南齊書卷五十四 列傳第三十五 沈驎士

簾織りの学者

  • 沈驎士、字は雲禎、呉興武康の人。祖父の沈膺期は晋太中大夫。家貧しく簾を織りながら書を誦し、口も手も休めなかった。劉宋元嘉末(453年頃)、文帝が尚書僕射・何尚之に五経を撰させる際、沈驎士が選ばれ、何尚之は子に「山藪にも奇士がいる」と語った。まもなく病と称し帰郷し、以後人と交わらず甥を養育して評判を得た。仕官を勧める者に「魚も獣も檻に捕われる。聖人の玄悟に及ばぬが、吉に赴くよりは退くを選ぶ」と答え「玄散賦」を著し世俗を絶った。太守・孔山士の辟にも応ぜず、宗人の徐州刺史・曇慶や侍中・懐文らの訪問にも応じなかった。
  • 餘干の呉差山に隠居し経を講じ、常時数十百人の弟子が周りに屋を構えた。陸機の「連珠」を重んじ講じた。征北将軍・張永が呉興にあった際、招請せず沈驎士は郡後堂の山水を好み数月留まったが、功曹に任じようとした使者に「渾沌に蛾眉を飾り文冕を越客に着せるようなもの、私は東海に身を投げてでも辞す」と答え、張永は思いとどまった。
  • 昇明末(479年)、太守・王奐の推薦で奉朝請に徴されたが応ぜず、永明六年(488年)、吏部郎沈淵・中書郎沈約が「藜藿にも耐え書を懐いて耕し白首まで倦まず、七十を過ぎても業行変わらぬ英風峻節」と表薦したが応ぜず、太学博士・建武二年(495年)著作郎・永元二年(500年)太子舎人にも応じなかった。
  • 薪を負い水を汲み一日おきに食し、老いても学を怠らなかった。火事で数千巻の蔵書を失ったが80歳を過ぎても耳目聡明で灯下に細字で二、三千巻を写し数十箧に満たしたという。『周易』二繋・『莊子』内篇の注、『易経』『礼記』『春秋』『尚書』『論語』『孝経』『喪服』『老子』の要略数十巻を著した。楊王孫・皇甫謐の生死観に感じ、自ら「終制」を著し86歳で卒した。
  • 同郡の沈儼之(字は士恭、徐州刺史曇慶の子)も仕官を拒み、太子洗馬・永明元年(483年)中書郎・三年(485年)にも応ぜず、南郡国常侍の沈顗も著作郎(建武二年)・太子舎人(建武年間)・通直郎(永元二年)の徴にすべて応じなかった。顗、字は処黙は劉宋の領軍・寅之の兄の孫にあたる。