南齊書卷四十四 列傳第二十五 沈文季
沈文季(字は伯達、呉興武康の人)は宋の司空沈慶之の子。父が景和帝に殺された禍から逃れ、太祖・世祖・高宗・東昏侯の四代に歴仕して重んじられたが、東昏侯期の永元年間、徐孝嗣とともに華林省で毒を賜り死んだ。
出自と少年期
- 沈文季は字を伯達といい、呉興武康の人。父の慶之は宋の司空。文季は若くして寛雅正直の人柄で知られ、孝建二年に主簿として起家、祕書郎に徴され、慶之の勲功により大明五年に山陽県五等伯に封ぜられた。太子舎人、新安王北中郎主簿、西陽王撫軍功曹、江夏王太尉東曹掾を経て中書郎に遷る。
- 慶之が景和帝に殺されたとき、兵仗が邸を囲み子らを収捕しようとしたが、長兄の文叔が「私が死のう、お前は復讐せよ」と自縊して果て、文季は刀を揮って馬を馳せ逃れ、追手も敢えて追わなかった。明帝が立つと文季を寧朔将軍に起用し、太子右衛率、建安王司徒司馬を歴任。赭圻の平定後、宣威将軍廬江王太尉長史、寧朔将軍征北司馬広陵太守として出、黄門郎領長水校尉に転じた。明帝の宴で御史賀咸が酔わぬ者を糾していたとき、文季は酒を拒んで殿を下ろされたことがあった。
太祖期から永明の唐寓之の乱まで
- 晋平王休祐が南徐州となったとき、帝が褚淵に有能な佐官を問うと淵は文季を挙げ、寧朔将軍驃騎長史南東海太守に転じた。休祐が殺され僚佐の多くが近づかぬ中、文季だけは墓を弔いに赴いた。臨海太守として出、元徽初年、散騎常侍領後軍将軍、祕書監を経て呉興太守となった。文季は酒に強く五斗を飲み、妻の王氏(王錫の娘)も三斗を飲んだ。二人で対酌しても政務は滞らなかったという。
- 昇明元年、沈攸之の反乱に際し太祖は文季を冠軍将軍督呉興銭塘軍事とした。攸之はかつて景和帝の命で慶之を殺す使いを務めた因縁があり、文季はこれに応えて攸之の弟新安太守登之を捕らえて処刑し、その宗族も誅した。持節を加えられ征虜将軍に進み、略陽県侯食邑千戸に改封された。翌年、丹陽尹に遷る。斉国建国で侍中領祕書監、建元元年に太子右衛率侍中如故、西豊県侯食邑千二百戸に改封された。
- 文季は威風堂々として立ち居振る舞いに優れ、当代の貴望である司徒褚淵が門地でこれを裁とうとしたが、文季は屈しなかった。世祖が東宮で玄圃の宴を開いた際、文季はしばしば淵に酒を勧め、淵が不快に思い世祖に「文季は自分がかつて淵の郡出身だったからと言って酒を勧めている」と啓すると、文季は「桑梓には敬うべきだが、亡国失土して郷里も忘れた閣下のような者とは違う」と言い返した。虜の動向の話になると、淵が「陳顕達・沈文季なら辺事を任せられよう」と言ったが、文季は将門と呼ばれるのを嫌って怒り、世祖に「褚淵は忠臣を自任するが、死んだとき宋の明帝にどんな顔で会うつもりか」と啓した。世祖は「沈率は酔っている」と笑い、中丞劉休がこれを問題視するも原免された。豫章王の北宅での宴でも、淵が琵琶で明君曲を弾じると、文季は席を立ち「沈文季は伎人にはなれぬ」と大声で唱え、豫章王嶷が「阮咸の徳を損なうものではない」と取りなし事なきを得た。
- 征虜将軍侍中、散騎常侍左衛将軍征虜如故を経て、世祖即位で太子詹事常侍如故、永明元年、左将軍呉郡太守として出、三年に平東将軍、四年に会稽太守となった。折しも連年の検籍で百姓の怨嗟が高まっており、富陽の唐寓之が桐廬に僑居し祖伝の墓地に王気があり山中で金印を得たと吹聴して人心を惑わし、三年冬、四百人の徒党を率いて新城で商旅を遮断し富陽を襲うなど乱を起こした。文季は救援の兵仗を発して銭塘を守らせたが、寓之は銭塘に迫り郭邑を焼いた。文季はさらに呉・嘉興・海塩・塩官の民丁を発して防戦させたが、諸県の令は次々と逃走し、寓之はついに銭塘で僭号し太子を立て、新城戍を天子宮、県廨を太子宮と称し、弟紹之を揚州刺史とするなど反乱政権を樹立した。
- 東陽太守蕭崇之・長山令劉国重は防戦の末に殺され、崇之は太祖の族弟であったがその節義を追賞され冠軍将軍太守が贈られた。会稽太守王敬則の留守を衝いて偽会稽太守孫泓が山陰を襲おうとしたが、郡丞張思祖の指揮で撃退された。上は禁兵数千・馬数百匹を発して東討させ、官軍は錢塘で一戦して烏合の賊衆を破り寓之を斬った。ただし勝利に乗じた台軍が略奪を行ったため、軍主陳天福は棄市、劉明徹は免官削爵の処分を受けた。御史中丞徐孝嗣は乱の平定に至る郡県の対応の是非を細かく奏上し、逃亡した県令らと踏みとどまって戦った文季・鸞(西昌侯、のちの高宗)らの功罪を区別するよう求め、詔で文季らは贖論・原免とされた(文季は会稽太守への転任を固辞している)。
明帝期から誅殺まで
- 都官尚書加散騎常侍を経て、持節督郢州司州之義陽諸軍事左将軍郢州刺史として出、散騎常侍領軍将軍として還った。世祖に「南方の士人で僕射になった者は久しくいない」と言われた文季は「南風競わずとは今に始まったことではない」と答えた。文季は学問こそ深くなかったが発言には常に文彩があり、応対の巧みさ、とりわけ簺(さいころ遊び)や弾棊(五子を用いる)に長じていた。金紫光禄大夫に遷り親信二十人を加えられ、侍中領太子詹事、中護軍侍中を経て家を府とした。
- 隆昌元年、再び領軍将軍侍中となり、鬱林王の廃立に与った。高宗が文季を江州刺史にしようとし単景儁を遣わして意を伝えたが、文季は年老いて外出を望まないと固辞し、右執法の人事を尋ねた。延興元年、尚書右僕射に遷り、明帝即位で太子詹事を加領、食邑五百戸を増した。尚書令王晏がふざけて「呉興の僕射」と呼ぶと、文季は「琅邪の執法(王晏の出自を揶揄)は卿の家門から出ないようだが」と切り返した。散騎常侍を加えられ僕射如故。
- 建武二年、虜が寿春を侵すと豊城公遥昌が籠城したため、明帝が憂え文季に兵を領し寿春を鎮めさせた。文季は入城すると遊撃の兵を止めて城門を開き備えを厳にしたところ、虜軍はまもなく退き、百姓に損害はなかった。食邑千九百戸に増され護軍将軍を加えられた。王敬則の反乱では兵を率いて湖頭に屯し都路を守った。永元元年、侍中左僕射に転じ、始安王遥光の反乱の夜、遥光は三百人を遣わして文季の邸を襲い都督に担ごうとしたが、文季はすでに台城に戻っていた。翌日、尚書令徐孝嗣とともに戎服で南掖門を守った。時に東昏侯はすでに殺戮を始めており、孝嗣は憂慮して文季と時局を語ろうとしたが、文季はその都度話をそらし取り合わなかった。
- 乱の平定後、鎮軍将軍を加えられ府を置き、侍中僕射如故となったが、文季は世が昏乱に向かうのを見て老病を理由に朝機に関わらぬようにした。甥の昭略が「叔父は六十にして員外僕射の身、自ら免れようとしても叶うまい」と言うと、文季は笑って答えなかった。徐孝嗣が殺された日、文季も先に召し出され、事の成り行きを悟りながら平静に振る舞い、車に乗るとき「この行、恐らく戻れまい」と語り、華林省で死んだ。時に五十八歳、朝野はこれを冤と惜しんだ。中興元年、侍中司空が追贈され諡は忠憲とされた。
甥の沈昭略
- 甥の昭略は剛気の人で、昇明末年に相国西曹となり太祖に賞された。即位後、太祖が王倹に「南士の中で沈昭略は何の職に処すべきか」と問うと、倹は「すでに擬奏がございます」と答え、前軍将軍に転じた。中書郎に遷り、永明初年、太尉大司馬従事中郎、驃騎司馬、黄門郎、南郡王文学(華選)友を歴任、左丞を兼ねた。元年、臨海太守として出、御史中丞、侍中冠軍将軍撫軍長史を歴任。
- 永元元年、始安王遥光が東府で挙兵した際、昭略は城内で捕らえられたが密かに南方に脱出し淮を渡って台城に還った。文季とともに華林省に召され、茹法珍らが毒酒を進めた際、昭略は徐孝嗣を「昏君を廃し明君を立てるのは古今の令典、宰相に才なくこの事態を招いたのだ」と罵り、椀を投げつけて顔を破り「破面の鬼となってやる」と言い放って死んだ。時に四十余歳。弟の昭光は逮捕の報を聞き逃げるよう勧められたが母を見捨てられず捕らえられて殺された。中興元年、昭略に太常、昭光に廷尉が追贈された。
史論
- 史臣は言う。国を治める教えは、食こそ民の天である。食が足り兵が足りてこそ民の信を得る。屯田の策は実に戦守の要である。趙充国の屯田で羌戎を鎮め、韓浩・棗祗が典農の官を建て大佃の議を興したように、辺境の防備と生産の両立は古来の要諦である。徐孝嗣が国境の緊迫した時にあえて実行の見込み薄い策を上表したのは、王に外征の略なく民も疲弊しきっていた状況では机上の空論に終わったが、その志は惜しむべきである。
賛
- 徐孝嗣(文忠)は宰相となる器量を早くから示し、包容力と実務の才があり朝廷に立つに足りたが、豊城(王晏に同じく政変を経た人物になぞらえ)のような歴任栄達も、音儀は輝いても、共に沈む舟のように運命を同じくして消えた。