような、大体を弁えない振る舞いをした。
  • 当初臧質は密かに異志を懐き、義宣が凡弱で操りやすいと見て自ら乱の道具に使おうとし、襄陽から江陵に赴き義宣に礼を尽くした。江州に至ってからは密かに義宣に「大才を有し大功を負い震主の威を挟んでは古来全き者は少ない、人に先んじて処分すべきでなければ一旦禍を受けて後悔しても及ばない」と説き、義宣は密かにこれを受け容れた。
  • 孝武帝が閨庭で無礼を働き義宣の娘たちと淫乱に及んだことに義宣は怒りを発し、密かに舟甲を治め孝建元年(454年)秋冬に挙兵しようとした。豫州刺史魯爽・兖州刺史徐遺寳に同心を求めたが、爽が酒に酔って旨に反し、その年正月に反乱を起こし府戸曹に版を送って義宣を天子に補し天子の羽儀を送り、遺寳も彭城へ向かって兵を進めた。義宣・臧質は慌てて挙兵。
  • 二月、都督中外諸軍事を加え左右長史司馬を置き僚佐は皆名を称し、表を奉じ「姦臣が国を傾けようとしているので甲卒を徴召しこの凶醜を戮する」と称した。太傅江夏王義恭は義宣に書を送り禍福を諭した。義宣は諸州郡に檄を移し、参軍劉諶之・尹周之らに軍を率いさせ臧質に合流させた。雍州刺史朱修之が起兵し義宣に応じた。義宣は衆十万を率い江津を出発、舳艫は数百里に及んだが、この日大風で船がひっくり返りそうになり、辛くも中夏口に入った。
  • 第八子慆を輔国将軍として江陵に留鎮させ、魯秀・朱曇韶に万余人を率いさせ朱修之討伐に向かわせたが、秀は江陵で義宣を見て城を出ると胸を叩いて「兄は人を誤らせた、愚か者と共に賊を作った、今年は敗れよう」と嘆いた。義宣は尋陽に至り臧質と共に下り、質を前鋒として鵲頭に至ったところで徐遺寳が小峴で魯爽に敗死したと知り、皆顔色を失った。
  • 孝武帝は鎮北大将軍沈慶之に爽の首を義宣に送らせ書を添えた。義宣・質は共に驚懼した。孝武帝は先に豫州刺史王𤣥謨の舟師を梁山洲に頓し内東西両岸に却月城を営柵、撫軍柳元景は姑熟を拠点に大統とし偏師の鄭琨・武念は南浦を戍った。質は直ちに梁山に入り𤣥謨から一里ほどの所に営を結び、義宣は蕪湖に屯した。
  • 五月十九日、西南風が猛烈に吹き、質は風に乗じて𤣥謨の西塁を攻め、冗従僕射胡子友らは戦い敗れ塁を棄てて𤣥謨のもとに逃れた。質は将龎法起に数千兵を南浦に趣かせ𤣥謨を背後から挟撃させようとしたが、法起は琨・念と遭遇し大敗、水死者はほぼ全滅した。
  • 義宣は梁山に至り、質は上って東岸を攻め𤣥謨を攻めたが、𤣥謨は游撃将軍垣䕶之・竟陵太守薛安都らを塁より出撃させ質軍を大破、質軍の兵士は一斉に水に飛び込み、䕶之らは風に乗じて火を放ち舟を焼き、煙焔は江を覆った。義宣は西岸に屯していたが延焼で営はほぼ全滅、諸将は風火の勢いに乗じて総攻撃をかけ、義宣軍は一斉に潰走した。
  • 義宣と質は互いに散り散りとなり単舸で逃走、東の士庶は皆帰順し、西の者で義宣に随行するのは船数百余に留まった。妻は先に臧質の子過が尋陽に嫁いでいたため、質の子過は妻を尋陽から江陵に連れ帰ろうと西に奔ったが、江夏で軍に断たれ逕口に回って江陵に向かった。義宣に付き従う衆は散り尽くし左右わずか十数人となり、脚を痛めて歩けず、民から輓車を借りて自ら乗り食を求めつつ江陵郭外に至った。竺超人が羽儀を整えて出迎え、なお甲を帯びた者一万余人がいた。
  • 義宣は入城後聴事に出て客に会い、左右の翟靈寳は「臧質が指授に違った不利を撫慰し、今兵を治め甲を繕って後図を計るべき」と説き、「昔漢の高祖は百敗の末に大業を成した」と述べたが、義宣は「項羽は千敗した」と言い誤り、周囲は口を掩って笑った。魯秀・竺超人らはなお爪牙として残兵をまとめ再挙を図ろうとしたが、義宣は惛墊(意気消沈)し内に籠って出てこず、左右の腹心も相次いで奔叛し、魯秀は北に走った。
  • 義宣は自立の意を失い秀を追おうとし、戎服に糧を負い刀を帯び、子慆と愛妾五人を連れ皆男子の服に変えて城内を進んだが混乱の中で刃が交錯し馬から落ち、竺超人が城外まで送り自らの馬を与え城を守った。義宣は秀を追い北の諸将に送ってもらい魏に入ろうとしたが秀の行方は分からず、郭を出ないうちに将士は逃げ尽くし、残るは慆と五妾・両黄門のみとなった。夜に城へ戻ったが南郡の空き屋には牀席もなく、地に伏して夜を明かし、翌朝黄門に超人へ報告させた。超人は故の車一台で刺姦(獄)へ護送させた。
  • 義宣は獄戸に座して「臧質老奴が私を誤らせた、始め五妾と共に獄に入った」と嘆いた。五妾はすぐ出され、義宣は号泣して獄吏に「常日は苦しくなかったが今日こそ苦しい」と語った。大司馬江夏王義恭ら諸公卿は荆州刺史朱修之に書を送り「義宣は反逆道に背いた恩者、専行して大戮すべし」と告げたが、書が届く前に修之はすでに江陵に至り獄で殺した。孝武帝は舊墓への還葬を許した。
  • 長子恢は年十一で南譙王世子を拝したが(晋氏渡江以来城門校尉・衛尉の官はなかったが、孝武帝は城禁を重んじ改めて衛尉卿を置き恢に侍中領衛尉を授けた。衛尉の置はこれに始まる)、義宣の反乱で廷尉に付され自殺。恢の弟愷(字景穆)は宮中で養われ皇子と同等の寵を受け、十歳で宜陽侯に封じられ孝武帝の時に王に進んだが、義宣反乱の報が至ると愷は尚書寺内で婦人服を着て問訊車に乗り臨汝公孟詡のもとへ逃れ、詡は妻の室内に地窟を掘って匿ったが事は露見し詡もろとも誅殺、残りも修之によって殺された。