明史紀事本末暦法を修め明らかにする(修明厯法)
呉元年(1367年)の大統暦の上進から崇禎七年(1634年)の暦局の測儀完成まで、およそ270年にわたる明朝の暦法改修の議論を扱う。劉基が大統暦を上り、洪武年間に欽天監が置かれたが、暦元をめぐって元統は洪武甲子を、李徳芳は元の至元辛巳を主張して決せず、結局は授時の法によって推算し続けた。以後、兪正已・周濂・鄭善夫・華湘・鄭世子載堉・邢雲路らが歳差の累積と交食の不合を指摘して改暦を請うたがいずれも格まって行われず、兪正已はかえって獄に下された。万暦四十一年に李之藻が龐迪我ら西洋人の暦学十四事を紹介し、崇禎二年に徐光啓が暦局を督して湯若望・羅雅谷らを用い、暦法修正十事を掲げて「崇禎暦書」百巻近くを著した。徐光啓の没後は李天経が継いで「暦元」を上り、日晷・星晷などの測儀が完成した。
年表(7件)
- 太祖
- 吳元年〜洪武三年(1367〜)(大統暦の制定と欽天監の設置)1370年劉基が大統暦を上り元の暦官を徴して欽天監を四科に分けて置く
- 洪武十五年〜二十六年(1382〜)(暦元をめぐる論争)1393年元統が洪武甲子の暦元を唱え李徳芳が至元辛巳を守って決着しない
- 英宗
- 正統〜孝宗弘治年間(1449〜)(改暦の議と挫折)1498年兪正已の改暦の議が周洪謨らに斥けられ錦衣衛に治めさせられる
- 武宗
- 正德〜世宗嘉靖年間(1518〜)(歳差論の深化)1524年鄭善夫と華湘が日食の不合から歳差を測候して定めるよう請うが答えがない
- 神宗
- 萬曆二十三年〜二十四年(1595〜)(鄭載堉と邢雲路の改暦論)1596年鄭世子載堉の「律暦融通」と邢雲路の実測の請いがともに格まる
- 萬曆四十一年(李之藻の西洋暦法の紹介)1613年李之藻が龐迪我ら西洋人の暦学十四事を挙げて訳出を請う
- 懷宗
- 崇禎二年〜七年(1629〜)(暦局の開設と崇禎暦書)1634年徐光啓が暦局を督して崇禎暦書を著し李天経が継いで測儀を完成させる
太祖吳元年〜洪武三年(1367〜1370年)(大統暦の制定と欽天監の設置)
- 呉元年冬十一月、太史院使の劉基がその属官の高翼を率いて「戊申大統暦」を上った。
- 洪武元年冬十月、元の太史院使の張佑・張沂、司農卿兼太史院使の成隷、太史同知の郭譲・朱茂、司天少監の王可大・石沢・李義、太監の趙恂、太史院監候の劉孝忠、霊台郎の張容、回回司天監の黒的児・阿都刺、司天監丞の迭里月実の十四人を徴して暦数を修め定めさせた。
- 二年夏四月、元の回回司天台の官の鄭阿里ら十一人を徴して京に至らせ、暦法を議し天象を占わせた。
- 三年六月、司天監を改めて欽天監とし、欽天監の官を設けた。その業を習う者を四科に分けた。天文・漏刻・大統暦・回回暦である。五官正から下は天文生に至るまで、それぞれ科を専らにして肄った。
- 五官正は暦法を理め暦を造る。歳ごとに大統暦・御覧月令暦・六壬遁甲暦・御覧天象七政躔度暦を造る。およそ暦註は御暦三十事、民暦三十二事、壬遁暦六十七事。霊台郎は日月星辰の躔次と分野を弁じて占候する。保章正は専ら天文の変を志し吉凶の占を弁ずる。挈壺正は漏を知り、壺を孔って漏とし箭を浮かべて刻とし、中星と昏明の度を考える。いずれも監の正・丞に統べられた。
洪武十五年〜二十六年(1382〜1393年)(暦元をめぐる論争)
- 十五年、大学士の呉伯宗らに命じて回回暦の経緯度と天文の諸書を訳させた。
- 十七年冬閏十月、欽天監博士の元統が上言した。「臣が聞くに、一代の興には必ず一代の暦があり、時に随って修め改め天道に合わせます。いま暦は大統を名としながら、積分はなお授時の数を踵んでおり、始めを重んじ正しきを敬う所以ではありません。
- 授時の法は至元辛巳を暦元とします。洪武甲子まで積むこと百四年。暦法で推せば三億七千六百一十九万九千七百七十五分を得ます。経に『大約七十年にして一度を差す』といい、毎歳一分五十秒を差します。辛巳から今まで年は遠く数は盈ちて、次第に天度を差します。修め改めるべきです。洪武甲子の歳の冬至を暦元とされたい。
- しかも七政の行には遅疾・順逆・伏見の斉しからざるものがあり、その理は深奥で実に推演しがたい。聞くところ、磨勘司令の王道亨、有司の郭伯玉なる者は九数の学に精明であります。徴して推算させ、一代の制を宣べ昭らかにされたい」。書が奏されて可と報ぜられ、元統を監正に擢した。
- 二十年冬十一月、疇人で年壮んで書を解する者を選んで京に赴かせ、天文推歩の術を習わせた。
- 二十六年秋七月、欽天監副の李徳芳が言った。「故元の至元辛巳を暦元とし、上って往古を推せば百年ごとに一日を長じ、下って将来を験べれば百年ごとに一日を消じます。永久に易えるべからざるものであります。いま監正の元統は改めて洪武甲子を暦元とし、消長の法を用いません。
- 考えるに、春秋の晋の献公十五年戊寅の歳は至元辛巳を距たること二千一百六十三年。辛巳を暦元として推せば天正冬至は甲寅の日の夜子の初三刻となり、当時の実測の数と相合します。洪武甲子の元正は上って献公の戊寅の歳を距たること二千二百六十一年。推せば天正冬至は己未の日の午正三刻となり、辛巳を元とするのに比べて四日六時五刻を差します。至元辛巳を元とし消長の法を用いてこそ天道に合いましょう」。
- 疏が奏されて元統がさらに「臣の推した甲子の暦元は実に旧法に爽うところがありません」と言った。上は「二説はいずれも憑りがたい。ただ七政の交会・行度を験べて差なきものを是とする」と言った。そこで欽天監は洪武甲子を暦元としながら、暦を造るには授時の法に依って初めのように推算した。
英宗正統〜孝宗弘治年間(1449〜1498年)(改暦の議と挫折)
- 正統十四年、己巳の大統暦を造り、冬至・夏至の二至の昼夜を六十一刻としたが、行って疎かった。まもなく廃して行われなかった。学士の楊廉は「漢が興って四百年に三たび暦を造り改め、唐は三百年に七たび暦を造り改め、宋は三百余年に至って十八たび暦を造り改めた。本朝は洪武から今まで百四十年、まだ造り改めていないのに交食は一々験べて爽わぬ。それなら許衡・郭守敬の造った暦は理数が極めて精しく、古今の暦にこれに過ぎるものはないと知れる。これぞ天が桀出の智を生じて国家の暦数無疆の用に予えたものだ」と言った。
- 憲宗成化十七年秋八月、真定教諭の兪正已が言った。「暦象授時は天を敬い民に勤める急務であります。後世、暦法が差を失ったのは、古人の時に随って損益する法を得なかったからです。我が朝は前代の弊政をことごとく革めましたが、ただ暦法だけは議すべきものがあります。
- 臣がひそかに思うに、経伝に載る日月は天下を行く常度で、暦元に本づいて歩算し、さらに陰陽・虧盈の理をもってこれを求めます。験べるに、いまの暦を詳らかに定めれば、成化十四年戊戌十一月一日己丑の子正初刻に合朔・冬至があって日月は天とともに斗宿七度に会し、三十三年丁巳十月一日戊辰の酉正初刻に合朔・冬至があって日月は天とともに再び斗宿七度に会します。いわゆる気朔が分斉して一章となるものであります。
- いま一章十九年七閏の数、冬至・月朔・閏月・節気の年・日・月・時を逐月に開き坐して編んで一冊とし、進上いたします。該部に勅して精しく考訂を加え、なお欽天監に宜しきに従って暦を造って天下に頒布させられたい」。
- 疏が部に下り、尚書の周洪謨、掌欽天監事の童軒が兪正已と参考し講論すること終日、決しえなかった。周洪謨らはそこで「兪正已はただ邵子の皇極経世書および歴代の天文志に拠って気朔を推算し、また前代の術家が歳差を評論した意を祖述しているだけです。古今の暦法にはみなそれぞれ差があると言いますが、天に合うものは差があっても可であることを知りません。いま兪正已は聞いたところに膠り泥んで軽率に妄議しております。法司に下して罪を治められたい」と奏した。詔して錦衣衛に執らえ治めさせた。
- 孝宗弘治十一年、世業の疇人ならびに諸々の暦象・遁甲・卜筮に通じうる者を訪ねた。
武宗正德〜世宗嘉靖年間(1518〜1524年)(歳差論の深化)
- 正徳十三年夏五月己亥朔、日食があったが、起復が合わなかった。日官の周濂が交食を験べて暦元を更めることを請うた。
- 十五年冬十月、礼部主事の鄭善夫が奏した。今年および去年の三たびの月食に臣はみな欽天監の官とともに台に登って観験しましたが、初虧・復円の時刻・分秒は多く占歩と合いません。思うに天道は幽玄でその数は精微、人をもって天に合わせるのはまことにまた易くありません。
- 歳差の法は、晋の虞喜が五十年に一度を差すと定めましたが、久しくして験べれば合いませんでした。何承天は百年、劉焯は七十五年、僧一行は八十三年としましたが、久しくして験べればまた合いませんでした。許衡・郭守敬は六十六年余りと定め、すでに密なるに似ますが、いま法に拠って推演すればなお合いません。天道はどうして言いやすいものでありましょう。
- しかも歳差を定める法は、四期を積んで一日を余し、一日の分を四期に加えます。ゆえに二至の時はただ糸忽を争うのみ。これが定めるべきところであります。また日を定める法は、一日百刻でありながら九百四十分に変ずるのは、気朔に尽きぬ数があって分けがたいからです。およそ月は三十日、二気は四百一十一分二十五秒を盈ち、一朔は四百四十一分を虚します。虚と盈の数を積んで閏を制するので、定朔は必ず四百四十一分の前後を視て朓朒とし、ただ一分の間にあるのみ。これもまた定めるべきところであります。
- 日月の交食では、ただ日食が最も測りがたい。月食の分数はただ交を距たる遠近によるだけで、別に四時の加減はありません。思うに月は小さく闇虚は大きく、月が闇虚に入って食するので、八方から見るところはみな同じであります。日が月の体に掩われて食するとなれば、日は大きく月は小さく、日は上にあって月は下にあり、日は遠く月は近い。日の行には四時の異があり、月の行には九道の異がある。ゆえに旁らから観る者は遠近が自ずと同じくありません。北方で既に食するとき南方はやっと半ば虧け、南方で既に食するとき北方はやっと半ば虧ける。ゆえに食の時刻・分秒は必ず地に拠って表を定め、時に因って合を求めてから准となります。
- 正徳九年八月朔の日食のごとき、暦官は食八分六十七秒と報せましたが、閩・広の地ではついに既に食するに至りました。その時刻・分秒がどうして同じでありえましょう。いま交食に按じて暦元を更めるにあたり、時を分け刻を分け、刻を分け分となし、分を分け秒となし、極めて精しく極めて細かに、半秒すら分けがたい処に至ってもやはり酌み量って足らせるべきです。もしみな半秒を歳月に積めば、躔離・朓朒はみな合わなくなります。
- 漢・宋以来はみな算学を設けて儒芸と科を同じくし、四門博士と称し、九章の法は大いに明らかでした。ゆえに差法を定め暦元を更めるにその人を得ました。我が朝は算法がすでに廃れ、天を占う書は国法の禁ずるところで、官生の徒は理に明らかな者が実に少ない。必ず理に明らかであってこそ数は精しくなります。方今、海内の儒術の中にはもとより天資が超邁で天人の学に心を究める者があります。秘書をことごとく観させ、歳月を加えれば、必ず上は往古に按じ下は未来を推し、ほぼ暦元を更めうるでありましょう。返答はなかった。
- 世宗嘉靖三年、光禄少卿・管監事の華湘が言った。天子は陰陽に奉順して暦を治め時を明らかにされます。思うに時は事を作すためのもの、事は生を厚くするためのもの、そうして世は治に従います。時がかりに明らかでなければ、朔・弦・晦・望はその節を失い、分至・啓閉はその期に乖き、生霊を該め洽ませられずして世は乱れます。
- そもそも暦数の典は代々に作る者があり、いつも広く衆思を集めて人に遺智なく法に遺巧なく、永久に変えぬことを期しました。それなのに数年ならずしてたちまち差します。暦の差する所以は、天周に余りあって日周が足らぬからであります。
- 日の差は中星に験べられます。堯のとき冬至の昏に昴が中し、日は虚七度にあって玄枵の子に躔りました。いま冬至の昏に室が中し、日は箕三度にあって析木の寅に躔ります。堯を去ること三千余年を計って差すこと五十度であります。
- さらに赤道・黄道で考えるに、至元辛巳の改暦のとき冬至の赤道の歳差は一度五十秒。いまは天を退くこと三度五十二分五十秒であります。黄道の歳差は九十二分九十八秒。いまは天を退くこと三度二十五分七十四秒であります。それゆえ正徳戊寅の日食、庚辰の月食は、時刻・分秒・起復・方位が類として推算と迕いました。
- 恭しく惟うに、皇上が入って大統を継がれた年は、たまたま元が命を革め憲を改めた年と合致します。それなら元を調え暦を正すのはもとより今日に待つところがありましょう。
- 臣が古今の善く暦を治めた者を伏して揆るに三家あります。漢の太初は鍾律をもってし、唐の大衍は蓍策をもってし、元の授時は晷景をもってしました。しかも晷景が近い。その因るところが本だからです。暦を正そうとして台に登り景を測らねば、ひそかに思うにみな空言・臆見であって事実ではありません。
- 伏して望むらくは、臣に暫く朝参を住めることを許され、中官正の周濂および掄び選んだ疇人の子弟で本業に諳暁する者とともに、冬至の前に観象台に詣で、昼夜に推測して日に記し月に書し、来年の冬至に至って二十四気・分至・合朔、日躔・月離、黄赤二道、昏旦中星、七政・紫気・月孛・羅睺・計都の度を験べ、元の辛巳に測ったところと差する次第を録して聞かせられんことを。
- 昔、班固が漢志を作って「暦を治めるには択ばずにおれぬものが三つある。専門の家の裔、明経の儒、精算の士である」と言いました。臣はこの三つに一つもありません。夙夜に皇々として措く所を知りません。礼部に勅して延き訪ねられ、能く暦理を知ること揚雄のごとく、暦理に精しきこと邵雍のごとく、智巧が天授なること僧一行・郭守敬のごとき者を、徴して京師に赴かせ、歳差を詳らかに定めて一代の制を成させられんことを乞います。返答はなかった。
神宗萬曆二十三年〜二十四年(1595〜1596年)(鄭載堉と邢雲路の改暦論)
- 万暦二十三年秋七月、鄭の世子の載堉が疏して改暦を請うた。その略に言う。高皇帝が命を格された時、元の暦は久しくなく気朔もまだ差しませんでした。ゆえに旧を仍って改作するに及ばず、ただ討論し潤色しただけであります。いまは積年すでに久しく気朔は次第に差しております。修め治めるべきに似ます。後漢志にいわゆる「三百年にして斗暦の憲を改む」というのは、まさにこの時にあるべきです。
- 仰ぎ惟うに、列聖が御極されて以来、かつて暦をもって年号とされたことがありません。我が皇上に至って初めて万暦を元とされ、九年辛巳の歳は至元辛巳を距たること正に三百年、ちょうど斗暦の憲を改める期に当たり、また乾元用九の義に協い、暦元はここに応ずるはずであります。継述の盛挙が、どうして今日に待ちえぬことがありましょう。
- 前代の人君には新暦の考が成れば年号を改めて暦をもって名として紀し、福寿の徴とした例があります。しかしこれは天に後れて天時を奉ずるにすぎません。聖上は予め万暦を元とされました。これこそ天に先んじて天も違わぬもの。もとより暦があってこれに応じ、聖寿万々歳の嘉徴とすべきであります。それを待つこと久しくして見えません。これが愚臣の日夜、惓々とするところであります。
- そこで衆説の長ずるところを採って輯めて一書とし、「律暦融通」と名づけました。その学の大旨は許衡から出ながら許衡の暦と同じくありません。
- 後漢志に「陰陽が和すれば景が至り、律気が応ずれば灰が除く。ゆえに天子は常に冬至・夏至の日に前殿に御して八能の士を合わせ、八音を陳べ、楽均を聴き、晷景を度り、鍾律を候い、土灰を権り、陰陽を放って則れば和し、否なら占う」とあり、晋志に「日の冬至は音が林鍾に比して浸くて濁り、日の夏至は音が黄鍾に比して侵くて清い。十二律は二十四気の変に応ずる。その音たるや一律が五音を生じ、十二律で六十音となり、これを六にすれば六六三十六。ゆえに三百六十音で一歳の日に当てる」とあります。ゆえに律暦の数は天地の道であります。
- そもそも黄鍾は律暦の本原でありながら旧暦はまれにしか言いません。新法は律呂・爻象を歩むことを首とします。これが旧暦と同じくない第一であります。
- 堯のとき冬至の日躔の在る宿次について、劉宋の何承天は歳差と中星で考えて須女十度左右に応ずるとしました。唐の一行の大衍暦議に「劉炫は堯のとき日は虚・危の間にあると推したが、それでは夏至に火はすでに中を過ぎる。虞𠌂は堯のとき日は斗・牛の間にあると推したが、それでは冬至に昴はまだ中しない。思うに堯のとき日は女・虚の間にあり、それなら春分の昏に張一度が中し、秋分に虚九度が中し、冬至に胃二度が中して昴の距星は午正の東十二度に直り、夏至に尾十一度が中して心の後星は午正の西十二度に直る。四序の進退は午正を踰えない。間軌と漏がそうさせるのだ」とあります。
- 元人の暦議もまた「堯のとき冬至の日は女・虚の交にあった」と言います。ところが授時暦で考えれば牛宿二度にあり、虞𠌂と同じ。大統暦で考えれば危宿一度にあり、劉炫と同じ。相い差すこと二十六度。いずれも堯典に合いません。
- 新法で上って堯の元年甲辰の歳を考えれば、夏至の午中に日は柳宿十二度左右にあり、冬至の午中に日は女宿十度左右にあります。心・昴の昏中はそれぞれ午正を去ること半次を踰えず、何承天・一行の二家の説に合って旧暦と同じくありません。これが第二であります。
- 春秋左伝の昭公二十年に「己丑、日南至」とあります。授時暦で推せば戊子を得て左伝より一日先んじ、大統暦で推せば壬辰を得て左伝より三日後れます。新法で推せば左伝と合います。これが旧暦と同じくない第三であります。
- 授時暦は至元十八年を元とし、大統暦は洪武十七年を元としますが、新法は万暦九年を元とします。その余の各条の同じくないものは多く暦議に詳しく見えます。新法を授時に比べれば、ほぼ青は藍より生じて藍より青しというものでありましょう。
- 章が礼部に下されて覆奏された。「暦の名は沿襲すること久しく、敢えて軽々しく議しません。歳差の法に至っては考正すべきです。これを求める方法はおおむね三つあります。曰く、月令の中星が次を移して節に応ずるのを考えること。曰く、二至の日景の長短が候に応ずるのを測ること。曰く、交食の分秒・起復が時に応ずるのを験べること。衡管で考え、臬表で測り、刻漏で験べる。これもまた佹くも得られましょう。
- そもそも天体は至って広い。暦家は周天を三百六十五度四分度の一として日月星辰の行次を紀し、さらに一度を析いて百分とし一分を百秒とします。密といえましょう。しかし天の一度は地の二千九百三十二里に応じます。その分秒に在ってもまた推すべきです。譬えれば輪轂の外が広くて中が次第に狭くなり、輻の輳する処に至れば間に髪を容れぬがごとし。
- そもそも渾儀の体は径わずか数尺。外に三百六十五度四分度の一を布けば、一度は指ほどにも及びません。どこに分秒を置けましょう。臬表の樹つるのも数尺を過ぎず、刻漏の籌も数寸を越えません。天の高くしかも広きをもって、径尺寸の物でこれを求め、その繊微も爽わぬことを欲するのは、また難くありませんか。ゆえにその差が分秒の間にあるうちは験べうるものがなく、一度を踰えて初めて管で窺えるのみ。これが古今の智巧を窮めてもその変を尽くしえぬ所以であります。
- しかも今の暦を談ずる者は、あるいはその算を得ても測験の具がなく、具があってもその置く地が非で高下が逈く絶えれば、やはり准がありません。宜しく墨守する者が自ら信じうるところではありません。
- 世子が言うように、大統・授時の二暦を相い較べれば、古を考えれば気が三日差し、今を推せば時が九刻差します。そもそも時が九刻差すのが亥・子の間にあれば一日を移し、晦・朔の交にあれば一月を移します。これは近きに験べうるもの。かりに移して前になれば生明は二日の昏に、移して後になれば生明は四日の夕になり、弦・望もまたそれぞれ一日差すべきです。いまはまだここに至らぬようです。これは暦家に成法があるとはいえ、なお測験を准とするからであります。
- 今の計としては、ただ星暦の官に重ねて詳しく推させて歳差の故を求め、速やかに更正させるべきです。かつて前礼官の鄭継之が『歳差を定めようとするなら、歳法を二至の余分・糸忽の間に定め、日法を気朔・盈虚の一画の際に定め、日月の交食を半秒すら分けがたい所に定めるべきだ』と言いました。この言は暦家の肯綮に中るに似ます。要は精しく思い善く算し、しかも暦理を知る者を得てその事に職させることにあります。まことに博く求めれば、世にその人なしとはいえません。しかもその本はまた我が皇上が欽若の誠を秉って中和の極を建て、光しく玉燭を調え黙かに璇璣を運らし、暦数を正して大統の伝を永くされることにあります。これは今日にあってまことに千載一時であります」。載堉の議はついに格まって行われなかった。
- 二十四年、河南按察司僉事の邢雲路が奏した。天を窺う器は観象・測景・候時・籌策の四事に踰えるものはありません。ところが今年の日至は大統では申正二刻と推していますが、臣が測ったところ未正一刻であります。大統は実に天に後れること九刻余りであります。
- それだけではありません。今年の立春・夏至・立冬はみなちょうど子・午の交に値ります。臣が測ると立春は乙亥ですが大統は丙子と推し、臣が測ると夏至は壬辰ですが大統は癸巳と推し、臣が測ると立冬は己酉ですが大統は庚戌と推します。そもそも立春と立冬は王者が陽徳・陰徳の令を行う時であり、夏至はその方沢を祀る期であります。いまみな一日を隔てては、人を理め神に事えるとは何を謂うのでしょう。これがどうして細故でありましょう。
- しかも暦法の疎密は交食に験べられるのは昔から推されてきました。ところが今年の閏八月朔の日食を、大統は初虧を巳正二刻とし食はほとんど既とします。しかし臣が候ったところ初虧は巳正一刻、食は七分余りに止まりました。大統は実に天に後れること二刻近く、閏応および転応、交応はそれぞれ法どおり増損すべきであります。
- そもそも日食が八分以下で陰暦の交前なら初虧は西北であるのは、もとより暦家の共に知るところです。いま閏八月朔の日食は実に陰暦の交前にあり、初虧は西北でその食は七分余り。甚だ明らかであります。それならどうして初虧を正西、食甚を九分八十六秒と言えましょう。大統の効かぬこともまた甚だ明らかであります。
- しかもこれは八月のことです。もし元日が子の半に値れば、まさに退いて端を月窮に履むべく、朝賀の大礼は月正二日となりましょう。また細故と言えましょうか。これを改めねば、臣はひそかに久しいほど差がいよいよ大きくなり、流れて春秋の「食晦」に至るだけでは止まぬのを恐れます。臣はゆえに「閏応・転応・交応はみな改めるべきだ」と申すのであります。
- 久しくして刑科給事中の李応策もまた言った。国朝の暦元は聖祖が「二説はいずれも憑りがたい。ただ七政の交会・行度を験べて差なきものを是とする」と崇諭されました。ただ当時は至元辛巳を洪武甲子で揆るとわずか百四年。差法で律すれば甚だしくは遠からぬようでした。正徳・嘉靖に至ってすでに三度余りを退くべきであり、どうして今日を俟ちましょう。
- 春秋に「朔に食せず」とあるのはなお書官の失に値するとしても、今日は日食が天に後れること二刻近く、冬至が天に後れること九刻を踰えます。気応は九百余分を損ずべきと計れるのに、「失わず」と言うのですか。
- 暦理は微秒であります。日月・五星の運転・交会はみな窺管・測表に応を取ります。欧陽脩のいわゆる「事の最も差しやすいもの」であります。古の太初・大衍の諸書とても、どうして深く思い玄かに解して羲和氏の暦象授時の遺意を得なかったでしょう。しかし果たして鍾律を数として差なければ、太初暦はそのまま漢に定まったはずで、後に三統・四分を為したのは何ゆえか。また果たして蓍策を術として差なければ、大衍暦もまたそのまま唐に定まったはずで、後に五紀・貞元・観象を為したのはまた何ゆえか。
- 思うに陰陽は迭いに行き、動に随って移り、移って錯り、錯って乖き違い、日ごとに陥ちてやまねば、躔離の謬りと分至の忒りはここに窮まるのであります。邢雲路が観象・測景・候時・籌策の四事を持して「議者はみな改めるべきだ」としております。中秘の星暦書一編を得て閲して校べさせれば、必ず自ら得るところがありましょう。
- そこで欽天監正の張応侯らが疏してその誣を詆った。礼部は「かりに旧法に差がなければまことに世々守るべきです。しかしいますでに少し差すことが覚られました。いま修めずして歳が久しくなれば差はいよいよ遠くなります。どうして七政を斉え百工を釐められましょう。理として俯して邢雲路の請いに従い、ただちに考求・磨算を行って次第に修め改めるべきです。
- ただ暦数はもと極めて玄微で、修め改めるのは容易に議しうるものではありません。思うに暦を更める初め、上って往古数千年を考えて算を布くにも一定の法がありますが、暦が成った後、下って将来数百年を行くには分秒の差なきにしもあらず。それを前に覚らぬのはその術が疎いからではありません。分秒をもって百余年の間に布けば、その微なることは紀すべからず、思うにまた測り識る由がないのです。必ず積んで数百年に至り差が数分に至って初めて微かにその端が見えます。いまこれを験べようとしても、必ず測候すること数年にして初めて微かにその概を得られましょう。
- いま該監の人員は故常に因襲して成法を推衍しているにすぎません。もし斟酌・損益し、旧に縁って新たとしようとするなら、必ず暦理に精しく諳んじた者を得てその事を総統させ、星家を選び習わせ、多方に測候し、算を積み歳を累ね、毫芒を較べ析ってから准信とし、規制を裁定すべきです。
- 伏して乞う、ただちに邢雲路に欽天監の事を提督させ、該監の人員はみな約束を聴かせ、本部はなお博く暦法に通暁の士を訪ねてことごとく本官に送って委用させ、務めて自ら官属を督率して二至の太陽の晷刻、逐月の中星の躔度および日月交食の起復の時刻・分秒・方位の諸数を測候し、得るに随って録し、一切を開いて御覧に呈し、数年を積んで歳差を酌み定めて旧法を修正されたい。そうすれば万世の章程は易わらず、一代の暦宝はただ新たとなりましょう。国家が天を敬い民に勤める政に、まことに大いに禆益がありましょう」と言った。疏が奏されて留中され、行われなかった。
萬曆四十一年(1613年)(李之藻の西洋暦法の紹介)
- 南京太僕寺少卿の李之藻が西洋の暦法を上って略言した。近年、台諫が職を失い、日月交食の時刻・虧分を推算するのに往々にして差謬があります。交食がすでに差せば、定朔・定気もこれによってみな舛れます。
- 伏して見るに、大西洋国の帰化した陪臣の龐迪我・竜華民・熊三抜・陽瑪諾ら諸人は、義を慕って遠く来り、書を読み道を談じ、みな穎異の資をもって暦算の学を洞かに知り、彼の国の書籍を極めて多く携え、久しく声教に漸んで華音を暁り習っております。その天文・暦数を言うところには、我が中国の昔賢がまだ道い及ばぬものがあります。
- 一に曰く、天は地の外を包み、地は天の中にある。その体はみな円く、みな三百六十度をもって算ずる。地の経にはそれぞれ測法があり、地から天を窺うに、地心から測算するのと地面から測算するのとはみな同じくない。
- 二に曰く、地面の西北はその北極の出地の高低の度分が等しくなく、その赤道の天頂を離れるところもこれによって異なる。それで地方の風気・寒暑の節を弁ずる。
- 三に曰く、各処の地方で見える黄道にはそれぞれ高低・斜直の異があり、ゆえにその昼夜の長短もそれぞれ同じくない。得るところの日景には北景があり南景があり、また周囲の円い景もある。
- 四に曰く、七政の行度は同じくなく、それぞれ一重の天を為して層々と包み裹む。周経を推算するにそれぞれその法がある。
- 五に曰く、列宿は天にあって別に度を行き、二万七千余歳で一周する。これが古今の中星の同じくない故で、列宿の天を昼夜一周の天と指すべきではない。
- 六に曰く、五星の天にはそれぞれ小輪があり、もとみな平行だが、ただ小輪が大輪の上下を旋転するゆえに、人が地面から測れば順逆・遅疾の異があると覚える。
- 七に曰く、歳差の分秒の多寡は古今で同じくない。思うに列宿の天の外に別に両重の天があって動運が同じくない。その一は東西に差して出入二度二十四分、その一は南北に差して出入十四分。それぞれ定算があるが、その差は極めて微かで、古より覚られなかった。
- 八に曰く、七政の諸天の中心はそれぞれ地心と処所を同じくしない。春分から秋分までは九日多く、秋分から春分までは九日少ない。これは太陽天の心が地心と処所を同じくせぬによる。人が地面から望めば盈縮の差があると覚えるが、その本行にはもとより盈縮がない。
- 九に曰く、太陰の小輪はただ遅疾を算しうるだけでなく、さらに高下・遠近・大小の異を測りうる。交食の多寡はこれによらねば確かでない。
- 十に曰く、日月の交食はその出地の高低の度に随って看法が同じくなく、しかも人がその居る地面の南北から望めばまたみな同じくない。この二つを兼ねてこそ食分は審らかとなる。
- 十一に曰く、日月の交食は人が地面から望めば東方が先に見え西方が後に見える。およそ地面が三十度差せば時は八刻二十分差する。しかも南北は相い距たること三百五十里を一度とし、東西は赤道を離れるところを視て減差とする。
- 十二に曰く、日食と合朔は同じくない。日食が午前なら先に食して後に合し、午後なら先に合して後に食する。およそ出地・入地の時は地平に近く、その差は多くて八刻に至る。次第に午に近づけばその差する時は次第に少なくなる。
- 十三に曰く、日月食の在る宮は毎回同じくないが、みな捷法・定理があって器を用いて転じ測りうる。
- 十四に曰く、節気は太陽の真度を求めるべきである。春分・秋分の日のごとく、太陽がまさに黄・赤の二道の相交わる処に当たるのであって、日を計って匀しく分かつべきではない。
- およそこの十四事は、臣が前この方の天文暦志の諸書を観るに、みな及びえぬものです。あるいは依稀として揣り度ってかなり相近いものもありますが、やはり初めから一定の見がありません。ただこの諸臣だけが備さにこれを論じえます。徒らにその度数を論ずるだけでなく、さらにその然る所以の理を論じえます。
- 思うに彼の国は天文暦学を禁とせぬので、五千年来、通国の俊が曹りに聚まって講究し、窺測はすでに核く、研究もまた審らかであります。中国が数百年来ようやく一人を得、師なく友なく自ら悟り自ら是とするのと、どうして疎密をもって較べうるものでありましょう。
- その製した天を窺い日を窺う器を観るに、種々に精絶で、たとえ郭守敬の諸人が在っても、あるいはその皮膚も測れますまい。まして現在の台諫の諸臣で刻漏に塵が封じ星台に跡が断えた者と、どうして同日に論じえましょう。
- 昔年、利瑪竇は最も博覧・超悟と称されましたが、その学が伝わらぬうちに溘かに朝露に先んじ、士論は今に至るまで惜しんでおります。いま龐迪我らは鬚髪すでに白く年齢は衰えに向かっております。いま図らねば、まさに後に解する人なきを恐れます。伏して乞う、礼部に勅を下して速やかに館局を開き、まず陪臣の龐迪我らの有する暦法を原文に照らして訳出して書と成されんことを。それは休明を鼓吹し文を観て化を成すに、禆補なきにしもあらざるものでありましょう。
懷宗崇禎二年〜七年(1629〜1634年)(暦局の開設と崇禎暦書)
- 崇禎二年九月癸卯、暦局を開設し、吏部左侍郎の徐光啓に暦法の修撰を督させた。
- 先に五月乙酉朔の日食の時刻が験べられず、上は欽天監の官を厳しく責めた。五官夏官正の戈豊年らが奏して言った。「大統暦は国初の監正の元統が定めたもので、その実は元の太史の郭守敬が造った授時暦であります。二百六十年来、暦官は法に按じて推歩し、毫も増損したことがありません。ただ敢えてせぬのみならず、またできぬのです。妄りに竄め易えれば失うところはいよいよ遠くなりましょう。
- 切に詳らかにするに、暦は唐堯に始まり今まで四千年、その法は粗より精に入り疎より密に入りました。漢唐以来、差すこと二日・一日に至るものがあり、後に一、二時差すものがありました。郭守敬の授時の法に至って古今、極めて密と称されます。しかし中間の刻数は、その本法に依ってもなお差なきあたわず。これはその立法がもとよりそうであって、職の更め改めうるところではありません。
- ただ職らのみではありません。郭守敬は至元十八年に暦を成しましたが、十八年を越えた大徳三年八月にはすでに食すべきと推して食せず、大徳六年六月にはまた食して推すことを失いました。律暦志に載って考えられます。このとき郭守敬はまさに昭文殿大学士として太史院の事を知っておりましたが、やはり増し改めえませんでした。まことに心思・技術はすでにここに尽きて、再び進歩しえなかったのであります」。
- そこで礼部が覆奏して言った。「暦法の大典は唐虞以来みな隆重とされました。ゆえに百年改めぬ暦はありません。我が高皇帝は神聖にして天より出で、深く象緯に明らかであられました。しかし一時の暦官、たとえば元統・李徳芳の輩は才力に限りがあって郭守敬の上に出られず、因循して今に至りました。
- 後来、専官が修正したのは童軒・楽護・華湘ら、書を著して考定したのは鄭の世子の載堉、副使の邢雲路ら、建議して改正したのは兪正已・周濂・周相らであります。これはみな明らかに郭守敬の旧法がもとより善を尽くさぬことを知ったからであり、またやはり年が遠く数が贏ちて、郭守敬が在っても重ねて改めねばならなかったからであります。
- まして暦法の一志は歴代以来、国史に載せられ、史記・漢書・晋書・唐書・宋史・元史のごときはとりわけ精しく備わっております。後の作る者はこれを禀けて成式とし、それによって増修しました。我が国家の事は前代を度越しながら、ひとりこの一事だけまったく更定がありません。万暦年間に国史を纂修したとき元史の旧志を謄録して書と成そうと擬したごとき、どうして聖朝の令典を昭らかにする所以でありましょう」。
- やがて徐光啓が暦法修正の十事を上った。
- その一。歳差が毎歳、東行して次第に長く次第に短くなる数を議し、古来「百五十年」「六十六年」と多寡が互いに異なる説を正すこと。
- その二。歳実の小余が昔は多く今は少なく次第に改まり易わることおよび日景の長短が歳ごとに同じくない因を議し、冬至を定めて気朔を正すこと。
- その三。毎日、日行の経度を測験して盈縮・加減の真率、東西南北・高下の差を定め、日躔を歩むこと。
- その四。夜に月行の経緯の度数を測って交転・遅疾の真率、東西南北・高下の差を定め、月離を歩むこと。
- その五。密に列宿の経緯の行度を測って七政の盈縮・遅疾・順逆・違離・遠近の数を定めること。
- その六。密に五星の経緯の行度を測って小輪の行度、遅疾・留逆・伏見の数、東西南北・高下の差を定め、凌犯を推歩すること。
- その七。黄・赤道の広狭の度数の変ずるところを推し、密に三道の距度および月・五星の各道と黄道の相い距たる度を測って交転を定めること。
- その八。日月の交を去る遠近および真会・似会の因を議して距午の時差の真率を定め、交食を正すこと。
- その九。日行を測って二極の出入地の度数を考え知り、周天の緯度を定めて七政を斉え、月食によって東西の相い距たる地輪の経度を考え知って交食の時刻を定めること。
- その十。唐・元の法に依り、地に随って二極の出入地の度数と地輪の経緯を測験し、昼夜・晨昏の永短を求めて交食の有無・先後・多寡の数を正すこと。
- そこで南京太僕寺少卿の李之藻、西洋人の竜華民・鄧玉函を挙げて同じく暦事を襄けさせるよう疏奏して可と報ぜられ、ゆえにこの命があった。
- 三年夏五月、西洋の陪臣の湯若望を徴し、秋七月、西洋の陪臣の羅雅谷を徴して暦局に供事させた。
- 四年春正月、礼部尚書の徐光啓が「日躔暦指」一巻、「測天約説」二巻、「大測」二巻、「日躔表」二巻、「割円八線表」六巻、「黄道升度」七巻、「黄赤距度表」一巻、「通率表」一巻を進めた。
- 夏四月戊午の夜の望に月食があった。徐光啓は予め月食の分秒・時刻・方位を定めて奏言した。「日食は地に随って同じくないので、同地では緯度でその日分の多少を算し、地経度でその加時の早晏を算します。月食の分数は寰宇みな同じで、ただ地経度で先後の時刻を推し求めるだけです。
- 漢の安帝の元初三年三月二日の日食は史官が見ず、遼東から聞かせました。五年八月朔の日食も史官が見ず、張掖から聞かせました。思うに食が早ければ独り遼東に見え、食が晩ければ独り張掖に見えるのです。当時、京師で食を見なかったのは史官の罪ではありませんが、遼東・張掖の食を見たことを言いえなかったのは、その法が密でなかったからであります。
- 唐書には北極の出地が林邑の十七度から蔚州の四十度までと載ります。元人は四海に測験を二十七所設けました。ほぼ詳しく経緯を求める法を知っていたといえましょう。臣は特に輿地図に従っておおよそ推歩し、各省の今の食の初虧の度分を開き載せます。思うに食分の多少がすでに天下みな同じである以上、余りの率は類推できます。日食の経緯が名を殊にして必ず詳備を須つのとは異なります。
- また月体は十五分で闇虚に尽く入り、やはり十五分に止まるはずです。それを臣がいま二十六分六十秒と推すのは、思うに闇虚の体が月より大きいからです。食のとき交を去ることやや遠ければ月体は闇虚に全く入りえず、ただ月体からその分数を論ずるのみ。この夕の食は極めて二道の交に近い。ゆえに月が闇虚に入ること十五分でまさに食既となり、さらに進むこと十一分余りで初めて生光を得ます。ゆえに二十六分余りとするのです。回回暦が十八分四十七秒と推すのも、ほぼこの法と同じであります」。
- 冬十月辛丑朔の日食に、徐光啓はさらに測候の四説を上った。その略に言う。
- 日食には時差があります。旧法は午を距たるところを限とし、中の前は加え、中の後は減じて加時の早晩を定め、食が正中にあれば時差なく加減を用いません。ゆえに台官は相伝えて「日食の加時に差があるのは多く早晩で、日中なら必ず合う」と申します。しかしいまこの食は日中にありながら加時は旧術が後で新術が前、まさに三刻以上を差すべきです。
- そのゆえは、七政の運行はみな黄道に依って赤道によらぬからです。旧法のいわゆる「中」は赤道の午中であって、いわゆる「中」が黄道の正中であることを知らぬのです。黄・赤二道の中は、ただ冬至・夏至の二至だけが同度を得、余りの日は次第に相い離れます。いま十月朔は冬至を去る度数がなお遠く、両中の差は二十三度余り。どうしてなお食限が午に近いとして加えず減ぜずにおれましょう。
- もし食が二至にあってまさに正午に値れば果たして差なしとできますが、他の時に食して日中でなければ差の原はなお多く、また弁じがたい。たまたまこの日に際し、またこの時に値ったのは、時差の正術を験べうる第一であります。
- 交食の法にすでに差誤がなくとも、臨期に実際に候えばその加時にもあるいは少しく後先があります。これは天度によらず地度によるのです。地度とは地の経度であります。本方の地の経度が真率を得ねば加時は定めがたい。その法は必ず交食の時から測候すること数次にして初めて較べ勘べうるものです。いまこの食を新術に依って測候し、その加時の刻分があるいは前後して合わなければ、従前に記した地経の度分を取って勘べ酌んで改め定めるべきです。これが里差の真率を求めうる第二であります。
- 時差の一法は聞くところに溺れて、ただ「中には加減なし」と知って、中に黄・赤の分かれることを知りません。いま一たび目に見、一たび口に授かれば、人々は加時が黄道によることを知り、人々は黄道の極が歳ごとに天を一周することを知りましょう。それをどうして赤道の午正を黄道の中限としましょうか。臣はいま黄道の中限を取り、時に随い地に随って算し就いて立成とし、監官はすでに謄録して臨時に用いております。簡便ならぬものはありません。その他の諸術も多くこの類。学習の甚だ易きを明らかにするに足る第三であります。
- 該監の諸臣が最も苦しむのは、従来、暦を議する人が「擅に改めた」と詆ることであります。その斤々として墨守するのが郭守敬の法であって、改めようとしてもできぬことを知らぬのです。郭守敬の法は前に加え勝りましたが、それでいま差なしと謂うのもまたできません。時差などの術のごときは、思うに一人一世の聡明の揣り測りうるところではなく、必ず千百年の積み候いに因ってこそ智者が会通して法を立てうるのです。もし前に緒業がなければ郭守敬とても驟かに得られませんでした。まして諸臣においてをや。これが疎失の辜にあらざるを明らかにするに足る第四であります。
- この四つがある以上、たとえ分数が甚だ少なくとも詳しく測候を加えて顕らかな験を求めるべきです。ゆえに敢えて冒昧して上聞いたします。
- 六年冬十月、山東布政司右参政の李天経に暦法の修撰を督させた。当時、徐光啓は病によって暦務を辞し、一月を踰えて卒した。著すところの「崇禎暦書」は百巻近くあった。
- 七年春正月乙巳、督修暦法・山東右参政の李天経が疏して言った。七政の余りは新法に依れば、火・土・金の三星は本年九月上旬に尾宿の天江の左右に会し、木星はこの月の前に鬼宿の積尸気を犯します。一時に五緯すでにその四を有します。必ずしも数が天に合うのではなく、天が法を験べる一つの拠であります。
- 従来、暦家は列宿の借星について経度はあっても緯度がなく、回回暦がこれに近いとはいえ、なお古法どおりであります。ゆえに臣らの推した経緯の度数・時刻は監の推すところとそれぞれ同じくありません。
- たとえば本年八月の秋分を、大統暦は八月三十日未正一刻と算し、新法は閏八月二日未初一刻一十分と算して、相い距たること二日。臣は閏八月二日に監局の官生とともに太陽の午正の高さ五十度零六分を測り、なお一分を差しました。入交を推し変ずれば時刻はまさに未初一刻一十分に在るべきで、新暦と脗合します。そのまま前臣の徐光啓の従前の測景簿を取って転じ、数年みな合いました。
- 春秋伝に「分は道を同じくするなり、至は相過ぐるなり」の二語があります。今日の節変の差訛の一つの証とできましょう。思うに太陽が黄道の中線を行って二分に迨ぶと黄道と赤道が相交わります。これが昼夜の平らかとなる所以で、分の応の由って起こるところです。二至に迨べば赤道の内外にそれぞれ二十三度余り過ぎます。そもそも赤道を過ぎること二十三度を真の至とするなら、両道が一線に相交わるのを、どうして真の分としないことがありましょう。太陽には平行があり実行があり、平ならば毎日およそいくらを行き、実ならば多寡があります。ひとり秋分だけがそうではありません。
- 謹んで諸曜の会合・凌犯の行度を開き具えます。礼部が司官を委ねて監局の官生とともに詳議して聞かせられんことを。
- 蒲城の布衣の魏文魁が上言した。「今年甲戌の二月十六日癸酉の暁の刻に月食があります。いま暦官の訂めるところは二月十五日壬申の夜であります。八月には乙卯の月食に応ずべきなのに、いま甲寅としております。そこで八月の望を晦とし、併せて白露・秋分もみなその期にあらざることとなります。訛謬はなお言うべきものでありましょうか」。奏が上って魏文魁を入京させて測験させるよう命じた。
- 秋七月甲辰、李天経が「暦元」二十七巻、星屏一を上った。
- 冬十一月、日晷・星晷の儀器が完成し、上は太監の盧維寧・魏征を局に至らせて験べさせた。先に西儒の羅雅谷・湯若望が暦局にあって測儀六式を造った。一に象限懸儀、二に平面懸儀、三に象限立運儀、四に象限座正儀、五に象限大儀、六に三直游儀。さらに弩儀・弧矢儀・紀限儀の諸器があったが、概ね録さない。
史論(谷應泰曰)
- 古今、暦を改めた者はおよそ数十家。黄帝から秦までおよそ六たび改まり、漢初から漢末までおよそ五たび改まり、曹魏から隋までおよそ十三たび改まり、唐から周までおよそ十六たび改まり、宋初から宋末までおよそ十八たび改まり、金の熙宗から元までおよそ三たび改まった。
- その間で傑然として名家となったのは、漢の太初が鍾律をもってし、唐の大衍が蓍策をもってし、元の授時が晷景をもってしたもので、晷景が最も密であった。
- 明の太祖の呉元年、太史令の劉基がその属を率いて「戊申大統暦」を進めた。やがて欽天監博士の元統が洪武甲子の歳の冬至を暦元とすることを請うた。大いに名を賜って名は殊にしたが、立成はまったく異ならず、授時にまったく増損がなかった。まことに才が郭守敬にあらず、故きを革めるのがいよいよ難かったからである。
- 時これより後、建議して改正したのは兪正已・鄭善夫・周濂・周相の諸人、専官として修め治めたのは童軒・楽護・華湘の諸人、書を著して考定したのは鄭の世子の載堉、副使の邢雲路の諸人である。志は切に籌を持したが、事は室を築くに同じく、言は人ごとに殊なり、たちまちまた報じられて罷んだ。
- 万暦に迄って西儒が賓として来て、軌を継いで迭々に至った。一時、象緯・暦算の説は逈かに尋常を出て黙かに天と会した。李之藻がすでに定陵に推轂し、徐光啓がさらに懐廟に茹を連ねて、局を京圻に開いた。まことに甚だ盛んと称すべきである。
- その法は二十四刻二十一分八十八秒六十四微を平行の歳実の小余とし、均数をもって加減すれば定冬至となる。これによって太陽に平行と実行があり、三百六十五度の盈縮がこれに因る。太陽に自行の次輪、さらに次輪があって、朔望の遅疾がこれに因る。交食に時差・里差・視差があって、食時の刻数・分秒・方位がこれに因る。
- いわゆる根数は授時の気応のごとく、引数は授時の盈縮暦・遅疾限のごとく、均数は授時の加減差のごとく、黄道の東行一分四十三秒余りは授時の歳差一分五十秒のごとくである。
- 午中に黄・赤の弁を分かち、分至に贏縮の殊あるに至って、随動・自動・疾動・遅動が同じくなければ交道の広狭が生じる。微を闡き幽を析き、思いは象表を出る。たとえ楊子に玄を譚らせ落下閎に算を握らせても、これに及ぶものはあるまい。
- 衆言は淆れ乱れてついに通じ頒たれなかった。たまたま我が皇の南嚮の辰に、司天に詔して西暦を布かせた。法象は維れ新たに、璣衡はいよいよ密となった。これはどうして宏制がなお垂成に闕けて、大典がついに待つところに帰したものでなかろうか。ああ、盛んなることよ。