南齊書卷三十 列傳第十一 曹虎

曹虎、字は士威、下邳下邳の人、本名は虎頭(?–永元元年、享年六十余)。桂陽王の乱で太祖に見出され、雍州刺史・梁南秦二州刺史など辺境の要職を歴任、北魏孝文帝の降伏勧告を退けたが、晩節は財貨を好み東昏侯に殺害された。

年表(8件)
  • 建元元年479年候官への改封を求めたが監利県に改封された
  • 建元二年480年渦水に入り虜の別営を攻めたが略奪に走った将士が反撃を受け二千人を失った
  • 永明六年488年隔城で荒賊桓天生の大軍を破り偽将帛烏祝を斬った
  • 隆昌元年494年督雍州郢州之竟陵司州之隨郡軍事・冠軍将軍・雍州刺史に遷った
  • 建武四年497年虜の沔北侵攻に際し南陽太守と不和のまま樊城に移った
  • 永泰元年498年給事中・右衛将軍として陳顕達に従い虜討伐に従軍した
  • 永元元年499年始安王遥光の反乱に際し青溪の中橋に屯した
  • 中興元年501年安北将軍・徐州刺史を追贈された

出自と沈攸之の乱前後

  • 曹虎、字は士威、下邳下邳の人。本名は虎頭。宋の明帝末、直廂となり桂陽王の乱で太祖に従い新亭の塁から出撃し先陣で一級を斬って持ち帰り、これにより太祖に見出された。太祖が領軍となると、曹虎は功を訴え防殿隊主に補せられ西斎の直に当たった。
  • 蒼梧王(後廃帝)が廃された翌日、曹虎が外に難を避けようとした時、太祖に東中華門で出会い問われ「明公を頼みたく思っていた」と答え、そのまま直衛に留まった。太祖が東府に鎮すると、曹虎は戴僧静と共に各々白直三百人を領し、累進して屯騎校尉・南城令を帯びる。
  • 石頭平定の功で羅江県男に封ぜられ、前軍将軍。上が受禅すると封邑四百戸に加増、直閤将軍・領細仗主。まもなく寧朔将軍・東莞太守。建元元年(479年)冬、候官への改封を求めたが、尚書は候官の戸数が多いことを理由に監利県に改封した。
  • 建元二年(480年)、游撃将軍・本官のまま。彭沛の義民が挙兵すると曹虎は六千人を率いて渦水に入ったが、沈攸之の横吹一部が京邑から途絶えていたため自ら随行を願い出た。義民の到着が遅れる中、曹虎は虜の別営を攻めて破ったが将士が略奪に走り虜の反撃を受けて二千人を失った。
  • 世祖即位後、員外常侍・南中郎司馬・寧朔将軍・南新蔡太守。永明元年(483年)、安成王征虜司馬に転じ、翌年江州の蛮が動くと尋陽の戍を守り、輔国将軍・伐蛮軍主として尋陽相を兼ねた。世祖は曹虎の「虎頭」の名を卑しいとして改名させた。

永明後半から死没まで

  • 永明六年(488年)四月、荒賊・桓天生が再び虜を引き入れ隔城に拠ると、曹虎は数軍を督して討伐。輔国将軍・朱公恩に騎兵百を率いて先行偵察させたところ賊の遊軍に遭遇し撃破、隔城に進み賊党を包囲したが、虜の援軍到来との報を受けつつも天生の馬歩万余人を迎撃し大破、二千余人を捕獲。翌日隔城を攻略し、偽将・虎威将軍襄城太守・帛烏祝を斬り二千余人を殺し、賊は平氐城を棄てて退却した。
  • 永明十一年(493年)、冠軍将軍・驍騎のまま。翌年、太子左率に遷り西陽王冠軍司馬・広陵太守に転じた。上は「広陵は心腹を要する任だ、卿以外に委ねられる者がいない」と語った。随郡王・子隆が巴東王・子響に代わり荊州となる備えとして西上する際、曹虎は輔国将軍・鎮西司馬・南平内史となり、雍州刺史・王奐の捕縛では歩騎数百を率い間道から襄陽に入り、持節督梁南北秦沙四州諸軍事・西戎校尉・梁南秦二州刺史として出向、まもなく征虜将軍に進号。
  • 鬱林王即位後、前将軍に進号。隆昌元年(494年)、督雍州郢州之竟陵司州之隨郡軍事・冠軍将軍・雍州刺史に遷る。建武元年(494年)、右将軍に進号。二年(495年)督を進めて監となり平北将軍に進号、爵は侯となり封邑三百戸を加増。四年(497年)、虜が沔北を侵すと曹虎は襄陽に軍を集めたが、南陽太守・房伯玉と不和で救援に急がず、樊城に移った。
  • 虜主・元宏(北魏孝文帝)は曹虎に書を送り、漢化を進める自らの統治と南北の分裂を嘆き、降伏を促す長文の詔書を送った。曹虎は返書で、中原の混乱と自国の正統性を述べ、和議は望まず備えを固めるとの意を伝えた。
  • 永泰元年(498年)、給事中・右衛将軍に遷り、節を持して都督・陳顕達に隷し襄陽に停まり虜を伐つ。度支尚書・崔慧景が鄧地で虜を大破し沔北まで追撃したが、元宏は十万の大軍と羽儀華蓋を連ね樊城を包囲、曹虎は門を閉ざして固守した。虜は城から数里に営を張り氈屋を設け再度樊城を囲んだが、沔水を望んで襄陽の岸を見ると去った。曹虎は軍主・田安之らに追撃させ多くの傷を与えた。
  • 東昏侯即位後、前将軍・鎮軍司馬に遷る。永元元年(499年)、始安王・遥光が反乱すると曹虎は青溪の中橋に屯し、事後、散騎常侍・右衛将軍に転じた。曹虎は体格が剛毅で人を誘い受け入れることに巧みで、食客は常に数百人に及んだ。
  • 晩節、財貨を好み吝嗇となり、雍州在任中に見銭五千万を蓄え、伎女には醤菜のみを食べさせ贅沢を許さなかった一方、風景を好むと庫を開いて散財した。帝は曹虎が旧将であることを疑い、その財を利する目的で新任の除授前に殺害した。享年六十余。和帝(蕭宝融)の中興元年(501年)、安北将軍・徐州刺史を追贈された。

史論

  • 史臣は言う。鴻門の会で漢の高祖が難を脱したのは樊噲の気迫によるものであり、降を受け軍を饗するには虎侯(樊噲の異名)の力に頼った。この猛毅を観るに、必ずしも車を投げ轅を挟んで敵を破らずとも、勝敵に至るものがある。桓康の勇名が江・蠡(長江・彭蠡)の地を震撼させた所以である。
  • 賛にいう。薛淵は親愛を辞して身を淮涘(太祖)に帰した。戴僧静は千秋に類する言をもって帝子(袁粲斬殺の逸話)を興した。桓康は勇猛、焦度は爪牙の士であった。曹虎は西辺を守ったが北鄙で功を欠いた。