南齊書卷五十六 列傳第三十七 劉係宗

太祖廃立の夜に文書を掌る

  • 丹陽の人。若くして書画を能くし劉宋竟陵王誕の子・景粋の侍書となった。誕挙兵の際、広陵城内の関係者は皆殺されたが、沈慶之の勅により劉係宗は赦され東宮侍書となった。泰始中(465-471年)、主書として累進し、元徽初(473年)奉朝請(中書通事舎人・員外郎を兼ねる、始興南亭侯300戸70、秣陵令を帯びる)。
  • 太祖が蒼梧王(廃帝)を廃した翌朝、宿直の舎人・虞整が酔って起きられなかったのに対し劉係宗は喜んで命に従い、太祖は「天地が改まったのは卿の尽力による」と、諸処分の敕令や四方への書疏を主書10人・書吏20人を配して書かせた。事は全て意に称い、羽林監・歩兵校尉・龍驤将軍・海塩令を歴任。
  • 太祖即位後、龍驤将軍建康令、永明元年(483年)寧朔将軍(令如故)、右軍将軍淮陵太守(中書通事舎人を兼ねる)、母の喪で辞したが復職、永明四年(486年)白賊・唐宇之の乱に際し東征軍を慰労し、賊に脅されて逃げた百姓を全て赦し民籍に復した功で銭帛を賜った。白下城修築の労役を東方の唐宇之党与に振り替える献策も採用された。世祖の白下城巡視では「劉係宗が国のためにこの城を得た」と評された。
  • 永明中、北虜との文書もしばしば劉係宗が起草し、秘書書局も統括した。少府を再任、遊撃将軍・魯郡太守、鬱林王即位後は驍騎将軍・寧朔将軍・宣城太守。長く朝省にあり職事に習熟していたため、明帝は「学士は治国に堪えない、大読書に過ぎない。劉係宗一人でこの類500人に匹敵する」と吏事を重んじた。建武二年(495年)、77歳で在官のまま卒した。