南齊書卷三十三 列傳第十四 張緒

張緒(字は思曼、呉郡呉の人)。清簡寡欲な人柄で名望高く、王儉・太祖にも重んじられた文人官僚。周易に通じ、国子祭酒として国学を主宰した(享年六十八)。

年表(6件)

清簡な人柄と栄進

  • 張緒、字は思曼、呉郡呉の人。祖父・茂度は会稽太守、父・寅は太子中舎人。若くして名を知られ清簡寡欲で、叔父の鏡は「この子は今の樂広(清談の名士)だ」と評した。州の議曹従事・秀才に挙げられ、建平王護軍主簿・右軍法曹行参軍・司空主簿・撫軍南中郎二府功曹・尚書倉部郎・都令史などを歴任し、郡県の米穀の事務にあっても超然としてこだわらなかった。
  • 巴陵王文学・太子洗馬・北中郎参軍・太子中舎人・本郡中正・車騎従事中郎・中書郎・州治中・黄門郎を歴任した。宋の明帝は張緒に会うたびにその清淡さを嘆じたという。太子中庶子・本州大中正に転じ、司徒左長史・吏部尚書に遷った際、袁粲は帝に「臣が見るに張緒には正始の遺風がある、宮職にふさわしい」と語り、中庶子・領翊軍校尉に再任され、散騎常侍・領長水校尉、まもなく兼侍中を経て吏部郎に遷り大選に参与した。
  • 元徽初、東宮の選曹が舎人・王儉の格外記室を擬した際、張緒は儉の人柄・門地が兼ね備わっているとして秘書丞への転任を進言し実現した。張緒はさらに侍中・中郎はそのままに遷り、栄禄に恬淡で朝野はその風格を貴んだ。ある時客と閑談し「一生涯『諾』(軽々しい承諾)を言わなかった」と語ったが、これを袁粲・褚淵に告げる者があり、粲・淵は張緒を呉郡太守として出したが、張緒はそのことを全く知らなかった。
  • 祠部尚書に遷り再び中正を領し、太常・散騎常侍を加え、まもなく始安王師を領した。昇明二年(478年)、太子太傅長史に遷り征虜将軍を加え、斉臺が建つと散騎常侍・世子詹事に転じた。建元元年(479年)、中書令・常侍はそのままに転じた。張緒は言葉巧みで名望が重く、太祖は深く敬異した。僕射・王儉は「北方出身者の中で張緒に匹敵する南渡以来の人物はいまい、陳仲弓や黄叔度でさえこれを超えないだろう」と語った。
  • 車駕が荘厳寺に幸し僧・達道人の講義を聴いた際、座席が遠く張緒の言葉が聞こえないため上が席を移そうとすると、張緒は僧達を近くに移させた。まもなく驍騎将軍を加え、上が張緒を右僕射に用いようとして王儉に問うと、儉は「南方出身者がこの職に就くことは従来少ない」と答えたが、その場にいた褚淵は「儉は年少で全て記憶していないのだろう、江左では陸玩・顧和が共に南人としてこの職に就いた例がある」と反論、儉は「晋氏は衰政であり基準にはできない」と応じ、上はこれをやめた。
  • 建元四年(482年)、初めて国学が立てられると張緒は太常卿・領国子祭酒(常侍・中正はそのまま)となった。張緒がこの官に遷った際、王延之が代わって中書令となり、当時の人はこの人選を晋朝の王子敬・王季琰の登用に比した。張緒は周易に通じ深遠な理解で一時に評価され、常に「何平叔(何晏)が理解できなかった易の七つの事は、諸卦の『時義』がその一つだ」と語った。
  • 世祖即位後、吏部尚書に転じ祭酒はそのまま。永明元年(483年)、金紫光禄大夫・領太常に遷り、翌年南郡王師を領し給事中を加える。永明三年(485年)、太子詹事・師はそのままに転じた。張緒が朝見の度、世祖は目でこれを見送り、王儉に「張緒は地位で私を尊ぶのではなく、私は徳で緒を貴ぶのだ」と語った。
  • 散騎常侍・金紫光禄大夫・師はそのままに遷り親信二十人を賜り、重ねて中正を領した。長沙王・晃が呉興出身の聞人邕を州の議曹に用いようとした際、張緒は資格が不釣り合いとして許さず、晃が書佐を遣わし重ねて頼んでも「これは私の郷里・州郷の事だ、殿下はどうして無理強いなさるのか」と正色して拒んだ。
  • 永明七年(489年)、竟陵王・子良が国子祭酒を領した際、世祖は王晏に「司徒(子良)に祭酒を辞させ張緒に授けたい、世論はどう思うか」と敕したが、子良は結局拝さぬまま、張緒が国子祭酒・光禄師中正はそのままで再び領した。
  • 張緒は利を口にせず、財があれば散じ、清談に端座して終日食事をしないこともあった。門生が張緒の飢えを見て食事を用意したが、彼から求めることはなかった。享年六十八で卒し、遺命により蘆葭の轜車(質素な葬送)を用い、霊前には杯水と香火を置くだけで祭を設けなかった。従弟の融は張緒を実兄のように敬い、酒を霊前で酌み慟哭して「阿兄の風流はもう尽きた」と語ったという。散騎常侍・特進・金紫光禄大夫を追贈され諡は簡子。
  • 子の克は蒼梧王(後廃帝)の世に正員郎となり危険な振る舞いで寵を得たが後に廃錮された。克の弟・允は永明中、安西功曹となったが淫行の末に人を殺め伏法した。允の兄・充は永明元年(483年)武陵王友となったが、尚書令・王儉への書簡の言辞が激しかったため御史中丞・到撝の弾劾を受け免官・禁錮となり、論者はこれを儉への恨みによるものとした。
  • 建元初の詔で朝臣の序列を定めた際、右僕射に張岱・褚淵を擬したいと記されていたが、これを過分と見る意見と、忠誠が別にあれば特進で引き立てるべきとの意見が分かれ、詔にはさらに検討するよう記され、両論が併記されたままとなっている。

史論

  • 史臣は言う。王僧䖍は世に稀な度量を持ち、あわせて芸業を修め、満ちることを戒め自ら控えめに振る舞い、諸公と歩調を合わせた点で、実に治世の良相であった。張緒は端正で素朴な気風を持ち、自然と品格が備わり、士大夫が範とする民望であった。緒のような風流の人物こそ、名臣と呼ぶべきであろう。

賛にいう。簡穆(王僧䖍)は長者としてその義は広大であり、音律や書に通じ三台(宰相の位)を調えた。思曼(張緒)は廉潔で静謐、俗塵を絶ち、易の道に心を遊ばせた清らかな才人であった。