南齊書卷四十八 列傳第二十九 孔稚珪

出自と父霊産

  • 字は徳璋、会稽山陰の人。祖父の道隆は侍中。父の霊産は泰始年間に晋安太守を辞し、禹井山に隠棲して道教を篤く信仰し、日々祈祷を行い、杜子恭の墓を遥拝するなど信心が厚かった。元徽年間、中散大夫となり天文・術数に通じた。太祖輔政期、沈攸之の挙兵に際し霊産は「攸之の兵は多いが天の運がなく成功しない」と予言し、これが的中したため太祖は光禄大夫に抜擢、霊産を霊台令に任じ、白羽扇と素隠几を贈った。

諸官歴と律令の刪定

  • 稚珪は若くして学を好み令名があり、太守王僧虔に見出されて主簿となり秀才に挙げられ、宋の安成王車騎法曹行参軍、尚書殿中郎を歴任。太祖の驃騎府で記室参軍として江淹とともに文筆を掌った。正員郎・中書郎・尚書左丞を歴任。父の喪に服し兄仲智と山中の家に戻った際、仲智の妾李氏が驕慢で無礼だったため太守王敬則に訴えて処刑させた。
  • 服喪後、司徒従事中郎、州治中・別駕従事史・本郡中正を歴任、永明七年に驍騎将軍・左丞、黄門郎兼左丞、太子中庶子に転じた。廷尉として、晋以来用いられてきた張斐・杜預の律注が複雑で判断が分かれる弊を解消するため、世祖の命により律令の刪定に従事した(尚書刪定郎王植が起草)。張注七百三十一条・杜注七百九十一条を精査し、重複・不要な部分を削って最終的に千五百三十二条・二十巻にまとめた。竟陵王子良を通じて審議され、多くは軽い刑に決した。
  • 永明九年、稚珪は法治の重要性を説く長大な上表を奉った。老子・孔子の言葉を引き「古の裁判官は生かす道を求め、今の裁判官は殺す道を求める」と説き、律の運用の難しさ、地方官吏の不正、法学が世に軽視される風潮を憂え、律学の設置と法官の育成を提案した。詔で応諾されたが実際には施行されなかった。

対北魏和平論と晩年

  • 御史中丞に転じ、驃騎長史・輔国将軍、建武初年に冠軍将軍・平西長史・南郡太守となる。北魏の侵攻が続き民が疲弊する中、稚珪は和平交渉を説く長大な上表を奉った。漢の高祖・文帝・宣帝・光武帝の対匈奴和親策と、武帝の武力策の得失を歴史に照らして論じ、和議を主張したが、帝は容れず、侍中への招聘にも応じずそのまま本任に留まった。
  • 風雅で酒を好み(七、八斗を飲んだ)、張融・王思遠・何点・何胤兄弟と親しく交わり、世務を好まず、邸宅に山水の趣向を凝らし、庭の草を刈らず蛙の声を楽しんだ。「陳蕃の真似ですか」と問われると「これで両部の鼓吹の代わりだ、陳蕃の真似をする必要はない」と笑った。永元元年、都官尚書、太子詹事・散騎常侍を加官、三年、東昏侯の乱行を避けて輿で逃げたことがきっかけで病が重くなり卒した。五十五歳、金紫光禄大夫を追贈された。