邱巨源
- 蘭陵蘭陵の人(宋初に土断で丹陽に属し、後に蘭陵に属した)。若くして丹陽郡の孝廉に挙げられ宋孝武帝に知られる。大明五年、勅命で徐爰の国史編纂を助ける。孝武帝崩御後、江夏王義恭が書記に取り立てる。明帝即位で詔誥に参与し側近に引き立てられる。南台御史から王景文の鎮軍参軍となるが喪に服し帰郷。元徽初、桂陽王休範が尋陽にあった時、巨源の文才を求め船を送り迎えたが、巨源は太祖に自ら申し出て勅命で起用させ京都に留まった。桂陽王の乱の際、中書省で檄文の起草に従事、乱平定後、奉朝請を除せられた。
- 巨源は封賞を期待したが得られず、尚書令袁粲に書を送り不満を訴えた。自分は忠誠を尽くしたと信じていたが三年経っても何も報われない、筆記は賤しい技であり生死を左右するものではないという議論があるが、七徳九功(文武の徳業)は当世の名声に関わるものである。かつて桂陽の乱が起きた際、迷った人心の中で新亭・朱雀に集まった士庶が動揺した時、新亭で刃を抜いて賊を斬ったのは張敬児のみ、中書省で筆を振るい怯まなかったのは邱巨源のみである、文武はそれぞれ役割が異なるが、死をも辞さぬ覚悟という点で優劣を論じるべきである。あの時、文士は皆黄門・中書に集められたが、朝廷の重要な文書をなぜ賤しい者の手に委ねたのか。もし賊が強大で勝敗が見通せず賢者たちが恐れて筆を執らなかったなら勇者(自分)が功を得るべきであり、もし檄文の起草に才が必要で賢者に頼らざるを得なかったのなら才能に応じた恩賞を得るべきである。桂陽の賊への恩赦二十五人の中に李恒・鍾爽のような戦後投降者まで含まれているのに呉邁遠は族誅された、その罰の基準では筆を執った者は大禍を受け武器を執った者は無事という不均衡がある。邁遠の檄文は侮辱的な言葉に満ちていたが、もし桂陽が勝っていれば自分は八つ裂きか斬首にされていただろう、それを思えばこの功績は明白である。かつての軍旅の九割は冗員だったのに恩賞にあずかり、自分のような者は寡少であるのに顧みられない、事を成した者が顧みられず武を執った者だけが昇進する道理はない、と訴えた。しかし巨源はついに報われなかった。
- 諸王府の佐官を歴任し羽林監に転じる。建元元年、尚書主客郎・領軍司馬・越騎校尉。武昌太守を除せられるが赴任を望まず、世祖に問われ「古人は『寧ろ建業の水を飲むも武昌の魚を食らわず』と言う、私は年老いており建業で死にたい」と答えた。餘杭令となる。沈攸之の乱の際、太祖は巨源に荆州への符を書かせ、巨源はこれによっても異例の恩賞を望んだが得られず、以後不満を抱き続けた。高宗が呉興にあった時、巨源は「秋胡詩」を作り風刺の語があったため、これが理由で殺された。