明史紀事本末徐鴻儒を平定する(王好賢・于弘志を付す)(平徐鴻儒(王好賢・于弘志を附す))
天啓二年(1622年)から四年(1624年)まで、山東で白蓮教を唱えた徐鴻儒の乱とその平定を扱う。徐鴻儒は深州の王好賢の聞香教、景州の于弘志の棒箠会と三方同時挙兵を約したが、期に先んじて発し、鄆城・鄒県・滕県を陥れ「大乗興勝元年」と僭号して十余万を号した。巡撫の趙彦、総兵の楊肇基、都司の廖棟・楊国盛らが各地で破り、賊は運河の漕船まで掠めたが、追い詰められた党衆が徐鴻儒を縛って降った。十二月に徐鴻儒らは市で磔にされ、于弘志は陣中で斬られ、王好賢も揚州で擒にされて乱は終わった。
年表(3件)
- 熹宗
- 天啟二年夏五月(徐鴻儒の挙兵)1622年徐鴻儒が期に先んじて挙兵し鄆城に拠って曹州・濮州が騒動する
- 天啟二年六月〜七月(鄒県・滕県の陥落と官軍の反攻)鄒県・滕県が陥ちるが廖棟・楊国盛が賊巣を破り于弘志も斬られる
- 天啟二年九月〜十二月(徐鴻儒の捕縛と処刑)党衆が徐鴻儒を縛って降り市で磔にされ王好賢も揚州で擒にされる
熹宗天啟二年(1622年)夏五月(徐鴻儒の挙兵)
- 山東の妖賊の徐鴻儒が乱を倡えた。徐鴻儒は鉅野の人で鄆城に遷り、万暦の末に白蓮教で衆を惑わし、党は数千人あった。
- 深州の人の王森は一匹の妖狐を救い、妖狐は尾を断って蔵させた。人を招くと人は異香を聞いで多く帰附し、「聞香教」と号した。王森が死ぬと巨万の資を遺し、子の王好賢はその資に藉って客を結び、異志があった。景州の于弘志は棒箠会で悪少年を聚めていた。王好賢はこれと通じ、徐鴻儒と密かに八月十五日に三方から同時に起こることを約した。
- ところが徐鴻儒は他事に激されて先に発した。卞家屯で牲を刑して衆に誓い、衆に梁山泊に至って家口を寄せてから起兵するよう令した。往って魏家荘を囲み、また二千余人が梁家楼を囲んで拠って巣とした。県を去ること二十里、官兵は敢えて前進しなかった。
- また鉅野県を攻め、その党の楊子雨・李泰らが擒にされた。また曹州で張世佩を擒にしたが、その身の傍らに紙人数千を匿して「四大金剛」と号していた。これもまた徐鴻儒の党である。
- 徐鴻儒が鄆城を攻めると知県の余子翼は逃げ、そこで城に拠った。曹州・濮州は騒動し、兗西道の閻調羹が奏聞した。巡撫都御史の趙彦、総河侍郎の陳道亨、巡撫都御史の王一中が兵を合わせて捕らえた。
- そのころ四川にもまた白蓮の妖賊の洪衆・劉応選・白仙台らが賊を助けて蜂のごとく起こったが、巡撫の朱燮元が擒え捕らえて正法した。
天啟二年六月〜七月(鄒県・滕県の陥落と官軍の反攻)
- 夏六月、徐鴻儒が鄒県を陥れ、署印通判の鄭一傑が家を挈げて出て走った。進んで滕県を陥れ、知県の姚之胤が逃げ、そこで二城に踞った。
- 当時、遼の餉を括ってほぼ尽きており、このとき兵を徴しても給すべき餉がなく、ただ郷勇を練り、有司に捕らえ治めることを責めただけであった。魯王が資を捐てて城を保ち、璽書で褒めた。
- 山東都司の廖棟が武安の賊の巣を破って焼いた。撫臣の趙彦が捷を奏した。賊は巣穴に盤踞して動もすれば数万を数えたが、官兵は勇を奮って力戦し、首三千余級を斬り、砲に撃たれて死んだ者は六、七百人。また武安集の賊の巣を焼き、近くの小寨もみな燬った。賊の勢いは窮蹙して梁家楼に奔った。
- 都司の楊国盛が賊と対塁して首千級を斬った。その東南・東北の賊は道路に充ち塞がっていたが、官兵が攻撃すると賊は支えられず、さらに首二千余級を斬った。賊が兗州府を窺い伺おうとすると官軍がその後に尾いて襲い、連戦してみな捷ち、そこで鄆城・鉅野を復した。
- 秋七月、山東で妖を平らげた将士の楊国盛・廖棟らの功績を録し叙した。巡撫の趙彦が「妖賊は衆を聚めて日ごとに多く、官兵の策応は日ごとに難くなっております。暫く秋班の辺軍を留めて営に随って賊を勦めれば、招募の費えを省けます」と奏し、従われた。
- 賊が夏鎮を攻め、彭家口に至って糧船四十余艘を掠め、運河を阻み絶った。侍郎の陳道亨が急を告げ、上は兵部に兵を添えて防守することを議させた。当時、沙溝営把総の姚文慶らが軍壮・郷勇を集めて賊十一人を擒にし五十余人を殺して漕艘を奪い返し、淮の兵もまた夏鎮の妖賊を駆り斬って、運道はまた通じた。山東は一日に二たび捷を報じた。
- 賊は滕県に奔って鄒県の賊と会し、合して曲阜を攻めた。馬歩一万余を領して城下に擁し至ると、知県の孔聞礼が民兵を率いて力を極めて捍ぎ禦ぎ、賊を殺すこと甚だ衆く、賊は陥れられなかった。まもなく援けが至ったので営を抜いて去った。
- さらに官営を劫めた。都司の楊国盛が大敗し、遊撃の張榜らがみな死んだ。営内の糧草・火砲・器刃はみな劫められた。賊は僭って「大乗興勝元年」と称した。巣は十数、兵は十余万。まず兗州を取り次いで済南を取ろうとし、声勢は甚だ鋭かった。陳道亨は登州・萊州の兵で兗州を防ぐことを疏請した。糧餉の失われるのを恐れたからである。
- 景州の妖賊が阜城・武邑に屯し、人を殺して旗を祭り、「景州を取る」と声言して四十余里を焼き掠めた。官兵が往って捕らえると、賊首の于弘志は馬を立てて弓を仗い飛ぶように舞って来た。官兵は馬の下に斬り、余りの賊は披靡して四散した。また妖民の田付民らを擒にした。そこで賊衆の牛朝利らは退いて白家屯に拠り、深い濠を掘り木を伐って寨として固く守った。
- 艾山の賊の趙大が劉永明を奉じて主とし、「安民王」と称した。二十八人が面を塗って「二十八宿」と称し、党二万余人を聚め、鄒県・滕県の賊と合わせて総じて十七枝。官兵が攻め破って劉永明を獲た。刑に臨んでなお「寡人」と称したという。
- 賊が兗州を攻めた。先に趙彦は自ら兗州に至り、監軍道の王従義・徐従治、総兵の楊肇基とともに演武場に至って閲兵した。賊衆が進んで城下に逼ると、楊肇基が敵を迎え、都司の楊国盛・廖棟が分かれ撃って賊千余人を殺した。賊は滕県に回った。
天啟二年九月〜十二月(徐鴻儒の捕縛と処刑)
- 九月、賊が金山口を流れ劫めて徐州は震動した。官軍が錫山を復すると、賊は初めて懼れた。偽都督の侯五、偽総兵の魏七らが城に拠って降を乞い、その幟を去った。しかし徐鴻儒の同党の高尚賓・欧陽徳・酆九叙・許道清ら三百余人がなお力めて守った。官兵が分かれ攻め、趙彦は「徐鴻儒が出ねば四面から焼き攻める」と令した。賊はそこで徐鴻儒を縛って出て降った。三道臣が入城して軍民を安撫し、滕城を復した。
- 十月、郷民を安挿すること総じて二万七千余人。騾馬千匹、神槍八百杆、大砲二百六、斧九十九余を収め、弓刀は数知れなかった。
- 十二月、山東の俘を献じ、徐鴻儒らを市で磔にした。趙彦に兵部尚書を加え、他も差をつけて秩を進めた。徐鴻儒は刑に臨んで嘆じ、「私は王好賢父子と経営すること二十余年、徒属は甚だ衆かった。さらに数日を遅らせていたら、誰が敢えてその鋒に攖れたろう」と言った。
- 王好賢は徐鴻儒が敗れるのを見て薊州に走り、さらに家二十余人を挈げて南に走り、揚州に至って事が露れて擒にされた。
- 吏科給事の陳熙昌が「東省の妖賊は平らいだとはいえ、地方の善後には策を宜しくすべきです」と上言し、併せて孟氏の墓廟を存し恤み修復するよう請い、上は従って官に致祭を命じた。
- 四年八月、鄒県の賊の余党が旱災によって再び泗州に聚まること数百人、劫掠した。兗州知府の曹文衡、鄒県知県の郭人吉、泗水県の事を署した同知の張景が自らその地に詣でて安撫した。李守己ら二十余人は郷里に凌ぎ逼られたことを訴え、招撫を願って保甲に編入され、ようやく安んじた。
史論(谷應泰曰)
- 慨わしいかな、周の成王・康王の代は刑を措いて用いず、漢の文帝・景帝の代は獄を断ずること四百、海内は乂まり安んじた。何と盛んなことであろう。その他の治を致した主も、外患がなければ内憂があった。火坑の寇がたちまち艾り除かれ、飛燕の兵が時を踰えて解散するようなものは、乱の小さいものである。
- しかし疥癬も患いを致し、蜂蠆にも毒がある。両葉のうちに去らねば斧の柯を尋ねることになる。国を有つ者は慎まずにおれようか。
- 明室は数代を伝えて中外に盗が多く、憲宗・武宗・世宗・神宗の代に反する者がしばしば起こった。しばしば張敞を京兆に命じ、虞詡を朝歌に遣わすようにしたが、沸る釜の游魚は相い随って斬り馘られた。しかし兵を弄ぶ者は誰か赤子でなかったか。蚕食する者はみな吾が腹心である。渇きを止めるのに鴆酒を進め、疾を救うのに烏喙を呑む。萑苻がしばしば殄されても、明の祚は長くありえなかった。
- 熹宗に及んで東省にまた鄆の人の徐鴻儒が乱を倡えて白蓮教と号し、これに応じたのは深州の王好賢の聞香教、景州の于弘志の棒箠会、艾山の劉永明の安民王であった。その余りの四大金剛・二十八宿も、三方から並び起こって日を刻んで師を興さぬものはなかった。樊崇が乱を鼓して下江・新市が互いに声援したごとく、張角が妖を煽って小方・大方がそれぞれ渠帥を推したごとくである。賊徒の旧い智とはいえ、また命に奔る深い憂いであった。
- しかし聞くところ、孽は自ら生ぜず、釁は人によって作る。そのときを考えるに、閹璫が政を擅にすれば必ず外吏は撟め虔め、苞苴が官に在れば必ず朘り削るのは下に及ぶ。俗が敝れれば非を為すのを軽んじ、民が貧しければ去って盗となる。もとよりそうであって怪しむに足りない。ところが論者はまた「蓮社は梵教で惑わし、妖狐は火を吹いて興った。経営二十年、盗にもまた道がある」という。どうしてことごとく信ずるに足ろうか。
- 魯藩は資を捐てて城を保ち、趙彦は力を尽くして擒え捕らえ、廖棟は武安で破り、楊国盛は鉅野で殲し、夏鎮は捷を告げて運艘はまた通じ、滕県はすでに恢復して徐鴻儒はついに磔にされた。かの諸臣は、龔遂が渤海を平らげて乱れた糸を徐ろに理めたのには及ばぬとしても、また趙広漢が三輔を治めて枹鼓を鳴らさなかった類であろう。
- しかし荓蜂を懲らさず乱令をしきりに行い、黄巾がすでに叛いてもなお鉤党の誅を行い、河朔がようやく平らいでも重ねて括田の使いを遣わした。これより鴻は飛んで野に満ち、萇楚に家なし。政は散じ民は流れ、薪を積んで火を蘊めた。人は潢池の雲擾の禍いが愍帝に烈しかったとするが、私は東陵に莽を伏せた釁が熹廟に叢がったのだと思う。
- 後の三年にして余孽が泗州に聚まり、さらに七年にして李自成が米脂に起こって、明はついに亡んだ。悲しいことである。