南齊書卷四十六 列傳第二十七 蕭恵基

使者としての功績

  • 蕭恵基は南蘭陵蘭陵の人。祖父源之は宋の前将軍、父思話は征西将軍儀同三司。幼くして外戚として江夏王義恭にその慎重な人柄を賞され、娘を娶わせられた。解褐著作佐郎征北行参軍尚書水部左民郎を経て湘東内史として出、奉車都尉撫軍車騎主簿を歴任。泰始初年、兄で益州刺史の恵開が朝命に逆らったとき、明帝は恵基を使者として蜀に遣わし旨を伝えて慰労させ、恵開は降ったが益州の土人が反乱を起こし氐族の賊が州城を囲んだ。恵基は城外で朝廷の威信と褒賞を宣示し、これに応じた氐人の邵虎・郝天賜らが賊帥馬興懐を斬って降った。太子中舎人として還る。
  • 蜀への使いに従った千余の部曲がこぞって論功を求めたが、恵基は勲簿を毀って除き、誰にも功を認めなかった。ある人がその意図を問うと「もし彼らの労を論じれば、際限なく駆り立てることになる、それは私の本意ではない」と答えた。武陵内史中書黄門郎として出、隷書と奕棊に巧みで太祖と親しく、早くから互いに認め合っていた。桂陽王の乱の際、恵基の姉が休範の妃であったため、太祖は「卿の家の桂陽がまた賊となったな」と言った。太祖が新亭の塁に陣を布くと恵基は軍副とされ、弟の恵朗は休範に加担して攻め寄せたが、恵基は城内にあって少しも疑われなかった。

太祖・世祖期と晩年

  • 豫章太守として出、還って吏部郎、長兼侍中に遷る。袁粲・劉秉が挙兵した夜、太祖は秉が恵基の妹婿であることから、侍中省に直宿していた恵基の様子を王敬則に探らせたが、恵基は平静で秉と通じておらず、これにより一層の信任を得た。沈攸之討伐で輔国将軍を加えられ新亭に陣を移し、事が鎮まると軍号を解いて長水校尉を領した。母の喪で去官。
  • 太祖の即位で征虜将軍衛尉となり、就任してまもなく重ねて解任を願い出て許され、服闋して征虜将軍東陽太守加秩中二千石となった。四郡を歴任したが蓄財することはなかった。還って都官尚書、転じて吏部を掌る。永明三年、久病により侍中領驍騎将軍に転じた。尚書令王倹は朝の重鎮であったが、恵基は同じ礼閤にあっても公事以外で私的に会うことはなかった。五年、太常に遷り給事中を加えられた。宋の大明以来、世に好まれる音楽は鄭衛の淫俗が多く雅楽正声を好む者は稀であったが、恵基は音律に通じ、とりわけ魏の三祖(曹操・曹丕・曹叡)の曲や相和歌を好み、演奏を聴くたびに深く悦んだ。
  • 当時の囲棊の名手には、琅邪の王抗(第一品)、呉郡の褚思荘・会稽の夏赤松(ともに第二品)がおり、赤松は速さと大局観に、思荘は遅さと局地戦の巧みさに優れた。宋の文帝の代、羊玄保が会稽太守となった際、帝は思荘を東に遣わし玄保と対局させ、その局面図を作らせて自ら覆盤させたことがある。太祖は思荘と王抗を対戦させたが、朝から日暮れまでかけて一局がようやく終わり、上は疲れて先に退いたが、局は五更まで続き、抗は局の後ろで眠り込んだのに対し思荘は明け方まで眠らなかった。世間では、思荘の品位が高いのはその思考の深さと持久力によるとも言われた。抗と思荘はともに給事中に至った。永明中、抗の棊品を評定する勅が出され、竟陵王子良は恵基にその事を掌らせた。
  • 父思話がかつて曲阿に閑寂な趣のある邸を建てていたことから、恵基は常々親しい者に「子女の婚嫁が終われば旧廬に帰り晩年を過ごし、身を退いて質素に暮らしたい」と語り、朝廷はこれを善士と称えた。翌年、五十九歳で卒し、金紫光禄大夫が追贈された。

恵休・恵朗――恵基の弟たち

  • 弟の恵休は永明四年に広州刺史の任を終えて帰る際、財を傾けて献上物を捧げた。上は中書舎人茹法亮に「蕭恵休に問うがよい、以前私が卿を遣わして、私禄で献上に足るようにと勅を伝えさせたはずだが、今回は明らかに前任者たちより厚い、私的に蓄えたものではないのか、分けて受け取ろうと思う」と敕した。十一年、輔国将軍南海太守から徐州刺史となり、鬱林王即位で冠軍将軍に進号、建武二年、虜が鍾離を囲むと恵休は防戦し、虜の使者仲長文真が「聖上はまさに文徳を修めておられるのに、なぜ城を固めて命に逆らうのか」と言うと、参軍の羊倫は「獫狁(北方異民族)の猛威が激しいゆえ、これに応じているまでだ」と答えた。虜は攻城したが恵休はこれを撃退した。侍中領歩兵校尉に遷り建安県子に封ぜられ食邑五百戸。永元元年、呉興太守に徙り右僕射に徴された。呉興郡の項羽神は古来酷烈と言われるが、世人は恵休が神に謹んで仕えたゆえに美事な昇進を得たと噂した。二年に卒し、金紫光禄大夫が追贈された。
  • 恵休の弟恵朗は騎馬に巧みで、かつて桂陽王の乱に加わったが太祖に赦され、再び用いられた。永明九年、西陽王征虜長史行南兗州事となったが、典籖の何益孫が百万に及ぶ贓罪を犯して棄市に処された事件に連座して免官された。

史論

  • 史臣は言う。上宰に対して長揖するのみで拝跪せず、公卿の前でも直言を憚らぬ気概は、古来「遺直」(古の直臣の遺風)と称えられ、稀ではあるが過ぎたるものではない。ただ、後ろ盾なく地位も危うい中でその志を屈しなければ、道は行われても身は永く廃されることが多いため、多くは道を借りて世に容れられるよう、言葉を控え自らを低く見せるものだ。しかし高潔な家系や世業を誇る者は、そうした迂遠な手立てを借りずとも、まっすぐな手綱を執って世を進み、それを阻む者はいない。王秀之が家風を世々守り、権門に節を屈しなかったのは、実に美事と言うべきである。

  • 秀(王秀之)は朝廷にあって心清く自らを正した。伯宝(王慈)は世族の栄えを家の美とした。約(蔡約)は先祖の業を守り、進退の分を弁えた。慧曉(陸慧曉)は貞節篤実、まさに君子と呼ぶべき人であった。恵基(蕭恵基)は温和にして、時に選ばれる士であった。