南齊書卷四十二 列傳第二十三 蕭諶

蕭諶(字は彦孚、?–建武二年)、南蘭陵蘭陵の人、太祖の遠縁。世祖・鬱林王の腹心として宿衛・機密を掌握し、高宗による鬱林王廃立を実行したが、驕り高ぶり非望を抱いたと疑われ高宗に誅殺された。

年表(4件)
  • 建元初年勲により安復県男に封ぜられる
  • 永明二年南蘭陵太守となり世祖の兵仗をすべて委ねられる
  • 建武元年領軍將軍左將軍南徐州刺史に転じ衡陽郡公に進爵する
  • 建武二年六月華林園の宴のあと省中に留められ死を賜る

出自と世祖・鬱林王期

  • 蕭諶は字を彦孚といい、南蘭陵蘭陵の人。祖父道清は員外郎、父仙伯は桂陽王参軍。太祖とは絶服の族子にあたる。元徽末年、世祖が郢州にあって京邑の消息を探ろうとしたとき、太祖は諶を遣わして謀を伝えさせ、以後腹心として留めた。
  • 昇明中、世祖の中軍刑獄参軍東莞太守となり、勲により安復県男に封ぜられ食邑三百戸。建元初年、武陵王冠軍・臨川王前軍参軍を歴任し、尚書都官郎建威将軍臨川王鎮西中兵に除せられた。世祖が東宮にあったとき諶は宿衛を領し、太祖が張景真を誅した際、世祖の口啓で助命を乞うたが太祖は許さず、諶は恐れて退いた。
  • 世祖の即位後、大末令として出されるも赴任せず歩兵校尉に除され射陽令を領し、南濮陽太守御仗主に転じた。永明二年、南蘭陵太守となる。世祖は斎内の兵仗をすべて諶に委ね、心膂の密事も参掌させた。世祖が病臥すると諶に側近の宿直を敕し、崩後の遺敕で殿内の事を領させた。
  • 鬱林王は即位すると深く諶を信任し、諶が請暇して外泊すると帝は一晩眠れず、諶が戻って初めて安んじたという。衛軍司馬兼衛尉に転じ、母の喪でも本任に復した。高宗が輔政して諫めごとがあっても、帝は後宮に籠って出ず、諶と蕭坦之を通じてのみ伝わった。諶は高宗に回附して廃立を勧め、諸王の典籤に密令して外部との接触を禁じ、諸王もこれを憚って従った。鬱林王が廃される日、外の異変を聞いた帝は密かに諶を召す手敕を出したが、諶は先に兵を率いて後宮に入り、斎内の仗身も動かなかった。

栄達と誅殺

  • 海陵王即位で中領軍に転じ公に進爵し食邑二千戸、甲仗五十人を給され殿内に月十日入直した。建武元年、領軍将軍左将軍南徐州刺史に転じ扶を給され衡陽郡公に進爵、食邑三千戸。高宗は当初事が成れば諶を揚州刺史にすると約したが、実際に授けられた官がそれと違ったため、諶は「炊いた飯が熟したのに人にくれてやる」と恨み言を漏らし、王晏はこれを聞いて「誰がまた蕭諶の飯茶碗を作ってやるのか」と評した。
  • 諶は勲功を恃んで朝政に干渉し、上は即位の初め左右の腹心を放って諶の言動を探らせ、疑いを深めた。二年六月、華林園の宴で尚書令王晏らと歓を尽くした後、諶だけを残して華林閤に至らせ、仗身に連行させて省中に留めた。上は側近の莫智明を遣わして諶を詰り、「隆昌の際、卿がいなければ今日はなかった。一門で二州を治め兄弟三人が封を受けても報いはこれで十分なはずが、なお恨み言を言うのか」と責めて死を賜った。諶は智明に「天も人もそう遠くない、私と至尊が高帝・武帝の諸王を殺したことを、お前が伝えて回ったのだ、私が死んだ後お前も省で殺されるだろう」と言い残し、秋に至って智明も死に、人々は諶の祟りと噂した。
  • 詔書は、諶が凡庸の出でありながら僥倖により重用され、永明末の恩寵、鬱林の昏乱期の功により内外の権柄を握りながら、驕り高ぶって矯制専断し、ついに宮掖を窺い非望を抱くに至った罪を数え上げ、廷尉に付して刑を正すよう命じた。諶は左道を好み、呉興の沈文猷が「相は高宗に劣らない」と占ったのを喜んだが、この文猷ものちに誅せられた。
  • 諶の兄誕は字を彦偉といい、殿中将軍を経て永明中に建康令となったが、秣陵令司馬廸之と鹵簿を共用した罪で贖論となった。延興元年、持節督司州刺史に転じ、明帝(高宗)即位で安徳侯に封ぜられ食邑五百戸、建武二年に虜の司州侵攻を防いだ功で食邑を増された。左衛将軍に徴されるが、諶が誅されると連座し、司州別駕を遣わされて誅された。諶の弟誄も廃立に与り、建武初年に西昌侯千戸に封ぜられたが、司州の囲みを解いて還ったところで同じく誅された。諶の伯父仙民は太中大夫に至って卒した。