南齊書卷五十五 列傳第三十六 杜栖

孝行が命を縮めた話

  • 字は孟山、呉郡銭唐の人。徴士・杜京産の子。同郡の張融が父・京産と交遊するたびに杜栖が同席し「昔の陳太丘の子・元方に劣らぬ」と評された。京師に出て儒士・劉瓛に学び清言・弾琴・飲酒に優れ、名儒貴族に敬われた。中書郎・周顒は京産への書で「賢子は後進の秀才」と称えた。
  • 刺史豫章王・竟陵王子良に重用され、国子祭酒何胤にも学士として重んじられ婚冠の儀を掌ったが、父の老いにより帰郷し隴畝に身を委ねた。肥満で壮健だったが、父・京産の病中10日で骨と皮になり、父の死後は水漿を絶って7日、朝夕哭泣を止めず塩菜も食さず、祭奠のたび号泣し、朔望や祥忌に絶えては続き、何胤・謝朏らが遺書で毀滅を戒めたが、祥禫の夜に父の夢を見て慟哭して絶命した。享年36歳。何胤の兄・何点はかつて「その風韻は嘉誉を得ても長命は望めまい」と評していたという。
  • 建武二年(495年)、剡県の8歳の子どもも母の死を隠されたが異変を悟り、母の屍側で悶絶死した逸話が付記される(県令・宗善才の上表は行われなかった)。