出自と任官
- 蔡約は字を景撝といい、済陽考城の人。祖父廓は宋の祠部尚書、父興宗は征西儀同。若くして宋孝武帝の娘安吉公主を娶り駙馬都尉を拝した。祕書郎は拝さず、順帝の車騎驃騎行参軍通直郎を経て太祖の司空東閤祭酒太尉主簿に遷った。斉台建つと世子中舎人となり東宮に随伴、鄱陽王友、竟陵王鎮北征北諮議領記室、中書郎司徒右長史黄門郎領本州中正を歴任、新安太守として出、再び黄門郎領射声校尉通直常侍領驍騎将軍太子中庶子領屯騎校尉に転じた。
- 永明八年八月、日食のあった日、約は省中で武冠を脱ぎ剣を解いて眠り、太鼓が鳴っても起きなかったため有司に奏され贖論となったが、太孫が立つと校尉如故に復した。宜都王冠軍長史淮南太守行府州事として出、世祖に「今卿を近藩の上佐とするのは私の期待に応えてもらうため」と言われると、約は「南豫は京師に近く自ずと治まる、私に何ほどのことがありましょう」と答えた。当時、諸王の行事(王府の統括官)はしばしば権限を裁ち割かれたが、約は主佐の間にあって穏やかに事を処した。
- 司徒左長史に遷る。高宗が録尚書として輔政すると百僚は履を脱いで席に着いたが、約だけは履を脱がなかった。帝は江祏に「蔡氏は礼度の家系だからこそ愛でるべきだ」と語ると、祏は「大将軍にも今、揖客(礼を守る客)が現れましたね」と応じた。建武元年、侍中に遷り、翌年、西陽王撫軍長史加冠軍将軍、廬陵王右軍長史将軍如故に徙り、都官尚書に転じ、邵陵王師加給事中、江夏王車騎長史加征虜将軍を歴任したがいずれも拝さなかった。酒を好み淡泊な性で世俗と交わらなかった。太子詹事に遷り、(底本のまま)永明二年、四十四歳で卒し、太常が追贈された。