南齊書卷二十四 列傳第五 張瓌

張瓌、字は祖逸。呉郡呉の人。祖父張裕は宋の金紫光禄大夫、父張永は右光禄大夫で音律に通じた。昇明元年、劉秉の弟劉遐を計略で捕殺し太祖蕭道成に功を立てた。以後、地方官・侍中などを歴任し、たびたび病を称して要職を避けた。晩年は東昏侯の乱・梁の受禅まで生き延び、天監四年に没した。

年表(7件)
  • 昇明元年太祖の命により劉秉の弟劉遐を計略で捕殺する
  • 建元3年烏程令顧昌𤣥の罪に連座して免官となる
  • 建元4年度支尚書となる
  • 永明10年太常に転じるが病を理由に辞し光祿大夫となる
  • 建武2年虜の侵攻に備え仮節督廣陵諸軍事・行南兗州事となる
  • 永元3年義師が東昏侯を討つと石頭を守るも、義師到着で城を捨てて宮中に逃げ戻る
  • 天監4年梁において光祿大夫として卒す

出自と若年

  • 張瓌、字は祖逸。呉郡呉の人。祖父の裕は宋の金紫光禄大夫、父の永は右光禄大夫で音律に通じ、孝武帝が太極殿前の鐘の音が嗄れる理由を問うと、永は「鐘に銅滓がある」と答え、その場所を削り取ると音が清らかになった。
  • 瓌は江夏王太尉行參軍として初出仕し、署外兵、太傅五官に転じ義恭に重用され、太子舎人・中書郎・驃騎從事中郎・司徒右長史を歴任。かつて父の永が桂陽の賊を白下で防いだが潰散した際、阮佃夫らが罪を加えようとしたのを太祖が固く弁護し、瓌はこれに恩を感じ太祖に心を寄せた。通直散騎常侍・驍騎將軍に転じ、父の喪に服し呉に帰った。

劉遐討伐と太祖への功

  • 昇明元年、劉秉が異図を懐き、弟の劉遐が呉郡でこれに呼応、沈攸之の挙兵に乗じて衆3千人を集め攻具を整えた。太祖は密かに殿中將軍卞白龍を遣わし瓌に遐の討伐を命じた。張氏一族は元来豪気で知られ、瓌の邸には父の代からの旧部曲数百人があった。
  • 遐が瓌を召すと、瓌は偽って命を受けたふりをし、叔父の恕とともに兵18人を率いて郡府に入り、防郡隊主の彊弩將軍郭羅雲と共に中斎で遐を捕らえようとした。遐は窓から逃げようとしたが瓌の部曲顧憲子がこれを斬った。郡内では誰も動く者がなかった。
  • 太祖はこの捷報を領軍張沖に伝えたところ、沖は「瓌は百口の命を賭けて成功を得た」と評した。瓌は輔國將軍・呉郡太守に任じられ、義成縣侯・食邑千戸に封ぜられた(太祖は「義成」の嘉名をあえて授けた)。以後、冠軍將軍東海東莞二郡太守(赴任せず)、建元元年に食邑2百戸を加増、後に平都に改封、侍中・領歩兵校尉、都官尚書領校尉を歴任。

地方官歴と晩年

  • 出て征虜將軍・呉興太守となったが、建元3年、烏程令顧昌𤣥の罪に連座して免官。翌年、度支尚書。世祖即位後、冠軍將軍・鄱陽王北中郎長史・襄陽相・行雍州府州事、征虜長史に転じ、建元4年、持節督雍梁南北秦四州郢州之竟陵司州之隨郡軍事・輔國將軍・雍州刺史・寧蠻校尉を兼任、後に左民尚書領右軍將軍、冠軍將軍・大司馬長史に遷った。
  • 永明10年、太常に転じたが病を理由に閑職を願い、翌年散騎常侍・光祿大夫。世祖は瓌を再び用いようとし後將軍・南東海太守(秩中二千石)・行南徐州府州事・行河東王國事としたが、瓌は再び病を称して辞め、散騎常侍・光祿大夫に戻った。鬱林王即位で金章紫綬を加えられ、隆昌元年に親信20人を賜った。鬱林王廃立の際、朝臣が高宗(蕭鸞)へ参内する中、瓌は脚の病を理由に出仕しなかった。海陵王擁立の際は右將軍を加えられたが、高宗が外藩の挙兵を疑い瓌を石頭に配して衆軍を督させると、瓌は朝廷の多難を見てひたすら病と称して臥した。
  • 建武元年、給事中・光祿大夫に転じ親信はそのまま、月に銭2万を加給された。建武2年、虜が盛んに侵攻すると本官のまま仮節督廣陵諸軍事・行南兗州事となり、虜が退くと帰任した。瓌の家は豪富で伎妾が多く、子は十余人あり「その中に良い者がいるはずだ」と常に語った。建武末年、しばしば高宗に呉への帰還を願い許され、悠々自適を楽しんだ。老いて伎楽を蓄えることを誹る者に「私は若い頃から音律を好み、老いてようやく理解できるようになった。生涯の嗜欲はほとんど失ったが、これだけは手放せない」と答えた。
  • 高宗の病が重くなると、大司馬王敬則の謀反を警戒して瓌の武略を頼み平東將軍・呉郡太守に任じ備えとしたが、敬則の反乱時、瓌が派した将吏3千人は松江で敬則軍の鼓声を聞いて散走し、瓌自身も郡を捨てて民間に逃れた。事態鎮定後、有司の弾劾により免官・削爵。
  • 永元初年、光祿大夫に復帰、まもなく前將軍・金章紫綬を加えられる。永元3年、義師(蕭衍軍)が東昏侯を討つと、東昏侯は瓌に節を仮して石頭を守らせたが、義師が新亭に至ると瓌は城を捨てて宮中に逃げ戻った。梁の初め、再び光祿となり、天監4年に卒した。

史論

  • 史臣曰く――文をもって衆を懐け、武をもって威を立てるのが元帥の才であり、国家の輔弼と称される。沈攸之は10年にわたり兵を治め、白髪の身で事を起こし、荊楚を根拠に長江下流を脅かした、これは帝王にとっての大敵であった。栁世隆は中夏に位置しながら年若く地位も軽い身で、初めて全軍の攻撃に抗し孤城で敵を迎え、埤に臨んで策を授けるのみで馬に汗をかかせることもなく強敵を挫き、敵は堀を崩され先を争って敗走した――郢の戦は陸遜の玄徳撃破にも劣らぬものであった。世が治まった後は方面に出て内は風雅な人柄で、雅徳をもって身を処し、まことに家門を興す美事であった。
  • 贊に曰く――忠武(世隆)は匡輔の才を兼ね備え、廟堂で理を析き高塁で旗を奪った。芸を遊び術を善くし、絃を安んじ亀を占う。義成(瓌)は封地に功を立て、土功をもって帝業の基を築いた。