出自と若年期
- 王儉、字は仲寳、琅琊臨沂の人。祖父の王曇首は宋の右光禄、父の王僧綽は金紫光禄大夫。儉が生まれた時、僧綽は既に害に遭っており、叔父の王僧虔に養われた。数歳で豫章侯の爵を襲い、茅土を拝受する際に涙を流した。幼くして神彩があり、専心篤学で手から書を離さなかった。
- 丹陽尹袁粲がその名を聞き明帝に言上し、陽羨公主を尚り駙馬都尉を拝した。帝は儉の嫡母武康公主が太初の巫蠱事件に連座していたため、婦姑の関係にできぬとして塚を開いて離葬しようとしたが、儉は人を通じ密かに死を以て請うたため、旧事は行われなかった。
- 解褐して祕書郎・太子舍人となり、祕書丞に超遷。上表して墳籍を校し、七畧に依り『七志』四十巻を撰し上表して献じた(表辞は甚だ典雅であった)。また元徽四部書目を撰定した。母の喪が明けると司徒右長史となった。晋令では公府長史は朝服を著るとされたが、宋の大明以来朱衣を著るのが慣例となっており、儉は旧に復すべきと上言したが、議は許されなかった。
- 蒼梧王の暴虐に憂懼した儉は袁粲に告げて外任を求め、晋の新安主壻王獻之が呉興に補された例を引いて義興太守となった。還って黄門郎、吏部郎に転じた。
太祖擁立への関与と斉建国
- 昇明二年、長史に遷り侍中を兼ねたが、父の終焉の職であることを理由に固辞した。儉は太祖の英異なる器量を領府(衣裾)の頃から観察しており、太祖が太尉となると右長史に引かれ、恩礼は隆密で専ら任用され、左長史に転じた。太傅の授任は儉の唱によるものであった。若くして宰相の志があり、大典が行われる際には佐命の礼儀・詔策は皆儉から出た。褚淵は禅詔文の作成のみを担い、儉がこれを参治した。
- 齊臺建設で右僕射・領吏部に遷った時、年二十八。太祖は従容として「私は今日、青溪を以て鴻溝としよう」と儉に語ると、儉は「天応じ民順えば、楚漢の争いのようなことは無いでしょう」と答えた。
- 建元元年、南昌縣公・食邑二千戸に改封された。明年、左僕射・領選如故に転じた。
- 上が宋明帝の紫極殿を壊しその材木の柱で宣陽門を起こそうとした際、儉は褚淵・叔父僧虔と連名で上表し、「徳は身の基、倹は徳の輿。春臺が立てられた時は晋の卿が議を秉り、北宮が造られた時は漢の臣が規を尽くした。彼ら二君は列国の常侯・守文の中主に過ぎなくとも諫諍を悦んだ。陛下は聖哲応期の身であり、臣らの職掌はなお重く、あえて前誥を藉りて心を陳べます。陛下は登庸宰物・節省の教えを既に明らかにされ、竜袞の簡約も遠く広まっていますのに、乾華の外に采椽不斲の宣陽門を紫極殿の故材で作るとは、臣らには理解できません。股肱の疾を心に移すのは良医の美事ではなく、影迹を畏れて奔走するのは静処の道ではありません。まして三農の時期に土木の役を興すのは大猷を宣昭する所以ではありません。門が宮の南、重陽の位置にあり年月久しく朽ちてきたのであれば、随宜に修理すればよく、大掛かりな改作の煩は止めるべきです」と諫めた。上は手詔で「所啓は誤りではなく施行を許す」と答えた。
- 宋代、外の六門には竹籬が設けられていたが、この年に白虎樽を発いた者がおり「白門は三重門で竹籬が破れ完全でない」と言われ、上は感じて都墻に改立した。儉が重ねて諫めると、上は「私は後世にこれ以上を加えさせぬつもりだ」と答えた。朝廷が基を初めて制度が草創であった頃、儉は旧事に精通し問われて答えぬことがなく、上は「詩経に『維嶽降神、生甫及申』とあるが、今もまた天が我のために儉を生んだのだ」と嘆じた。
- その年、儉は選挙の任の辞退を固く請い、表して「臣は遠く終古を尋ね近く身事を察するに、恩幸を邀るる者にその比を見ません。子房(張良)が漢后に遇い公達(荀彧)が魏君に逢った例は史籍の美談とされますが、二臣は王佐の才を以て私を交えず君主に仕えたもの。ひるがえって臣は宗を傾け元を殞ぼしても塵露に益あるならなお志を尽くすべきところ、況んや形飾を狥うるに忍びましょうか。九流の要は風猷が先立ち玉石朱素はこれにより定まるもの。臣も文案の微解が全く無いわけではありませんが、品裁臧否には未だ習熟していません。前代の掌選も必ずしも代々在るとは限らず、今日臣でなければならぬわけではありません。心を傾けて国に奉ずるのに退譲を用いず休戚を共にするに位任を待つ必要がありましょうか」と述べた。侍中を許されたがこれも固辞し、再び散騎常侍とされた。
- 上が群臣を曲宴した折、数人にそれぞれ技芸を披露させ、褚淵は琵琶を弾き、王僧虔は琴を弾き、沈文季は子夜歌を歌い、張敬児は舞い、王敬則は拍張(手を打つ芸)をした。儉は「臣に能はなく、ただ書を誦すのみです」と言って上前に跪き、司馬相如の『封禪書』を誦じた。上は笑って「これは盛徳の事だ、私にはとても堪えられない」と述べた。後に上が陸澄に『孝経』を誦させ「仲尼居」から始めさせると、儉は「澄は博くして要を欠く、臣に誦させてください」と言って「君子之事上」の章を誦じ、上は「善い、張子布(張昭)もこれには及ばないだろう」と評した。
- まもなく本官のまま太子詹事を領し兵二百人を加えられた。上(太祖)崩御に際し遺詔で儉を侍中・尚書左僕射・鎮軍將軍とした。世祖即位後、班劍二十人を給された。永明元年、衛軍將軍に進号し選事に参掌した。二年、國子祭酒・丹陽尹を領した(本官如故)。鼓吹一部を給された。三年、國子祭酒を領する中、叔父僧虔が亡くなり、儉は解職を表したが許されなかった。また太子少傅・本州中正を領し丹陽尹を解いた。旧来太子には二人の傅がともに礼遇されていたが、この時朝議で少傅に賓友の礼を用いることとした。
- この年、總明觀を省き儉の宅に学士館を開き、四部の書を儉の家に充てた。また詔で儉に家を府とすることを許した。四年、本官のまま吏部を領した。儉は礼学に長じ朝儀に精通し、博議のたびに先儒を証引して比類がなかった。八座丞郎に異を唱えられる者なく、令史が事を諮る賓客が満席するほどであったが、儉は応接し銓序して滞ることがなかった。十日に一度、学に還り諸生を監試し、巾卷が庭に並び剣衛・令史の儀容も盛んで、儉自ら解散した髻を斜めに簪す姿を朝野が慕い相い放効した。儉は常々「江左の風流宰相はただ謝安のみ」と語り、自らをこれになぞらえていた。
- 世祖は深く儉に委仗し、士流の選用の上奏はことごとく可とされた。五年、本号のまま開府儀同三司となったが固辞した。六年、重ねて前命を申された。これより先、詔で儉は三日に一度朝に還り、尚書令史も外に出て諮事することとされていたが、上は往来の煩わしさから儉を尚書下省に還らせ、月に十日のみ外出を聴すこととした。儉は選の解任を願い出たが許されなかった。
- 七年、儉は上表して「臣は比年選を辞し天朝に款言を尽くし丹誠は朝野に布いているが、聖心の矜納には未だ至っていない。知慧が明に及ばぬことを知り微躬に求めるのはこの理にかなうこと。妄庸の身が浮沈もなく休泰に偶々恵まれ康衢を践んだのは、秋葉が風を借りずに条を辞し太陽が景を昇らせるのに螢の光を待たぬようなもの。晦往明来、五徳は遞に運り、聖も独治せず八元の亮采(賢臣の登用)を必要とします。臣はその時に逢い位を叨り、常に端右を総べ両朝にわたって銓衡を管し、歳月は既に一紀を経て盛年もすでに老い、孫子の代に人物も移り逝く者は既に半ばに及びます。三考しても聞こえるものなく、九流も寂寞として能官の詠は当世に響かず、大車の刺(詩経の風刺)が来る日に興らんとしています。貂を珥し袞を衣る貴、四輔六教の華は、職務が簡ならば匪服とはいえ勉励できましょうが、品藻の任だけは夙宵に力を尽くしても常に用いられず、歳月の久しきこと近世に類を見ません。これは臣一身の悔いに留まらず国にも塵を及ぼすもの。今、多士は朝に満ち群才は選を競っています。古よりこの任に耐えうる者があったでしょうか。あえて微翰を陳べるのは天の照覧を希うのみです」と述べ、至敬に文を要さぬとして、中書監に改領し選事の参掌を許された。
- その年、疾を得て上自ら見舞ったが薨じた。年三十八。吏部尚書王晏が儉の喪を上啓すると、上は「儉は年徳ともに富み志用もまさに隆んであったのに、暴疾を思いもよらず救護がかなわず、たちまち世を異にしてしまった。この痛酷は深く、契闊艱難の運は常に懐に重く、これを尋ねるたびに悲切に堪えない。痛ましいことよ、往きしことよ」と答えた。詔で衛軍の文武及び臺の兵仗を悉く停め葬儀を待つこととした。
- また詔で「慎終追遠は列代の通規、襃徳紀勲は恒策より峻しい。故侍中・中書令・太子少傅・領國子祭酒・衛軍將軍・開府儀同三司・南昌公儉は体道秉哲、風宇淵曠、若齢より清猷が遠く挙がり、登朝応務は民望の帰する所であった。草昧の皇基を協隆させ鼎祚の宏謨盛烈は彜篆に銘記され、朕の躬を賛けた徽績は光茂、忠図令範は必ず彰れ、四門允穆・百揆時序は宗臣の重き情寄を兼ねた常であった。方に正位論道して永く袞職を釐め、この景化を弼けて隆平を賛けるべきであったのに、天は遺さず奄焉として薨逝した。朕はこれに震慟する」とし、太尉・侍中・中書監公如故を追贈し、節を給し羽葆鼓吹を加え、班劍を六十人に増し、葬礼は故太宰文簡公褚淵の故事に依り、冡墓の材官は営辦とし、諡は文憲公とした。
- 儉は嗜欲少なく経国を務めとし、車服は塵素で家に遺財がなく、手筆典裁は当時に重んじられた。若い頃『古今喪服集記』を撰し、文集とともに世に行われた。
- 今上(梁武帝)受禅の際、詔で儉のために碑を立てさせたが、爵は侯に降され千戸とされた。
- 儉の弟遜は昇明中に丹陽丞となり劉秉の事を告発したが封賞を受けなかった。建元初に晉陵太守となり怨言があったため、儉は禍を懼れ褚淵を通じて事を知らせ、中丞陸澄が事に依り挙奏したところ、詔で「儉の一門は世々徳を載せ誠を竭くして佐命した」として遜を刑書から特に宥し、永嘉郡に遠徙されたが、道中で誅に伏した。
史論
- 史臣曰く、褚淵と袁粲はともに宋の明帝の顧託を受けたが、粲は宋氏に殉じて節を全うし、淵は興運(新王朝)に逢って世に非難された。淵を責める者は多いが、あえて論じたい。湯武の跡は堯舜と異なり、伊尹・呂尚の心も稷・契とは異なるように、王朝交代の風規は必ずしも同じ基準で証すべきではない。
- 漢の金日磾・張安世の一族や袁氏・楊氏の鼎貴の家が委質服義したのは漢氏の膏腴に由来した事に始まる。魏の治世は短く、宋の褚淵のように前代に服褐し後朝で宦成する例も、名は魏臣でも実は晋に有するようなもので、主は代わっても臣任は元のまま続いた。これより世禄の盛んな習いが旧準となり、羽儀の隆んな家柄は人がこれを羨慕するようになった。君臣の節はいたずらに虚名を致すのみで、貴仕素資は皆門地の慶に由り、平流のまま公卿に至るため、殉国の感がなく保家の念が切実になるのも当然の理である。
- 寵貴が代替わりし陵闕が変わっても、視線を注がれることに変わりはなく、中行氏や智伯に格別の待遇があったわけでもない。褚淵は宋の泰始の初め、既に運勢が清明で数年のうちに位を得ないことはあり得ぬ立場にあった。民望によって引き立てられ、また民望に従って去ったに過ぎない。爵禄が既に軽く、国に恒選あるからには、恩義は自分一人が独占するものではなく、死を以て人に責めるのは君主も世情も共に誤るところである。
- 賛に曰く、「猗として褚公、徳は素より内に充つ。民の誉れは爽わず、家の称は克く隆んなり。従容として世を佐け、議を貽して匪躬なり。文憲(王儉)は済済として、輔相の体を稱述す。覇王の綱維、典礼の期寄。両朝に綢繆し、宮陛に密なり。」