南齊書卷五十四 列傳第三十五 宗測

祖父の高士伝を継ぐ

  • 宗測、字は敬微、南陽の人。劉宋の徴士・宗炳の孫で江陵に世居。静退の性で「家貧しく親老いても官を選ばず仕えるのは先哲の美談だが、私にはその感応がない。天道と地利をわきまえるべきで、厚禄と重責を求めない」と歎じた。州の秀才・主簿の挙にも応ぜず、豫章王の参軍徴にも「海鳥を傷つけるようなもの」と答え、母の喪では自ら土を負って松柏を植えた。
  • 永明三年(485年)、太子舎人の徴にも応ぜず、名山に遊ぼうとして祖父・炳の描いた尚子平図を壁に写した。長子が都で官にあると知り、禄を求めて南郡丞となり家事を任せた。刺史安陸王子敬の長史・劉寅らが贈物をしたが宗測は受けず、老子・莊子の二書を携えて子孫に泣いて別れ、廬山の祖父の旧宅に赴いた。
  • 魚復侯・子響が江州から厚く贈物をした際、「狂疾を患い山で薬を採る身で分に過ぎた施しは受けられない」と辞退したが、子響が無断で訪ねてきたため巾褐のまま対面し一言も交わさず、子響は不機嫌に去った。尚書令の王儉が蒲褥を贈った。弟の喪で西に帰った後、永業寺に留まり賓客を絶ち、庾易・劉虯・宗尚之らとのみ交わった。刺史随王子隆の慰問にも「貴賎理を隔てるのに何故来られるか」と笑って答えなかった。建武二年(495年)、司徒主簿の徴にも応ぜず卒した。
  • 絵を能くし、阮籍が蘇門山で遇った故事や永業寺の仏影を描いた。音律を好み『易』『老子』に通じ、皇甫謐の『高士伝』を継いで三巻を著し、衡山を巡って「衡山廬山記」を著した。
  • 宗尚之、字は敬文。山沢を好み劉虯とともに驃騎記室に仕えず、劉宋末の武陵王・豫章王の辟にも応ぜず、永明中(483-493年)に劉虯とともに通直郎に徴され、和帝中興初(501年)にも諮議に徴されたが応ぜず天寿を全うした。