南齊書卷四十七 列傳第二十八 王融

出自と初任

  • 字は元長、琅邪臨沂の人。祖父僧達・曽祖父はいずれも台輔(宰相級の官)を歴任した家柄で、僧達は宋の孝武帝に「亡父・亡祖は司徒・司空であった」と答えたことがある。父の道琰は廬陵内史。母は臨川太守謝惠宣の娘で、聡明な婦人として融に読み書きを教えた。
  • 若くして俊才で博学、文才があり秀才に挙げられ、晋安王南中郎の板行参軍となるが公事で免官、竟陵王司徒の板法曹行参軍を経て太子舎人に遷る。父の官途が振るわなかったため、若くして自ら家業を興そうと世祖(武帝)に上疏し、自薦を願い出た。

従叔王儉との関わりと諸官歴

  • 秘書丞に遷る。従叔の王儉が儀同三司を授かった際、融は詩と書を贈って祝したところ、儉は「穰侯の印もすぐに解けるだろう」と評し、その才を警戒した。
  • 丹陽丞・中書郎を歴任。北魏(虜)が書物を求めた際、朝議は与えない方針であったが、融は「北魏は禽獣同然で信を置けない相手であり、書を与えれば侮りを招く」と長文の上疏で反対した。世祖は「我が意も同じだ」と答えたが、結局この件は実行されないまま終わった。

北伐の建言と曲水詩序

  • 永明末、世祖が北伐を志し毛惠秀に漢武帝北伐図を描かせ、融にその事務を掌らせた。功名を好む融は、封禅・北伐の意義を説く長大な上疏を奉り、自ら先鋒として出征したいと願い出た。図が完成すると琅邪城の射堂の壁に掲げられ、世祖はしばしば行幸のたびにこれを見た。
  • 永明九年、芳林園の禊の宴で世祖の命により曲水詩序を作り、華麗な文藻で当代に称えられた。十一年、北魏使者接待の主客を兼ねることになり、使者宋弁と問答し、曲水詩序の評価や北魏献上の馬の質の低さを巡って論戦し、弁を言い負かした。融は自らの家柄・才能を恃み、三十歳前に公輔の位に昇ることを望み、「車前に八騶(先導の従者)を連ねられねば、丈夫と言えようか」と嘆いた。

竟陵王子良擁立の企てと誅殺

  • 雍州刺史王奐討伐に際し、融は上疏して自ら兵を集め訓練することを願い出た。竟陵王子良が東府で募兵した折には寧朔将軍軍主に任じられ、江西の傖楚(荒くれ者)数百人を集めて重用された。融は子良と特に親交が深かった。
  • 世祖が危篤となった際、子良は殿内におり、皇太孫(後の鬱林王)はまだ入っていなかった。融は戎服のまま中書省の閤を占めて東宮の兵の進入を阻み、子良の擁立を図った。しかし世祖が蘇生して太孫が入り、政務は高宗(蕭鸞)に委ねられた。融は「公(子良)は私を誤らせた」と嘆き服を脱いで退いた。
  • 鬱林王即位後十余日で融は廷尉獄に下される。中丞孔稚珪の弾劾により、性格の険しさ、不逞の徒を集めたこと、権勢を弄したことなどが糾弾された。融は答弁書で、募兵は先帝・司徒の命によるものであり不逞の企てではないと弁明したが容れられず、獄中で死を賜った。時に二十七歳。
  • 臨終、「もし百歳の老母のためでなければ、一言申し上げたいことがあった」と嘆いた(鬱林王が東宮時代に犯した過失を指弾したかった意という)。捕縛の際、朋友・部下も北寺獄で相次いで尋問された。融は子良に助けを求めたが、子良は憂懼して救わなかった。融の文集は後世に伝わった。