南齊書卷五十二 列傳第三十三 王智深

王智深

  • 字は雲才、琅邪臨沂の人。若くして陳郡の謝超宗に学び文章を好み酒を嗜んだが、態度は拙く風采に欠けた。宋の建平王景素が南徐州にあった時「観法篇」を作り、智深がこれに和した詩が評価され西曹書佐に召されたが、貧しく衣もなく赴任前に景素が敗れた。その後、州祭酒として出仕。太祖が鎮軍にあった時、邱巨源が智深を推薦し府の行参軍に任じられ、豫章王国常侍・太学博士・豫章王大司馬参軍兼記室を歴任。
  • 世祖は太子家令沈約に「宋書」を編纂させ、袁粲の伝を立てようとしたところ世祖は「袁粲はもとより宋家の忠臣だ」と述べたが、約はまた孝武帝・明帝の醜聞を多く記載していたため、上は側近を通じ「孝武の事跡はこれほど詳細に書くべきではない、私はかつて宋の明帝に仕えたことがある、そなたも悪事を諱む道理を考えよ」と伝え、多くの記述が削除された。また智深に勅命で「宋紀」を撰させ、芙蓉堂に召見し衣服・邸宅を賜った。智深は豫章王に貧しさを訴えると、王は「そなたの書が完成すれば禄を論じよう」と答えた。書は三十巻に完成し、世祖は璿明殿で智深を召見し表を奏上させたが、奏上前に世祖は崩御。隆昌元年、勅命でその書を取り上げられた。智深は竟陵王司徒参軍に遷るが事件で免官。江夏王鋒・衡陽王鈞に厚遇された。
  • 智深は初め司徒袁粲に厚遇されており、宋紀撰述の際もその恩に依っていた。粲は幼くして孤児となり祖母から「愍孫」と名付けられていたが、後に晋の荀粲を慕い自ら名を改めたところ、会稽の賀喬にこれを揶揄された。智深はこれについて論を著した。家は貧しく人付き合いもなく、五日間食を得られず莧(ひゆ)の根を掘って食べたこともあった。司空王僧虔とその子の志が衣食を分け与えた。家で卒した。
  • 先に陳郡の袁炳、字は叔明、文学に優れ袁粲に知られたが、「晋書」を著すも未完のまま卒した。潁川の庾銑も文章に巧みで評価され、豫章王に招かれ大司馬記室参軍となったが卒した。