南齊書卷四十三 列傳第二十四 江斆

江斆(字は叔文、済陽考城の人)は宋の左光禄大夫江湛の孫で、文帝の娘淮陽公主を母に持つ。幼くして名器と評され、孝武帝の娘臨汝公主を娶った。斉建国後は世祖・鬱林王・明帝に歴仕して吏部・国子祭酒等を務め、建武二年、四十四歳で卒した。

年表(3件)

出自と幼少期

  • 江斆は字を叔文といい、済陽考城の人。祖父湛は宋の左光禄大夫儀同三司、父恁は著作郎で太子劭に殺された。斆の母は文帝の娘淮陽公主。幼くして戚属として召見され、孝武帝は謝荘に「この子はやがて名器たる人物になろう」と評した。
  • 若くして美誉があり、桂陽王休範が州に臨んで主簿に辟したが応じなかった。孝武帝の娘臨汝公主を娶り駙馬都尉を拝し、著作郎・太子舎人・丹陽丞を歴任。丹陽尹の袁粲は「風流の絶えぬは江郎の政による」と嘆じ、宴に招いて日夜語り合った。

宋末から斉建国まで

  • 安成王撫軍記室秘書丞中書郎に遷る。庶祖母の王氏が老いて病むと、七十余日間も衣を解かず薬を嘗めて看病し、内官にあってもたびたび侍養を願い出て、朝廷はその朝直を優遇した。安成王驃騎従事中郎に転じる。祖父湛が褚秀之の娘を娶り離縁していた縁で、褚淵が衛軍となると先んじて意を通じ、斆を長史として寧朔将軍を加えた。
  • 順帝の立つや府に従い司空長史領臨淮太守に転じ、のち太尉従事中郎、斉台建つと吏部郎となった。太祖の即位後、祖母の長患いで台閣の職を廃していたことを理由に自ら解官を請うた。
  • もと宋の明帝の勅で、斆は従叔愻の後継として従祖淳の後を継ぐことになっていたが、僕射王倹は「後嗣を立てる礼に小宗を継ぐ文はなく、近世は情に縁って父祖の命によるのみで、孤児となった後に宗族を継いだ例はない」と啓し、江忠簡の胤嗣を託せるのは斆一人のみで他に眷属もいないため本家に戻すべきだと述べ、愻の後継を絶やしたくなければ斆の幼児を愻の孫とすればよいとした。尚書は「間世に後を立てる礼に文なし、荀顗の無子で孫を立てた例は礼を損ねた始まりで、何琦もこの論を立てたが典拠がない」と議し、結局斆は本家に戻り、後継は自ら選ぶよう詔された。

世祖から明帝期

  • 寧朔将軍豫章内史として出、還って太子中庶子領驍騎将軍。未拝のうちに門客が贓利を働いた事件が起き、世祖が使いを遣わし調べさせると、斆はこの客を匿いつつ自ら咎を引き受けたため、上は不興を示したが、王倹の取り成しで疑いは解けた。
  • 永明初年、豫章王太尉諮議領録事、南郡王友、竟陵王司徒司馬を歴任。文辞と囲棋(五品)を好み朝貴中で随一と評された。侍中領本州中正、司徒左長史中正、五年に五兵尚書、翌年輔国将軍東海太守加秩中二千石行南徐州事、七年に侍中領驍騎将軍、都官尚書領驍騎将軍と転じた。王晏が世祖に「江斆は礼閣に返り咎めもなく六軍を兼掌するが、その任は閑職に等しい、名位を上げるべきでは」と啓すると、上は「斆は常に私を悪く言うが、今回何胤・王瑩を門下に戻したのでこの入替えをしたのだ」と答えた。
  • 鬱林王即位で吏部を掌り、隆昌元年、侍中領国子祭酒。鬱林王廃立の日、朝臣は皆宮に召されたが、斆は雲龍門で薬酔を装って車中に吐いて立ち去った。明帝即位で祕書監、さらに晋安王師を改領。建武二年、四十四歳で卒した。遺言で倹約な葬儀を求め賻贈も受けなかったが、詔で銭三万・布百匹が賻われた。子の蒨が父の遺令に従って辞退を願うと、詔は「斆の遺訓は倹をもって終わりを送るもの、その志を立てさせるのがよい」として願いを容れ、散騎常侍太常が追贈され、諡は敬子とされた。