明史紀事本末鉱税の弊(礦稅之弊)
万暦二年(1574年)から神宗が崩じた万暦四十八年(1620年)までの、礦税の弊害を扱う。張居正が織造の加派を抑えた時期を前史とし、万暦二十四年に仲春らの請いと張位の主張によって開礦が始まると、陳増・陳奉・楊栄・高寀・梁永・高淮・潘相ら宦官が礦監・税監として諸省に分遣され、店税・塩課・珠採・船税に至るまで誅求が及んだ。包見捷・李三才・馮琦・沈鯉ら多くの臣が停止を求めたが疏は留中され、蘇州・武昌・雲南・遼東など各地で民変が起きて楊栄は殺された。万暦三十三年に採礦は罷められたが税監は残り、神宗の崩御と遺詔によってようやく全廃された。
年表(9件)
- 神宗
- 萬曆二年〜十六年(1574〜)(開礦論の前史)1588年張居正らが織造・採木の弊を抑え、開礦の請いは退けられる
- 萬曆二十四年(礦税の開始)1596年仲春の請いによって開礦が始まり宦官が各地に分遣される
- 萬曆二十五年(諫言の続出)1597年呂坤・魏允貞らが礦税の害を説くが返答はなく、陳増が知県を獄に下す
- 萬曆二十六年(税監の全国配置と諫言)1598年珠採・塩課・船税に及び、呉宗堯が陳増の私腹を告発して籍を削られる
- 萬曆二十七年(税使の乱立と抗議)1599年高寀・陳奉ら税使が諸省に乱立し、臨清の民が税使の馬堂を殴る
- 萬曆二十八年(李三才の直諫と民変)1600年李三才が礦税の停止を重ねて直諫し、陳奉の暴虐が各地で変を招く
- 萬曆二十九年(各地の民変)1601年武昌の民が陳奉を逐い、蘇州では孫隆の変で葛成が罪を引き受ける
- 萬曆三十年〜三十三年(1602〜)(停止の詔と諸地の変)1605年停税の諭が一度出て取り消された後、三十三年に採礦の罷めが詔される
- 萬曆三十四年〜四十八年(1606〜)(税監の残存と廃止)1620年楊栄が雲南で殺され梁永・高淮も撤されるが、税監は神宗の遺詔でようやく罷む
神宗萬曆二年〜十六年(1574〜1588年)(開礦論の前史)
- 二年二月、太監の張誠らが真定の木税を領することを求めたが、工部が執論して許さなかった。
- 七年七月、給事中の顧九思・王道成が浙江・直隷の織造の内臣を撤するよう請うた。上が大学士の張居正に示すと、張居正は「地方は一事多ければ一事の擾があり、一分寛くすれば一分の恵みを受けます。災地の疲れた民は催督に堪えません。撤するのが便です」と言い、上は従った。
- 十一月、浙江・直隷の織造に一万三千張を添え織らせるよう命じた。張居正は「添え織る費えは四、五十万金を下りません。庫蔵にあっては竭き、小民にあっては疲れます。浙江・直隷は水災で恩を蒙って蠲免・済助されたばかりです。織監を撤したかと思えばまた加派するのは、聖意が元元を愛養される所以ではありません」と言い、上はその半ばを減らすよう命じた。
- 八年九月、太監の王効が歳額の銀朱などの材料が欠けていると称した。戸部尚書の張学が「登極の一詔で不急の務めをことごとく損じました。量って停め罷めるべきです」と奏し、上は従った。
- 十年四月、順天府尹の張国彦が房税の免除を請うたが返答はなかった。
- 十一年正月、戸部が金珠の購入を停めるよう請うたが返答はなかった。
- 十二年六月、四川巡撫の雒遵が採木の害を奏した。八月、房山の人の史錦が開礦を請い、命じて撫按に下した。
- 十四年四月、南京工部尚書の陰武卿が織造と磁器の焼造を減免し、花梨・杉・楠の解送を停めるよう乞うたが聴かれなかった。九月、戸部侍郎の張国彦が「蘇州・杭州の織造、江西の磁器、公主のための珠宝の広求は、漢の文帝の百金の費えと相い類するものではないでしょうか」と言ったが、聴かれなかった。
- 十六年十一月、内臣を遣わして五台山に禱り祠らせた。還って「紫荊関の外の広昌・霊丘では礦砂を銀に冶することができるのに、奸民の張守清がその利を擅にしている」と奏した。ある日、上は朝を視終えて大学士の申時行らを皇極殿に召してこれに言い及んだ。申時行らは部に勅して撫按に査問して禁め戢めさせるよう請い、上は是として張守清を逮えて法に伏させ、礦洞を閉じ塞がせた。
- 十八年九月、易州の民の周言が開礦を請い、玉田・豊潤の民もまた請うた。部が返答せぬうちに上は文書官を閣に遣わして促した。輔臣はそこで開礦の害を言い、御史の邵以仁もまた力めて不可であると言った。
萬曆二十四年(1596年)(礦税の開始)
- 六月、府軍前衛副千戸の仲春が開礦して大工を助けることを請い、従われた。戸部と錦衣衛にそれぞれ一人ずつ仲春とともに開採するよう命じた。給事中の程紹、工科の楊応文が「嘉靖二十五年七月に採礦を命じ、十月から三十六年まで、委官四十余、防兵一千一百八十人、費えはおよそ三万余金で、得た礦銀は二万八千五百。得るところは失うところを償いません」と言ったが、聴かれなかった。
- 七月、錦衣衛百戸の陸松、鴻臚寺随堂官の許竜、順天府教授の馮時行、経歴の趙鳳らがそれぞれ開礦して大工を助けることを言い、従われた。
- 戸部尚書の楊俊民が「真定・保定・薊州・易州・永平の開礦は天寿山の竜脈を妨げるおそれがあります」と言うと、上は陵から遠く、しかも皇祖もかつて開かれたと言って聴かなかった。
- 戸部郎中の戴紹科、錦衣僉書の楊宗吾に汝南で開礦するよう命じた。
- 八月、詹事府録事の曽長慶、錦衣衛百戸の呉応騏が山西の夏邑で開礦することを請い、府軍後衛指揮の王中允が青州・沂州などで開礦することを請い、従われた。
- 礦盗を招いて開採させ、なお富民を編して礦頭とした。太監の王虎の請に従ったのである。
- 錦衣衛百戸の汪文通が沂州の礦を、指揮の郝承爵が費県の礦を、指揮の劉鑑が棲霞・招遠などの礦を、指揮の馬清が文登県の礦を、千戸の趙良将が沂水・蒙陰・臨朐の礦を言い、太監の陳増に府軍指揮の曽守約とともに開採するよう命じた。
- 九月、山西巡撫の魏允貞が開礦を停めるよう請うたが返答はなかった。太監の王虎が保定巡撫の李盛春が開採を阻み撓めていると論じ、旨を下して厳しく責めた。
- 十一月、戸部郎中の戴紹科が礦砂の銀を進め、これ以来、進める者が続いて至った。
- 十二月、太監の張忠を山西に、曹金を両浙に、趙欽を陝西に遣わしてそれぞれ開礦させた。
- 輔臣の沈一貫が「留守中衛の王一清が煤炭に税を課すよう請うのは民の害となります」と言ったが返答はなかった。
- 先に奸人の王君錫が易州の礦を開くよう奏し、旨が戸部に下って議されたとき、尚書の林材が執って奏し、かつ「山を冶する害は、小さくは争い掠め、大きくは嘯き聚まる。盗の囮であり寇の藪である」と上言した。そこで幡然として従い、王君錫を逐ってひそかに住んで奸計を生ぜぬようにさせた。ところがこのとき新建の張位が政を秉って「利は天地の自然から出るもので、国を益して民を病ませることはない。採るのが便である」としたので、上はついにその言に従った。
萬曆二十五年(1597年)(諫言の続出)
- 春正月、御史の况上進、給事中の楊応文が建昌の採木の害を言った。「人夫が瀘水を渡って瘴に触れて死ぬ者は野を被い、吏胥は公に借りて私を行い、毒は百姓に流れております」。返答はなかった。戸科の程紹が「開礦の事は変端が多い」と言い、疏はおよそ五たび上ったがみな返答はなかった。
- 二月、天津などの店租を督徴する内官に関防を給した。
- 三月、浙江巡按の王業宏が礦税の便でないもの六つを言って停め罷めるよう乞うたが返答はなかった。
- 四月、刑部侍郎の呂坤が言った。洮州・蘭州の絨、山西の紬、浙江・直隷の段絹は無用に積まれております。かりに服に定まった期があって歳ごとの用が千疋であれば、江南・山陝の人心は収まります。礦税は利なく民間に銀を納めさせ、民は支えられずに庫の銀を括って代納しております。どうして開礦の初意でありましょう。まことに各省の使臣に勅して散砂を厳禁し、解送に借りることを許されなければ、各省の人心は収まります。趙承勲が四千の説を造ってから皇店が開き、朝廷に内官の遣わしがあってから事権は重くなりました。しかも馮保の八店は屋がいくばくもないのに歳に四千金では、市民から奪わずにどこから取れましょう。まことに各店の内官を撤されれば、畿内の人心は収まります、と。返答はなかった。
- 九月、太監の陳増が福山知県の韋国賢が開採を阻み撓めたと弾劾し、逮えて獄に下し、巡撫の万象春の俸を奪った。
- 山西巡撫の魏允貞が「巨璫が出て礦税を領するのは民の鑿歯・窫窳であり、なかでも礦がとりわけ甚だしい」と奏言した。璫もまた反噬して上の怒りを激した。魏允貞はさらに書を上って朝廷の得失を言い、宰臣が輔導しえず刑余の人に悪を播かせていると譏り切った。上は厳しく責めた。
萬曆二十六年(1598年)(税監の全国配置と諫言)
- 六月、内監の李敬に広東で珠を採らせた。
- 七月、神武衛千戸の朱仁らが「湖口の船税は一万余金になる」と奏し、鴻臚寺主簿の田応璧が両淮の没官の余塩を言い、内監の李道に湖口の税を督させ、魯保に淮塩を経理させ、いずれも有司を節制することを許した。
- 戸科給事中の包見捷が上言した。開礦の害は、陛下は「ただ山沢から取るだけだ」と仰せですが、礦使は実は閭閻から奪い取っております。搥き撃たれて山に入る者は十のうち二、虎狼が檻から出ること天下の半ばであります、と。科臣の趙完璧・郝敬、道臣の許聞造・姚思仁が交々章を上って言ったが返答はなかった。
- 保定巡撫の李盛春らの俸を奪った。天津の店税の銀の解送が遅延したので罰したのである。
- 八月、太常寺少卿の傅好礼が「近郊で官を偽って税を抽いております」と言ったが返答はなかった。三日を越えて傅好礼は文華門に伏して面対を求めた。上は怒って広昌典史に降し、大理寺卿の呉定が疏して救うと籍を削った。偽官の二十八人は鎮撫司に下された。
- 惜薪司の柴炭は歳ごとに兵部・工部の二十余万に上ったが、このとき増額を求めた。給事の賈維春が「歳ごとに進める物料は上の用いるところ十分の二、三で、余りはことごとく溪壑に入っております。いま重ねて増額を求めてやまぬのは、まことに国家のために盈縮を計るものでありましょうか」と言ったが返答はなかった。
- 九月、益都知県の呉宗堯が「礦務太監の陳増は上を罔いて私を営んでおります。益都には鉛砂があって銀礦はないのに、陳増は強いて銀に入れさせております。すでに法にあらざる業です。しかも強いて採らせ、代納がやや緩ければ吏民に逮捕が及びます。陛下の得られるところは十のうち一で、陳増が私に橐に入れるのは十のうち九であります」と奏した。山東巡撫の尹応元が陳増の罪状二十余条を参劾したが、旨に忤って俸を奪われ、呉宗堯は鎮撫司に下されて籍を削られた。
- 十月、雲南の大理で石を採らせた。
萬曆二十七年(1599年)(税使の乱立と抗議)
- 春正月、御馬監の高寀を分け遣わして京口を榷し、供用庫官の暨禄に儀真を榷させた。
- 二月、百戸の張宗仁が浙江の市舶を復することを請い、太監の劉成に浙江の税を榷させた。千戸の陳保が珠を榷することを請い、内監の李鳳に広州で珠を採らせ、兼ねて市舶司の税課を徴させ、福建市舶司を設けた。
- 御馬監の高寀に礦務を兼ねさせた。内監の楊栄に雲南を開採させ、陳奉に荊州の店税を、陳増に山東の店税を徴させ、孫隆に蘇州・杭州などの税課を帯び徴させ、魯坤に河南を、孫朝に山西を帯び徴させた。当時、奸弁の馮綱らが風を望んで利を言い、みな朝に奏して夕に遣わされた。
- 湖口の税監の李道が南康知府の呉宝秀、星子知県の呉一元を「国税を侵し僨った」と参劾し、緹騎に逮えて理に下すよう命じた。呉宝秀は着任してわずか十六日、初め大理に任じて廉平の声があったが、このとき李道に忤って逮えられ、妻の陳氏は檻車の傍らで自縊した。
- 内監の丘乗雲に四川の税を徴させて礦務を兼ねさせ、梁永に陝西の税を徴させ、それぞれ原奏の千戸の翟応泰・楽綱らを赴かせた。御馬監の潘相に江西の瓷厰を督理させ、前の珠池太監の李敬に広東の礦税を兼ねさせた。
- 輔臣の沈一貫が言った。中使の衙門はみな創設で、まったく旧例として因るべきものがありません。おおむね中使一員にその従者は百人ばかり、分け遣わす官は十人を下らず、この十人がそれぞれ百人を要すれば千人となり、この千人が家ごとに十口を率とすれば一万人となります。一万人に日に千金を給せば歳に四十余万を要するのに、得るところはわずか数万。いたずらに怨みを歛めるだけです。いま二十処に分け遣わせば歳に八百万を糜します。聖思がたまたまここに及ばれぬのでしょう。ことごとく撤されたい、と。返答はなかった。まもなく諸省はみな税を礦使に併せた。
- 三月、内監の王忠に密雲の税を、張煜に盧溝橋の税を徴させた。太監の陳増と馬堂が税を争ったので、馬堂に臨清の税を、陳増に東昌の税を課させた。
- 錦衣衛千戸の韋夢麒に御馬監奉御の陳奉とともに湖広などの店税を徴収させ、銀六万余を徴した。上は湖広の荊州にもと辛効忠の店房があり、かつて遼藩に窃拠され、後に張居正の私意で革免されたことを、撫按に奏明させた。
- 巡撫の支可大が奏して言った。湖楚は内に江湖が錯綜し、ゆえに沢国と称されます。物産に縑纁綺繍の奇があるわけでなく、その貢に璆琳琅玕の珍があるわけでもありません。近年、採木の重い役で林を焚き沢を竭くし、十室九空であります。旧来の各項の税課、たとえば荊州の遼府や張居正の店房はすでに没入され変価されて京に解送され、ことごとく民間の業となっております。いまわずかに沙市で税銀を徴収し、各府にもと税課司があって門攤商税、茶・塩・油・布の雑税があり、内には京に解送し辺を済うのに給し、外には宗藩の吉凶の資に充て、大は官軍の俸銭・科挙・兵餉の需に供し、小は紙劄・公費・工食・衣糧の数に作てております。紀載は甚だ明らかです。
- いまもし前項を内帑に収め入れれば百用は乏しく絶えます。もし用の詘るに迫られて重ねて加派を議すれば下民は怨み咨ちます。これはなお官にあることを言ったにすぎません。民にあってはどうか。貨を行れば税があるのに算は舟車に及び、貨を居けば税があるのに算は廬舎に及ぶ。米麦菽粟は饔飧なのに税し、鶏豚は肉食なのに税し、耕牛・騾驢は一つの畜産なのに税する。十五郡の中で捜し括り、あまねく一百十六州県の内に及ぶ。一年の中に駅逓の銭糧が動もすれば千を益す。地方を擾さぬようにと欲しても得られません。楚はもとより獷悍で、さらに横政をもって駆れば、その底止するところを知れぬものがありましょう、と。返答はなかった。
- 戸科給事の包見捷が疏して礦店の滋り蔓ることを論じ、また疏して臨清の税使が民を擾して必ず変を生ずるに至ることを論じ、また疏して遼左が危うきに臨み礦市の患いがとりわけ烈しいことを論じた。一月に三疏、内使を指し数えること切に直く、時論は是とした。貴州布政司都事に謫され、まもなく臨清の百姓が変じて税使の馬堂を殴ってほとんど死なせた。包見捷の言は左券のごとくであった。
- 歙県の監生の呉養晦が税監の魯保に投じ、「祖父の守礼が塩課の逋を工銀十五万残しております。追い入れて占めた産を給されたい」と言い、従われた。
- 左春坊左庶子の葉向高が礦使を罷めるよう請うたが返答はなかった。大学士の趙志皋が病篤く、特に疏して礦税を停めるよう請うたが返答はなかった。
- 四月、河南の礦監の魯坤が「礦砂の嬴縮は一定しません。均しく官民に派することを請います」と言い、従われた。
- 十月、南京守備太監の郝隆・劉朝用が寧国・池州などの礦を採った。戸科給事の李応策・姚文蔚が播州の警によって中官の礦税を停めるよう乞うたが返答はなかった。
- 八月、錦衣衛総旗の申敏が湖広興国州の礦洞の丹砂を奏し、陳奉に開採するよう命じた。
- 荊州府推官の華鈺、黄州府経歴の車任重を逮え、荊州知府の李商耕、黄州知府の趙文煒、荊門知州の高則巽をそれぞれ一級降した。税監の陳奉が誣い弾劾したのである。
- 初め陳奉が武昌から荊州に抵ると、商民で鼓譟する者は数千人、磚を飛ばし石を撃って勢いは禦ぎがたく、道・府の諸臣が身をもってその衝を犯し力を殫くして防護した。ただ華鈺だけが公事で夷陵に至っていたので陳奉は疑い、また差官の冠帯を禁革し司役の書算を阻み截ったのを悪んで、受けた誣いはとりわけ烈しかった。また襄陽で税課したとき商人が徒を聚めて鼓譟したので、知府の李商耕がその参随を治め、荊門に鎮を開いて税課を増設したが、荊門はもとより巨鎮ではなく往来の商船はかなり少なかった。知州の高則巽が阻み撓めたと誣われ、みな降調された。
- 雲南の税監の李栄が諸生を虐げて詬られたので、李栄は巡撫の陳用賓を弾劾し、諸生を理に下すよう命ぜられた。
- 九月、戸部が大珠と竜涎香を進めた。
- 十月、驍騎衛百戸が湖広の郡県の積み貯えた羨銀を徴することを請い、また興国州の人の漆有光が「徐鼎らが古墓を掘って黄金巨万を得た」と報せたので、陳奉に撫按とともに査して解送させるよう命じた。
- 十二月、応天府に帘・屏・竜旗・竜簾の諸上供物を取るよう命じた。府丞の徐申が疏して「費えはまさに巨万で、弊は言うに堪えません。どうしてもと仰せなら、炉を増して鼓鋳して急を済うことを請います」と言い、可と報ぜられた。
- 武功衛百戸の韓応桂が「土民の夏国瑚の報せでは湖広の京山に真の礦があり、鉛砂・大青などの物があります」と奏した。このとき興国・麻城の開採は鉛砂を得ただけで、得るところは失うところを償わず、陳奉さえ経営に労れ瘁れて奉行に苦しんでいた。巡撫の支可大が疏して韓応桂の欺罔を参劾し、法に置くよう請うたが、上はその罪を免じて撤回させた。
- 雲南道御史の葉永盛が、遣わされた璫が虐を播いていることを奏し、禍の首を誅するよう請うたが返答はなかった。
萬曆二十八年(1600年)(李三才の直諫と民変)
- 春正月、武昌・漢陽の民千余が撫按の門に集まって税監の陳奉の毒を陳べたが、撫按は敢えて理めず、民情はいよいよ憤った。
- 貴州巡按の宋興祖が採木を停めて播州の討伐に専力するよう請うた。
- 西安府同知の宋言を逮えた。税監の梁永が「衆を激して乱を倡えた」と弾劾したのである。
- 二月己卯、太監の暨禄に鳳陽・安慶・徽州・廬州・常州・鎮江の税を兼ね徴させた。先は応天・太平・寧国・淮安・揚州を徴するにとどまっていたが、このとき羽林千戸の王承徳、金吾百戸の王鎮の請に従ったのである。
- 南京守備太監の邢隆が沿江の洲田に税した。
- 辛巳、内監の魯坤が彰徳・衛輝・懐慶・開封などの礦洞を開いた。武驤衛百戸の張欽の請によるものである。
- 戊子、錦衣衛百戸の王体仁が長江の船税を徴することを奏し、従われた。
- 三月戊申、四川の貢扇が至らず、左布政使の程正誼ら五人がみな降調された。
- 庚戌、両淮塩務少監の魯保が、税監の陳増の委官の程守訓が武英殿中書舎人を偽って虐を恣にしていると参劾したが返答はなかった。
- 広洋衛鎮撫の戴君恩が「広東の遺塩および名馬・天鵝絨・鎮伏西錦・珠宝はみな土産であります」と奏し、上はただちに徴収を命じた。総督の戴耀が極言したが聴かれなかった。
- 四月甲申、雲南礦税宝井の内監の楊栄が雲南知府の蔡如川、趙州知州の甘学書らを参劾した。
- 乙酉、珠池市舶税務の内監の李鳳が新会県で変を激し、郷官の呉応鴻らを参劾したので、逮治するよう命ぜられた。
- 鳳陽巡撫の李三才が礦税を停めるよう請うて言った。礦税が繁く興ってより万民は業を失いました。陛下は斯民の主でありながら、これに衣を与えぬばかりかその衣まで奪い、これに食を与えぬばかりかその食まで奪われます。徴榷の使いは星火より急ぎ、捜括の令は牛毛より密です。今日、某の礦で銀いくらを得たといえば、明日にはまた銀いくらを加える。今日、某処で税いくらといえば、明日にはまた税いくらを加える。今日、某官が礦税を阻み撓めたとして拏え解し、明日は某官が礦税を怠り玩んだとして罷職する。上下が相い争って利あるのみを聞くありさまです。
- 臣の境内で税を抽くだけでも、徐州は陳増、儀真は暨禄、塩を理むる揚州は魯保、蘆政の沿江は邢隆。千里の区に中使が四方に布かれ、加えて無頼・亡命が翼に附いて虎狼のごとくであります。中書の程守訓のごときはとりわけ憚りなく、旨を仮って財を詐り取ること動もすれば万を数えます。昨日、運同の陶允明が楚から来て、「彼の地の内使は沿途で墳を掘って財を得てようやく止んだ」と申しました。聖心は安らかでありましょうか、安らかでありませんでしょうか。
- しかも一人の心は千万人の心であります。皇上が珠玉を愛されるように人もまた温飽を愛し、皇上が万世を愛されるように人もまた妻子を恋います。どうして皇上は黄金を北斗より高くしようとして百姓に糠粃升斗の儲えも持たせず、皇上は子孫の千万年を為さんとして百姓に一朝一夕もなからしめられるのか。試みに往古の籍を観るに、朝廷にこのような政令があり天下にこのような景象があって乱れなかった例がありましょうか、と。返答はなかった。
- 辛未、李三才がさらに奏した。数か月来、章奏で礦税に係るものは束ねて高閣に置かれます。臣の前の疏は泛常のものではなく、国脈・民命の関わるところ、天心・祖徳の在るところであります。人主は万姓の主たりえてこそ、その後に奔り走って侮りを禦がせられます。もし休戚が関わらず威力に憑むのみなら、刦め奪うだけ、斬り刈るだけです。人の子を孤にし、人の妻を寡にし、人の産を拆き、人の墓を掘る。敵国の讐人に対してさえ忍びぬところなのに、まして我が袵席の赤子においてをや。
- 窮困して無聊なれば、ついに窺い窃むことを生じます。徐州の趙古元の類がこれです。そもそも天下は小さく弱くはなく、草沢の人は広く衆くあります。古元たらんとする者に限りはありません。ただ朝廷の処置が宜しきを得て、乗じようとしても釁がないゆえに、首を俛れ心を降して教に従い令に従っているだけです。いまこれを駆って乱れさせようとされる。臣は万姓が朝廷のために屈することを肯んじなくなるのを懼れます、と。
- 南京守備太監が廬州に下って六安州の礦の有無の状を問うた。知府は地図を具えて「六安に礦はあるが、高皇帝は人が盗み採って皇陵の来脈を傷つけるのを恐れられた。ゆえに六安衛は特に巡山の任を重んじており、妄りに開き取ることを議しかねます」と上言し、詔して止めさせた。
- 六月戊戌、礦監の趙欽が富平知県の王正志を弾劾して逮訊した。
- 七月、税監の王虎が通州同知の邵光庭、香河知県の焦光卿を弾劾して降調させた。戊申、税監の陳奉が江防参政の沈孟化、蘄州知州の鄭夢楨を訐発して降調させた。戊午、巡按御史の王立賢が税監の陳奉の貪暴が変を激していると奏したが返答はなかった。当時、陳奉は承天の金花灘を道し、居民に黄金を勒し、拷問は婦人に及び、併せて鍾祥知県の鄒堯弼を拘えて遠近は大いに震えた。
- 八月、把総の韓応竜が「四川の成都・竜安は塩茶を産し、重慶・馬湖は名木を産します」と奏し、内監の丘乗雲に赴いて徴させた。
- 十二月辛丑、湖広の税監の陳奉が荊州衛の王指揮を遣わして穀城で開礦させたが得られず、貸主の簿を責めて庫金いくらかを脅した。邑人は大いに懼れて群がって撃ち、指揮は走って免れたが、他はみな江中に溺れた。
萬曆二十九年(1601年)(各地の民変)
- 二月、天津の税監の馬堂が大西洋の利瑪竇の方物を進めた。礼部は「大西洋は会典に載らず真偽は知りがたい。しかも貢するところの天主・女の図はすでに不経であり、嚢に神仙の骨などの物がある。そもそも仙となれば飛昇するのに、どうして骨があろう。韓愈は『凶穢の余りは宮禁に入らせるべきでない』と言った。量って冠帯を給して還らせ、ひそかに京師に住まわせぬようにされたい」と言ったが返答はなかった。
- 己丑、武昌兵備の馮応京が陳奉の大逆十罪を参劾したが、京に逮えられ司理に下されて籍を削られた。陳奉が青山・棗陽で開礦しようとしたとき、知県の王之翰が顕陵に近いとして拒んだので、そのついでに襄陽通判の邸宅、推官の何棟如まで誣い、みな籍を削られ逮えられて獄に下され、王之翰はまもなく斃れた。
- 三月、武昌の民が変じて陳奉を逐った。陳奉は兵を列ねて二人を殺し、楚府の中に匿れ、甲騎三百余に命じて数人を射殺し二十余人を傷つけた。陳奉は一月を越えて敢えて出ず、衆は陳奉の左右六人を執えて江に投じた。陳奉は自ら公署の門を焼いた。事が聞こえて知府の王禹声、知県の鄒堯弼を謫して民とした。沈一貫が陳奉が変を激したことを論じたが返答はなかった。
- 四月、直隷の儀真などの税を督理する御馬監の暨禄が言った。臣が廬州・鳳陽・徽州・安慶の遺税ならびに沿江の船税を徴するにあたり、各撫按はみな「重畳して足らぬ」と言って寛く処するよう題請しました。臣は敢えて憑みませんでしたが、二項合わせて二十万金のところ、いま徴したのは一万にも満たず、初めて撫按が拠るべきで原奏の人は憑むに足りぬと信じました。民の瘼みを軫み念い、実の徴収で解し上らせ、原奏の人が揣り摩った数に拘らせぬようにされたい、と。上は従った。当時、榷使は奇に暴だったが、ひとり暨禄だけが寛恤を請い、およそ五たび上った。
- 六月己巳、太監の孫隆が浙江・直隷で税を採り、蘇州に駐まって変を激し、市人がその参随の黄建節ら数人を殺した。撫按が乱民を詰ると葛成という者がひとり引き受けて服し、他には及ばず、獄に下されて死に論ぜられた。
- 直隷巡按御史の劉曰梧が部を行って徽州で程守訓が坊を竪てて「特旨」と書き、下に「咸有一徳」と書いているのを見てただちに収めた。程守訓が劉曰梧の短を訐発して奏したが返答はなかった。
- 七月、陝西の撫按が「歳貢の羊絨四千疋を、命を奉じて盤陵に改め織り、さらに柘黄・暗花の二則を降されました。一疋の長さは五丈八尺で、日に一寸七分半を織り、半年で一疋を得ます。どうして額のようにできましょう。ことごとく改め織ることを乞います」と奏したが返答はなかった。
- 九月、礼部尚書の沈鯉を起こして大学士として入閣辦事させた。沈鯉は陛見して疏を具え、上が言によって治を致されることを望み、また礦税の害を極めて陳べた。まもなく長至の節に当たり、上は太監の陳矩を使わして宴させた。開礦の事に言い及ぶと、沈鯉は「山川の霊気を洩らして陵脈を傷つけ、聖躬と聖子神孫に関わることは細かでありません」と言い、上は頷いた。
- 礼部侍郎の郭正域が疏して「世宗の朝には内臣の鎮守および珠池の貢物で駅逓を擾し濫りに奏して銀場を帯び開いた者を按問し譴戍して貸さなかったことが宝録・宝訓に備わっております。諸中使を罷めて乱の萌を杜がれたい」と言ったが返答はなかった。
- 十月、内監の魯保に両淮の塩政を司らせて浙江・直隷の織造を兼ねさせ、専らの勅と関防を請わせた。礼部侍郎の郭正域は不可として内閣に赴いて申した。朱賡は「勅はすでに去った。勅中には勧戒の語が多い」と言った。郭正域は「いま文武の臣で勅を奉ずる者に、誰か勧戒がない者がありましょう。一々奉行できておりましょうか。どうして閹に望めましょう」と言った。退いて疏を具えて力争し、関防は給されずに済んだ。
萬曆三十年〜三十三年(1602〜1605年)(停止の詔と諸地の変)
- 三十年二月己卯、上はたまたま不予となり、急ぎ輔臣の沈一貫を召し入れて太子を勉めて輔けることを諭し、併せて礦税を罷め、廃を起こし禁を釈く諸事に言い及んだ。翌日、上は安らかとなり、諸事はそのまま寝んだ。停税の諭がすでに出ていたので、上は悔いて急ぎ追わせた。太監の田義が「諭はすでに頒行されました。汗を反すべきではありません」と諫めた。上は怒ってほとんど手ずから田義を刃しかねなかったが、田義は動じなかった。沈一貫が恐れて急ぎ前の諭を繳すと、田義は唾した。
- 初め吏部尚書の李戴、左都御史の温純は即日に奉行して天下に頒つことを約し、刑部は「獄を弛めるには再び請わねばならぬ」と言った。まもなく旨は格まった。
- 饒州の景徳鎮で民が変じた。税監の潘相の舎人が激したのである。潘相は通判の陳竒を誣い弾劾して逮えて獄に下した。
- 三月、雲南の税監の楊栄が虐を恣にして変を激した。滇の人は憤りに勝えず、厰房を焼き、委官の張安民を殺した。撫按が奏聞すると上は怒ってその章を持して下さなかった。大学士の沈鯉が掲して「乱を定めるのは速やかにすべきです。久しければ変を生じます」と言い、また楊栄の罪状を具さに列べて、株連が及ばぬようにさせた。
- 五月戊辰、太監の劉成が蘇州・松江・常州・鎮江の税を徴して変を激した。江西の税監の潘相が諸生および輔国将軍の謀託を掠めたので、各宗が大いに哄いて門をこじ開けて入り、潘相は走って免れた。上饒知県の李鴻を誣い弾劾して怨みに報い、李鴻は除名された。
- 礼部侍郎の馮琦が上言した。礦税の害は、滇では張安民のゆえに厰房が焼かれ、粤では李鳳が禍を醸してその腹を剸り刃そうとされ、陝では委官が県令を迫り死なせて民は洶々として安んじません。両淮では変を激して地方が官舎と銭糧を劫め燬き、遼左では余東翥のゆえに屍を砕かれ家を抄されました。土崩瓦解、乱は旦夕にあります。皇上は心を動かされずにおれましょうか、と。返答はなかった。
- 応天に大風があって富家の樹を抜いて穴となった。魯保が「礦を盗んだ」と誣ったが、府尹の徐申が力めて富家の冤を明らかにし、かつ「帝京の王気は鑿つべきでない」と盛んに言い、魯保は奪えなかった。
- 九月、揚州の富民の呉時修が銀十四万両を献じ、詔してその子弟にそれぞれ中書舎人を授けた。
- 三十一年九月、雲南の税監の楊栄が麗江土官の木増に地を退いて開採を聴すよう責めた。巡按御史の宋興祖が「麗江は古の荒服です。木氏は代々知府として石門を守って西域を絶ち、鉄橋を守って土番を断ってきました。自らその藩を撤して封疆を貽誤すべきではありません」と上言したが返答はなかった。
- 三十二年三月、都御史の温造が「礦税の毒虐」を言い、広東の税使の李鳳を逮え、陝西の税使の梁永、雲南の税使の楊栄を撤するよう乞うたが返答はなかった。
- 八月丙午、武驤百戸の陳起鳳が大木を採ることを請うたが、利を覬うたとして除名され、その党もことごとく逐われた。当時、大雨で都城が崩れ壊れた。戸部尚書の趙世卿が「蒼生の糜爛はすでに極まり、天心の警めを示すのは畏るべきです。礦税の貂璫は墳墓を掘り子女を姦しております。皇上はかつて『朕の心は仁愛である。自ずと停止の日があろう』と仰せられました。いままさに元元を枯魚の肆に索めようとされております」と言ったが返答はなかった。
- 九月戊申、翰林簡討の蔡毅中が「皇明祖訓」の節略のうち礦税に関わるものを注疏して二十二巻としたが返答はなかった。
- 三十三年春正月壬辰、広東の撫按の戴燿・林秉漢が「税監の李鳳が潮州推官の姚会嘉を憾んで広州で遮り辱めております」と奏したが返答はなかった。
- 二月丙午、広西を巡按する楊芳国が「税監の沈永寿が土産の金・銀・鉛・錫を有司に派して包み解送させております。永康・思恩などの州にはもとより礦洞がないのに多くの金を派しております。免ずべきです」と言ったが返答はなかった。
- 八月、礼部侍郎の馮琦が上言した。礦使が出て天下の苦しみは兵よりさらに甚だしく、税使が出て天下の苦しみは礦よりさらに甚だしくなりました。皇上は商を通じさせようとされるのに彼らは専ら商を困らせようとし、皇上は民を愛されようとするのに彼らは必ず民を害そうとします。皇上は撥置を信ずるなと戒められるのに撥置はいよいよ多く、皇上は繹騒を報ぜぬことを責められるのに繹騒はさらに甚だしくなります。皇上の心はただ国を裕かにしようとされて民を病ませようとはされませんが、群小の心は必ず民を瘠せさせてこそ己を肥やせるのです、と。疏は留中された。
- 十二月壬寅、詔して採礦を罷め、税務を有司に帰し、礦税で獄にある承天の諸生の沈機ら十二人を釈した。
萬曆三十四年〜四十八年(1606〜1620年)(税監の残存と廃止)
- 三十四年春正月癸巳、咸陽知県の宋時隆を逮えて獄に下した。当時、礦税を停める命があったが、税監の梁永は咸陽・潼関の委官は罷めるべきでないと堅く執り、いよいよ党を樹てて虐を布いた。巡撫の顧其志が悪党を捕らえて法に置くと梁永は大いに恨んだ。梁永はまた宋時隆に檄して絨氈千五百を取らせたが、宋時隆が与えなかったので、宋時隆が税を劫めたと誣った。閣臣が掲して沮んだが返答はなかった。
- 二月己未、南京内官監丞の徐寿が印牒を偽造して中旨と称し、南工部の杉枋三千を徴した。部が詳らかに報じて詐りが窮まり、守備太監の劉朝用に下して訊ねさせた。
- 三月己巳朔、大学士の沈鯉・朱賡が「秦の人は梁永を恨むこと甚だしい。撤すべきです」と言ったが返答はなかった。乙亥、江西礦務太監の潘相が停税により景徳鎮に移り、専ら陶を請い、従われた。丁丑、なお江西湖口の税務を税監の李道に帰した。
- 己卯、雲南礦務太監の楊栄が殺された。楊栄は久しく滇にあって威福を恣に行い、杖で数千人を斃し、指揮の樊高明らを榜掠し、六衛の官をことごとく捕らえたので人々は自ら危ぶんだ。指揮の賀世勲・韓光大がそこで衆を倡えてその署を焼き、徒党と輜重はみな燼となった。事が聞こえて上は怒って食せず、「楊栄は惜しむに足りぬが、紀綱がどうしてたちまちここに至ったのか」と言い、その首事を罪し、中使を罷めて遣わさず、税課を四川の税使の丘乗雲に帰した。賀世勲は下獄して死に、韓光大は辺に戍られた。
- 五月、鳳陽を巡撫する李三才が「恩詔が中途で格まり、二つの説が流伝しております。一つは新政はもと聖意でないゆえ開くやたちまち閉じたというもの、一つは沈一貫が沈鯉・朱賡が位を妨げるのを恐れ、事が己から出ぬのを恥じて左右を傾ける計を為し、善事を終わらせなかったというものです」と言った。上は怒って俸を三月奪い、沈一貫が奏して弁じたが問わなかった。
- 三十五年七月壬辰、陝西の税監の梁永を撤して京に還した。初め陝西を巡按する御史の王基洪が税監の梁永が兵を陳べて吏民を殺傷したと弾劾したが、巡撫の顧其志の奏は至って平らかだったので、上は疑った。梁永はそこで咸陽知県の満朝薦が御史の意を承けて渭南に兵を伏せて貢を劫めたと訐発して奏し、上は怒って満朝薦を逮えるよう命じた。廷臣が救いを論じたが聴かれなかった。当時、緹騎が灞上に止まると、宗室・士民は数万人が梁永の署を囲んだ。満朝薦は間道から檻車に就いた。藍田知県の王邦才もまた奸を発き蠧を剔って梁永と相い左り、併せて梁永に誣われた。このとき中旨によって梁永は撤されて還った。
- 十一月、福建を巡撫する徐学聚、戸科給事中の江灝が税監の高寀の不法を弾劾したが返答はなかった。初め高寀は閩中で虐を恣にし、旧撫の袁一驥がその爪牙を捕らえて法に置いた。高寀は楼船・艅艎を造り、戎器を治め、亡命を招き集め、百貨を徴集して諸番と市そうとした。閩の人がその門に集まって詬ると、高寀は百余人を殺傷し、民居を焼くこと数知れなかった。袁一驥が力めて輯めてようやく定まった。やがてまた紅番を招いて入市させ、商人・漁民を殺戮し、次第に内地を窺ったので、徐学聚が奏したのである。
- 三十六年五月甲寅、遼東の税監の高淮が錦州で変を激した。高淮は寵を恃んで恣に横暴で、吏民が少しでも意に拂えば、父子・老弱が係累して相い属き道に干った。税を徴して私の賦はその倍。市を開くたびにその善い馬を奪い、駑いものは堡の軍に強いて勒して重い価で購わせ償わせた。自ら疏して兵将を調度して自らの功伐を詡った。総督の蹇達が「内臣は政に預かり兵を典るを得ぬ」と弾劾して奏したが返答はなかった。
- このとき錦州の軍戸に賄を索め、軍戸がその使いを殺して衆を激すこと千人、囲んだので、高淮は倉皇として山海関に逃げ入った。吏部左侍郎の楊時喬、戎政尚書の李化竜が「遼東は重く困り危うきは旦夕にあります。みな高淮が民を擾し変を激して禍患に資したのです」と力言し、上は高淮を撤して京に還らせた。
- 四十一年六月、初め広東の珠池は万暦三十二年から採取を停めていたが、このとき金吾右衛指揮の倪英が章を上って開くことを請うた。刑科給事中の郭尚賓が開採の害を論じたが返答はなかった。
- 四十二年二月、各省の税課を三分の一減らすよう命じた。
- 四十三年八月、内官の呂貴に暫く浙江の織造を提督させ、江西の税監の潘相に檄して福建・広東の税課を催させた。閣臣が言ったが聴かれなかった。九月丁丑、江西湖口の税廨が焼けた。大学士の呉道南が湖口の商税を罷めるよう請うたが返答はなかった。
- 四十四年四月丙午、雷火が通州の税監の張煜の楼居を焼いた。御史の金汝諧が奏聞して税使を罷めるよう請うたが返答はなかった。八月の万寿節に、税監の河南・湖広・江西の潘相、通湾の張煜、天津の馬堂、四川の丘乗雲、南京の劉朝用に歳禄を加え、呂貴に飛魚服を賜った。
- 四十七年五月、吏部候選の儒士の蔣定国が山西の夏県などの礦を採ることを奏したが、疏が通政司を通らなかったので通政使の姚思仁が糾した。当時、遼東の三路の敗兵の餉が急を告げており、歙の人の曹致廉らが内監とともに江南の富家を捜して数百万の餉を借りることを奏し乞い、姚思仁は重ねて疏して争った。
- 四十八年七月、上が崩じた。遺詔で一切の礦税ならびに新たに増した織造・焼造などの項を罷め、建言によって廃棄された者および礦税で詿誤された諸臣を酌み量って起用することとした。皇太子の令旨を奉じてことごとく停止し、税監の張煜・馬堂・胡濱・潘相・丘乗雲らを撤して京に還した。
史論(谷応泰曰)
- 聞くところ、銀を鏤め金を品ずることは禹貢に列し、二十人分の璣貝は周礼に載る。国に常経があって、無芸に徴すべきものではない。まして王者は富を閭閻に蔵し、天子は下って金車を求めぬ。多欲の者には仁義が施しがたく、貨を瀆す者には乱の源が伏す。天下を有つ者は謹まずにいられない。
- 神宗の代は奕葉の昇平、辺圉は封貢し、海内は乂まり安んじて家は給し人は足りていた。それなのに苞桑の憂いを慮りに繋けず、日中の昃くを懐に虞えず、賢士大夫を遠ざけて宦官・宮妾に親しみ、女謁・苞苴に陰かに吝嗇の性を発し、孜々として談ずるところは利の萌すところばかりであった。
- 万暦二十四年に至って張位が謀を主とし、仲春が策を建てて、礦税が起こった。そこで張忠を山西に、曹金を両浙に、趙欽を陝西に遣わし、陳増は山東に駐まり、高寀は福建を領し、楊栄は雲南を弁じ、丘乗雲は四川に駐まり、李敬は広東を摂し、郝隆・劉朝用は池州を採り、陳奉は湖広を領し、魯坤は彰徳・衛輝を開いた。大璫が諸道に雑え出て紛然とし、民はその間に生きて、富める者は礦頭に編され、貧しき者は駆られて墾り採り、繹騒し凋敝すること草を菅るごとくであった。
- しかもそれだけではない。礦務のほか、天津には店租、広州には珠榷、両淮には余塩、京口には供用、浙江には市舶、成都には塩茶、重慶には名木、湖口・長江には船税、荊州には店税があり、さらに門攤商税、油・布の雑税があって、璫を設け職を分けて横に誅求を恣にせぬものはなかった。有司は罪を得れば立ちどころに檻車に繋がれ、百姓の奉行は駝馬を駆るがごとくであった。漢室の牢盆、桑弘羊・孔僅の乗伝、熙寧・元豊の手実に、鶏や豚まで悉く空しくさせたとしても、いまだこれほどの酷さはなかった。
- ついに国法は恣睢し、人は痛憤を懐いた。「爾に反る」の戒め、舟を覆す禍いもまた間々あった。ゆえに高淮は遼東で変を激し、梁永は陝西で変を激し、陳奉は江夏で変を激し、李鳳は新会で変を激し、孫隆は蘇州で変を激し、楊栄は雲南で変を激し、劉成は常州・鎮江で変を激し、潘相は江西で変を激した。このときにあたって瓦解土崩して散じ、亡びなかったのは幸いにすぎぬ。
- それなのに深宮は省みず、疏が入っても留中した。初めは礦税のゆえに璫を設けたが、次いでは璫が熒めいて命を託して礦税を言い、初めは璫が媚びて礦税に迎合したが、次いでは璫が肥えて交わりを宮闈に結び、根を植えること深く固くなり、たやすくは抜けなくなったからである。
- 善いかな、侍郎の馮琦の疏に「皇上の心はただ国を裕かにしようとされて民を病ませようとはされないが、群小の心は必ず民を瘠せさせてこそ己を肥やせる」とある。三十三年に至って税は有司に帰し礦使は停め罷められた。輪台の悔いは遅すぎたのではないか。しかも二年を経てなお税監は革められず、七年の後に池がまた開かれた。衛の武公が酒を飲んで悔いたことや、秦の穆公が河に臨んで誓ったことに比べれば、何と習いが性となったことよ。