出自と初期の任官
- 周顒は字を彦倫といい、汝南安成の人。晋の左光禄大夫周顗の七世孫。祖父虎頭は員外常侍、父恂は帰郷して官に就かず。若くして族祖の朗に才を認められた。
- 解褐して海陵国侍郎となり、益州刺史蕭恵開に見出されて蜀に赴き、厲鋒将軍・肥郷成都二県令、恵開輔国府参軍を歴任。恵開の性が険峻すぎることをたびたび諫めたが、恵開は「王公も険を設けるもの、用い方の問題だ」と答えた。
- 恵開に従って都に還ると、宋の明帝が言理を好んで顒を殿内に召し親近した。明帝の惨毒な仕打ちに対しては、直諫はせず経典の因縁罪福の話を誦して諫止し、帝もいくらか自制した。
- 安成王撫軍行参軍を経て、元徽初年に剡令として出、恩恵の政で民に慕われた。邵陵王・南中郎などの三府参軍を歴任。太祖の輔政期に引見され、尺牘に巧みで、沈攸之の絶交書には太祖の口授を受けて代筆した。
斉朝での歴任と山陰令時代
- 斉台殿中郎、建元初年に長沙王参軍・後軍参軍・山陰令を歴任。山陰県では旧来、滂民(水利にあたる民)が雑役に徴発されていたが、顒は聞喜公子良に上書し、その困窮ぶりを訴えた。逃亡や自経、自傷して役を逃れる者、督責に泣訴する者の惨状を具体的に述べ、上虞のみ百戸で一滂とし余裕があるが他の県は疲弊していると比較し、制度の是正を求めた。
- 文恵太子の中軍録事参軍、征北府に転じ、太子の東宮では正員郎に還任、始興王前軍諮議として殿省に侍った。
- 顒は言辞明快で音辞に長じ、宮商朱紫の調べのごとく、百家に通じ仏理に特に精しかった。三宗論を著し、空仮名を立てる説と不空仮名を立てる説を互いに難詰させ、さらに仮名空の説で二宗を難ずるという構成を取った。西涼州の智林道人が書を寄せ、この義理は自分が二十歳の頃から抱いていたが久しく世に絶えていたもので、その復興を喜ぶと称賛した。
学芸と清貧の暮らし
- 鍾山の西に隠舎を建て、休沐にはそこに帰った。太子僕・兼著作となり起居注を撰し、中書郎兼著作に遷った。外戚の車騎将軍臧質の家から衛恒の散隷書法を学び工みであった。文恵太子が顒に玄圃の茅斎の壁に揮毫させ、国子祭酒何胤は倒薤書の交換を求めたが、顒は「天下に道あらば丘は易えず」と笑って断った。
- 賓客との会合では席を空けて清談し、聴く者は倦むことを忘れたという。老易にも通じ、張融と出会うと玄言で日を尽くして議論した。
- 清貧寡欲で終日粗食、妻子はあるが独り山舎に住んだ。衛将軍王倹に食を問われ「赤米・白塩・緑葵・紫蓼」と答え、文恵太子に旨い菜を問われ「春の早韭、秋の晩菘」と答えた。何胤も仏法に篤く妻妾を持たなかったが、精進の度を問われた顒は「三塗八難は皆免れ得ぬが」とし、太子に何が累かと問われると「周は妻を、何は肉を」と答え、当意即妙の受け答えで知られた。
- 国子博士兼著作に転じ、太学の諸生はその風雅を慕った。のち何胤も肉食を断ったが、白魚の鮓や糖蟹は生き物を殺した見た目でないとしてなお食したため、顒は学生に議論させた。学生鍾岏は、魚の脯や蟹の糖漬けも屈伸を経てできるもので、車螯・蚶蛎のような外殻の生物であっても慙愧すべきものであり、草木にも劣らぬ扱いは筋が通らないとし、庖厨に用いて構わないと論じた。竟陵王子良はこの議に大いに怒った。
何点への勧め、卒官
- 何胤の兄点も世を遁れ仏に帰依していたが、なお全き菜食には至っていなかった。顒は書を送り、聖人が膳を節したのも茹毛飲血の民の生を思ってのことで無際限に許したわけではないと説き、生を惜しむ心は禽獣にも通じ、輪廻応報の理からいえば殺生の報いは長く苦しいと論じ、菜食に徹するよう勧めた。
- 顒は官にあって没した。ときあたかも王倹が孝経を講じ終えぬうちであったため、曇済を挙げて自らに代え、学者はこれを栄とした。官は給事中に至った。
史論
- 史臣は言う。弘毅にして容儀を存し至仁にして表貌を示す者、あるいは汲黯の剛戆や崔琰の声姿ある者は、雄桀を憚らず時に譏りを招くこともある。張融は志を高く標し俗塵の外に心を託しながらも、人物を論ぜず君に事え友に交わり義を篤くし忠を尽くし、常に名教の内にあった。奇偉の名を言えば虞翻・陸績もこれに独占されるものではない。
賛
- 思光(張融)は矯矯として万里千仞、栄達も黜落もひとしく諧謔とし、連衡を務めて印綬に恋々としなかった。彦倫(周顒)は辞弁苦節にして清韻を保ち、白馬横擒・雲梯独振のごとき気概があった。