明史紀事本末黄河決壊の患い(河決之患)

正統十三年(1448年)の滎陽決壊から崇禎十五年(1642年)の開封水没まで、およそ195年間の黄河の決壊と治水を記す。明代の河患は民田を損なうだけでなく漕運を絶つ点に難しさがあり、景泰年間に徐有貞が広済渠と九堰を築いて沙湾の決壊を治め、弘治年間には白昂・劉大夏が支流を分けて長堤を築いた。嘉靖・隆慶年間には盛応期の新渠が挫折した一方、朱衡・万恭が南北の長堤を成し、潘季馴が四度にわたって「堤で水を束ね水で砂を攻める」策を実行して故道を守った。万暦年間には楊一魁の分黄導淮、李化龍の泇河開通が続いたが、崇禎十五年、李自成に囲まれた開封で河が決壊し城は水没した。

年表(15件)

正統十三年 秋七月(1448年)— 滎陽の決壊

  • 河が滎陽で決壊し、曹州・濮州を経て張秋を衝き、沙湾の東堤を潰し、済水・汶水を奪って海に入った。まもなく東へ開封城の西南を過ぎ、陳留を経て亳から渦口に入り、また蒙城を経て淮遠の界に至って淮に入った。
  • 工部尚書の石璞に治めさせたが成らず、まもなく侍郎の王永和を璞に代えた。
  • 旧黄河は開封城の北四十里にあった。洪武二十四年、河が原武で決壊して東へ開封城の北五里を経て、また南行して項城に至り、潁州・潁上県を経て東へ寿州の正陽鎮に至り、すべて淮に入った。元の会通河はそこで淤塞した。
  • 永楽九年、尚書の宋礼が会通河を浚い、新河を開いて汶上県の袁家口から左へ二十里徙して寿張の沙湾で旧河に接続し、九か月で功を成した。侍郎の金純が汴城の金龍口から塌塢口に下し、二洪を経て南の淮に入れ、漕事が定まったので海運を罷めた。
  • ここに至ってまた滎陽で決壊して開封城の西南を過ぎ、城北の新河も淤塞した。これより汴城は河の北となった。
  • 隋唐以前は河と淮が分かれてそれぞれ海に入った。宋の中葉以後、河は淮に合して海へ向かった。しかし前代の河の決壊は民の田や家屋を壊すだけだったが、明では漕運を妨げた。ゆえに古よりいっそう急を要した。

正統十四年 春三月(1449年)

  • 工部右侍郎の王永和が治河の事宜を奏した。先に沙湾の役で永和は冬の寒さを理由に急に工事を止め、また決壊が河南で起こったとして彼らに共同で当たらせるよう敕を求めた。上は厳しく責めた。
  • ここに至って言った。「黒陽山の西湾は既に水が通じ、泰通寺から運河へ行けます。東昌には分水閘を置き、三つの空きを設けて水を大清河に泄らして海に帰します。八柳樹の工事はまだ使えません。沙湾の堤は時に応じて分水の二空を開いて上流を流し、後患をなくすべきです」。従われた。

景泰三年〜七年(1452年〜1456年)— 徐有貞の治水

  • 景泰三年春二月、河が沙堤湾で決壊し、左都御史の王文に河道を巡視させた。
  • 四年冬十月、左諭徳の徐有貞を右僉都御史として張秋の決河を治めさせた。
  • 先に河は滎陽で溢れ、開封城の北から曹州・濮州を経て運河に入り、兖州の沙湾に至って東堤の大洪口で決壊し、済水・汶水の諸水がみなそこから海に入った。会通河は淤塞し、漕運は阻まれた。工部尚書の石璞、侍郎の王永和、都御史の王文が相次いで治めること七年、みな功を成さなかった。
  • そこで廷臣を文淵閣に集めて議し、治水しうる者を挙げさせ、有貞が推された。上は有貞を都察院右僉都御史に進めて治めさせた。
  • 河は決壊のため涸れていたが、有貞が着任した冬、水がにわかに増して公私の船がすべて着いた。治河の卒は数万人を超えた。すべてに期日を与えて遣わし、自らは軽舟に乗って河源を究め、済水・汶水を越えて衛沚に至り、大河に沿って濮州・范県の道を通って還り、上疏した。
  • 「臣が聞くに、水土を平らげる要は天の時、地の利、人の事を知ることにあります。河は雍州から豫州に出、険を出て平らになると水勢は既にほしいままとなり、さらに豫州から兖州に入ると土はいっそう疎く、水はいっそうほしいままとなります。沙湾の東のいわゆる大洪口はちょうどその衝に当たります。かくて決壊して済水・汶水が海に入る路を奪って去り、諸水がそれに従って泄れ、堤は潰れ渠は淤み、澇には溢れ旱には涸れます。これが漕途の阻まれるゆえんです。 しかし急に塞ごうとすれば、潰れる所はいよいよ潰れ、淤む所はいよいよ淤みます。今、まず上流を疏し、水勢が平らになってから決壊を治め、決壊が止んでから淤みを浚い、多方に手を尽くして時に応じて調節し、溢れも涸れもせぬようにすることを請います。必ずこうしてから成るのです」。上は従った。
  • 七年夏四月、僉都御史の徐有貞が治河の功を成した。
  • 有貞の疏が許されると、工を集め、先に遣わした卒も期日どおり至った。そこで渠を作って疏し、途中に閘を置いて調節した。
  • 渠は金堤・張秋の首に起こり、西南へ九里で濮陽濼、また九里で博陵坡、また六里で寿張の沙河、また八里で東西の影塘、また十五里で白嶺湾、また三里で李瑚。李瑚から上へ二十里で蓮花池、また三十里で大瀦潭。范県・濮州を越え、さらに上って西へ、およそ数百里、澶淵を経て河・沁に接した。
  • 有貞は「河・沁の水は過ぎれば害、微なら利」と言い、その過ぎるものを節し、微なるものを導いて水勢を平らげた。成って渠を「広済」、閘を「通源」と名づけた。渠には分合があり、閘には上下の平があった。
  • およそ河流が傍らに出て順わぬものは堰を築いた。堰は九つ、各々長さ一万丈。九つの堰が設けられると水は東へ沙湾を衝かず、改めて北へ出て漕渠を助け、阿県の西、鄄城の東、曹州の南、鄆城の北の湿地から出て灌漑に資する田は百数十万頃に及んだ。
  • およそ堰は水門で楗し、虹形の堤で繞らせた。堰の高さは三十余尺、厚さはその十倍、長さはその百倍。門の広さは三十六丈、厚さはその倍。堤の厚さは門と同じ、高さは堰と同じ、長さはその倍。濤に架けて流れを截り、木で柵を作り竹を絡ませ、石を詰めて鉄で鍵をかけた。五行を合わせ用いて水性を平らげたのである。
  • 汶水・泗水の源を導いて諸山から出させ、澶州・濮州の流れを滙めて諸沢に納れ、さらに漕渠を浚った。沙湾から北は臨清まで二百四十里、南は済寧まで三百十里。改めて東昌の龍湾・魏湾に閘八つを建て、積水が一丈を超えれば開いて泄らし、みな古の河道を通して海に入れて水道を平らげた。
  • はじめ議する者は渠を棄てて治めず、河・沁から海を経て漕運しようとし、また京軍を出して河を疏そうとした。有貞はそこで、河沿いの民の馬の牧養と雑役を免じて治河に専念させ、軍費を省き民力を寛くすることを奏した。工部は有貞の言のとおりとし、制で縛らなかったので功を成しえた。三年で完成した。
  • この役では、集めて時折役した者が四万五千人、分けて常に役した者が一万三千人。用いた木は大小十万、竹はその倍、鉄は十二万斤、錠三千、綱八百、釜二千八百、麻百万斤、荊はその倍、藁と秸はさらにその倍。石と土は数えきれない。しかし官の糧を用いたのはわずか五万石。功が成って副都御史に進んだ。
  • はじめ有貞が工を集めたとき、阻もうとする者があった。上が中使を遣わして問わせると、有貞は二つの壺を示した。一つは孔が一つ、一つは孔が五つ。水を注ぐと五つの孔の壺が先に涸れた。中使が還って報告し、上は有貞のなすところに任せた。
  • 有貞はかつて一つの決口を築こうとして木や石を入れても何もないかのようだった。心に怪しみ、僧が山中に住んで道があると聞いて訪ね問うた。僧は何も答えず、ゆっくりと「聖人に欲なし」と言った。有貞は終日、沈思して悟った。「僧の言は龍に欲ありということだ。その下に龍の穴があるのだ。私は龍が珠を惜しむと聞いている。制する手立てがある」。そこで鉄数万金を鎔かし、沸かして流し込んだ。龍は一夜で移り、決口は塞がった。

弘治二年〜三年(1489年〜1490年)— 白昂の治水

  • 弘治二年夏五月、河が開封で決壊して淮に入り、また黄陵岡で決壊して海に入った。
  • 三年夏四月、河が原武で決壊し、戸部左侍郎の白昂に治めさせた。
  • 河の決壊は支流を三つに分けた。一つは封丘の金龍口で決壊して祥符・長垣に漫り、下は曹州・濮州から張秋の長堤を衝いた。一つは中牟に出て尉氏に下った。一つは蘭陽・儀封・考城・帰徳に汜溢して宿州に至った。四方に瀰漫して故道によらず、稲は水没し、溺死する民が多かった。
  • 議する者は河南の藩省を移して害を避けることを奏したが、左布政使の徐恪が力説して不可とし、思いとどまった。
  • 昂を遣わして治めさせた。昂は南京兵部郎中の婁性を挙げて協力させ、陽武の長堤を築いて張秋を防ぎ、中牟の決壊を引いて淮に入れ、宿州の古睢河を浚って泗に達しさせた。小河の西から帰徳の飲馬池に至り、符離橋を径して南へ、みな浚って深く広くした。また月河十余を疏してその勢いを殺いだ。
  • 決口三十六を塞ぎ、河から汴に入り、汴から睢に入り、睢から泗に入り、泗から淮に入って海に達した。水患はやや息んだ。
  • 昂はまた、河が南から淮に入るのは正道でなく容れきれぬことを恐れ、改めて魚台から徳州を経て呉橋まで古河の堤を修め、また東平の北から興済まで小河十二道を鑿って水を大清河および古黄河に引き入れて海に入れ、河口ごとに石の堰を作って水の増減を見て時に応じて開閉した。東北は分治、東南は疏を主としたのである。

弘治五年〜七年(1492年〜1494年)— 劉大夏の治水

  • 五年秋七月、張秋で河が決壊し、工部侍郎の陳政に督治させた。当時、河は沛県・梁の東に溢れ、蘭陽・鄆城の諸県はみなその患いを被った。さらに楊家・金龍などの口で決壊して東へ注ぎ、黄陵岡を潰して張秋の堤に下り、漕河に入って汶水と合して北行した。そこで政を遣わしたが、まもなく卒した。
  • 六年春正月、浙江左布政司の劉大夏を右僉都御史として張秋の決河を督治させた。
  • 七年春二月、河がまた張秋で決壊し、平江伯の陳鋭、太監の李興に都御史の劉大夏と協同して督治させた。
  • 先に大夏は命を受けて河の上下千余里を巡り、形勢を測り、山東・河南の二省の守臣を集めて議し、上言した。「河流は湍悍です。張秋は下流の襟喉で、直ちには治められません。上流で治めて道を分けて南行させ、改めて長堤を築いて横波を防ぎ、あわせて大名・山東の患いを防ぎ、軌道に循うのを待ってから決河を塞げます」。疏が上って許された。
  • 工事が始まったところで張秋の東堤がまた九十余丈決壊し、運河を奪って水はすべて東流し、東阿の旧塩河から海に入った。決口は九十余丈に広がり、訛言が沸騰し、「河は治められぬ。元の海運を復すべきだ」と言い、あるいは「陸運は労だが虞いがない」と言った。そこで改めて鋭らに協治を命じた。
  • 河南巡撫都御史の徐恪が上言した。
  • 「臣が地志を按ずるに、黄河はもと汴城の北四十里にあり、東へ虞城を経て下は済寧に達しました。洪武二十四年に武原県の黒洋山で決壊し、東へ汴城の北五里を経て、また南へ項城に至って淮に入り、故道は淤塞しました。正統十三年に張秋の沙湾で決壊して東流して海に入り、また滎沢県の東で決壊して汴城を経て睢陽を歴、亳から淮に入りました。景泰七年に初めて沙湾の決壊を塞ぎ、張秋の運道は再び完全になりました。 その後、河の勢いは南へ趨いて汴城の新河がまた淤み、弘治二年以来、次第に北へ徙って金龍口の諸処で決壊し、まっすぐ張秋へ趨いて会通河を横から衝いて長く奔って海に入り、汴南の新河もまた淤みました。百余年の間に遷徙すること四たび、千里の内に散り逸れて瀰漫しています。 近ごろ聖慮を煩わせ、特に都御史の劉大夏に経理を命ぜられましたが、伏流が横溢して功力はまだ竟わりません。議する者は黄陵岡の塞口が合わず、張秋の護堤がまた壊れたので『河は治められぬ』と言い、海運の説を唱える者まであります。噎ぶことで食を廃するようなものではありませんか。 黄陵岡の口が塞げないのは、ついに塞げないのではありません。ただ堤防を修築する功が多く、疏浚して分け殺ぐ功が少ないため、湍悍の勢いを急には回せぬのです。 今、滎沢県の孫家渡口の旧河は東へ朱仙鎮を経て下って項城県の南頓に至り、なお細々とした流れがあります。その淤浅は二百余年ほど。疏し浚って泗から淮に入らせれば上流の勢いを殺げます。 また黄陵岡の賈魯の旧河は南へ曹県の梁進口を経て下って帰徳の丁家道口に通じ、しかも水勢を分けられます。今、梁進口以南は滔々として阻みなく、以北は淤塞してほぼ平らです。功力を施すべきはわずか八十余里。疏し浚って徐州から淮に入らせれば下流の勢いを殺げます。 水勢が殺がれれば決口は塞げ、運道は完全になります。近い功を求めず、小さい費用を惜しまず、小さい失敗で阻まれず、幸いに功が成れば万世の利です」。
  • 命が下って部に議して行わせた。
  • 山東按察司副使の楊茂仁が上言した。「官が多ければ民は擾されます。治河を既に劉大夏に委ねながら、さらに李興・陳鋭に命ぜられ、事の権が分かれて財力は乏しくなります。しかも水は陰。その応ずるところは宮闈と四夷です。后戚を戒め飭え、辺患を防ぐべきです」。
  • 疏が上ると興らは切歯し、茂仁を妖言と誣って逮捕して獄に繋いだ。科道が交々章を上って救い、そこで同知に謫された。茂仁は楊守陳の子である。
  • 夏四月、張秋の堤を塞ぎ、名を安平鎮と改めた。
  • 先に劉大夏は民丁数万を発して上流の西岸に月河三里ほどを鑿り、旧河に接続させ、漕運を通じさせて河と道を争わせぬようにした。そこで孫家渡口を浚い、別に新河一道を開いて水を南行させ、中牟から潁州を経て東の淮に入れた。
  • また祥符の四府営県の淤河を浚い、陳留から帰徳へ通し、二道に分けて、一つは宿遷の小河口から、一つは亳州の渦河から淮で会させた。
  • また黄陵岡の南で賈魯の旧河四十里を浚い、曹県から徐州へ出させた。支流が分かれると水勢は次第に殺がれた。
  • そこで西の長堤を築いた。河南の胙城から滑県・長垣・東明・曹県・単県の諸県を経て徐州まで、長さ三百六十里。五十日で竣工し、費は軽く功は重く、徐有貞を超えたという。璽書で褒め賞し、戸部右侍郎として入れた。
  • はじめ河は清河の隙から淮に入っていたが、大夏が治めて宿遷の小河から淮に入れると北へ三百里、さらに北へ三百里、徐州の小浮橋から淮に入れた。
  • 九月、山東参政の張縉の秩を通政使に加え、劉大夏に代えて河道を理めさせた。もともと大夏が決河を治めたとき縉に調度を委ね、功が成って通政司右通政に昇っていた。
  • 当時、決壊の後で溝や堤防が治まっていなかった。縉は緩急を見て次第に修浚し、遺すところがなかった。また決口の東に石の岸を数里砌いて旧来の防ぎを固くし、また新たに南旺の東堤を築いて柳を植えた。毎年、夏秋に水が溢れても曳船の卒は分かれて進めて阻まれず、今に至るまで便利としている。

正徳年間(1506年〜1521年)

  • 正徳四年、河が曹県・単県で決壊して沛県へ趨き、飛雲橋に出た。工部侍郎の崔巌を遣わして治めさせた。巌は丁夫四万余人を発して塞ぎ、成りかけたところで増水で潰えた。右侍郎の李鏜に代えたが四か月経っても成らず、盗が起こって罷めた。
  • 七年秋九月、右都御史の劉愷に河道を総理させた。愷は大堤を築いた。魏家湾から八十余里に亘って双堌集に至り、都御史の趙璜がさらに三十里の堤を築いて続けた。曹県・単県はこれで安んじた。

嘉靖七年(1528年)— 新漕渠の失敗

  • 春正月、新しい漕渠を鑿ろうとして成らなかった。
  • 先に河が曹県・単県・城武の陽家口・梁靖口・呉士挙荘で決壊し、鶏鳴台を衝いて沛県の北はみな巨大な水浸しとなり、東へ溢れて漕を越えて昭陽湖に入り、砂泥が積もり塞いで運道は大いに阻まれた。
  • 刑部尚書の胡世寧が上言した。
  • 「運道の塞がりは河の流れがもたらしたものです。まず治河の説を述べます。河は汴を経て以来、南は二道に分かれます。一つは滎沢から出て中牟・陳州・潁州を経て寿州で淮に入り、一つは祥符から出て陳留・睢州・亳州を経て懐遠で淮に入ります。その東南の一道は帰徳・宿州・虹県から宿遷に出ます。 北は新旧五道に分かれます。一つは長垣・曹州・鄆城から陽穀に出、一つは曹州の双河口から魚台の塌場に出、一つは儀封から徐州の小浮橋に出、一つは沛県の飛雲橋に出、一つは徐州・沛県の間、境山の北の溜溝に出ます。この六つはみな漕渠に入って南は淮に滙まります。 ところが今は湮塞し、ただ沛県の一河だけが残っています。勢いが合して岸が狭ければ溢れずにおれません。ゆえに豊県・沛県・徐州が漫って巨大な水浸しとなり、沛県の北の昭陽湖に溢れ入って運道が壅ぎ淤むのです。 しかし壅ぎ淤むことが久しければ、勢いとして必ず改めて決壊します。決壊して東南なら山が隔てて禍は小さいが、決壊して東北なら、前の宋の澶州の決壊のように郡県数十がみな灌かり、禍は言うべからざるものとなります。 ゆえに今、河を治めるには故道に因ってその勢いを分けるべきです。その陽穀・魚台の二道は勢いが東北に近いので再び開けません。汴の西、滎沢の孫家渡から寿州までの一道は、決壊のたび常に浚って上流の勢いを分けるべきです。汴の東南、もと懐遠・宿遷・小浮橋・溜溝に出た四道は、便利なものを択んで一道を開浚して下流の勢いを分けるべきです。 あるいは豊県・沛県の漫流が久しくして北へ徙ることを恐れ、城武以南の廃堤から沛県の北の廟道口まで修めて新しい決壊を塞ぎ、北流を防ぐのも一計です。 運道については、臣は李承勛と同行して擬議しました。昭陽湖の左、滕県・沛県・魚台の中間、独山・新安社の諸処に別に一河を開き、南は留城に接し北は沙口に接し、幅五、六丈として二艘の舟が行き交えるようにするに越したことはありません。来冬、氷が張って船が止まったら、さらに浚って広げて運道とする。これが上策です」。
  • ここに至って河道都御史の盛応期が上言し、昭陽湖の左に別に新渠を開き、北は姜家口に起こり南は留城に至る百四十余里で漕舟を通すべきだと言った。その説は世寧と合致した。工部尚書の童瑞が覆議して従った。
  • そこで民夫一万人を集め、区画を分けて開鑿した。ところがその地は河の上流にあって土がみな砂と淤泥で、功は成らなかった。応期は昼夜、水際に止宿し、卒数万を増して治めたが、百姓の怨みは増した。
  • 言う者が「財用を糜らし民力を労するばかりで、功は必ず成りません」と言い、上は怒って応期の官を奪って田里に帰らせ、新渠の議は寝んだ。侍郎の潘希曽を代わりに遣わし、一年余りして豊県・沛県・単県の三県の堤が完成した。

嘉靖十三年〜四十四年(1534年〜1565年)

  • 十三年、はじめ飛雲橋の水が北へ徙って魚台・穀亭となり、舟は閘の面を行き、豊県・沛県以北はやや水患から遠ざかった。久しくして再び趙皮寨で決壊し、穀亭の流れは絶え、廟道口はまた淤んだ。
  • 議する者は沁水を引いて衛河を鑿り、敖倉を衛輝に置き、渦から汴を経て陽武に達し、陸運の始まりを衛河から北へ運ぼうとしたが、人ごとに説は異なった。
  • 当時、治河に当たったのは工部侍郎の劉天和で、専ら故道の修復に努めた。まもなく河が突然、夏邑・太丘などの集から数か所の隙を衝き、転じて東北に流れて蕭県を経て小浮橋に出、下って二洪を済い、趙皮寨はまもなく塞がった。河の勢いが南へ徙ったのである。
  • 十九年、河が睢州の野鶏岡で決壊し、渦を経て淮に入り、二洪は大いに涸れた。上は兵部左侍郎の王以旂に督理させた。以旂は丁夫七万を役して李景高の支河一道を開き、水を徐州へ出して洪を済い、八か月で成った。糧運は阻まれず、上は悦んで以旂の秩を加えた。まもなくまた淤んだ。
  • この時、河はいよいよ南へ徙り、かなり漕には便利だったが、五河・蒙城・臨淮の諸州邑と鳳陽・泗州の北に祖陵があり、議する者は憂えた。
  • 三十一年秋八月、河が房村から曲頭集まで四か所で決壊し、四十余里が淤んだ。都御史の曽鈞が丁夫五万六千余を役して浚い、三か月で成った。
  • 三十七年、河が北へ徙って新集が淤んで陸地となること二百五十余里。故道より三丈余り高くなり、河は分かれて流れが弱まり、十一に離れ、河南・山東・徐州・邳州がみな苦しんだ。
  • 四十四年秋七月、河がことごとく北へ徙り、沛県の飛雲橋で決壊し、横に截って逆流して東行し、漕を越えて昭陽湖に入り、泛濫して東の平地は水丈余、徐州・沛県の砂河から二洪まで散り漫って浩渺として際なく、河の変は極まった。
  • はじめ漕渠は左に昭陽湖を見、その地は湿地で河から数十里も離れておらず、識者は危ぶんでいた。嘉靖の初め、盛応期が漕を督して湖の左に渠を鑿って河患を避けることを議し、朝廷は従ったが、工を集めて半ばで異議に阻まれた。
  • ここに至って漕が湮み、吏部侍郎の朱衡が出て開鑿を督した。衡は僉都御史の潘季馴とともに応期の開いた故道を尋ね、運道の利はこれに過ぎるものなしとして疏請して鑿った。新河を南陽から留城まで百四十一里開き、旧河を留城から境山まで五十三里浚った。丁夫九万余人を役して八か月で成り、水は初めて南の秦溝へ趨いた。

隆慶年間(1567年〜1572年)— 朱衡・潘季馴らの治水

  • 元年春正月、秦溝を広く開いて運道を通じさせた。
  • 先に河が沛県で決壊し、議する者は故道の回復を請い、新集・郭貫楼の諸処の上源を議した。尚書の朱衡が言った。
  • 「古の治河はただ害を避けようとしただけですが、今の治河は兼ねて利を資ろうとします。河流が境山の北に出れば閘河が淤み、徐州の南に出れば二洪が涸れます。ただ境山から徐州の小浮橋まで四十余里の間に出れば、両利あって害がありません。 黄河が横に流れて以来、碣山・郭貫楼の支河はみな淤塞し、改めて華山から南北二支に分かれました。南は秦溝に出、ちょうど境山の南五里ほどです。これはまことに運河の利です。ただ北は沛県の西および飛雲橋に出て逆上して魚台に至り、患いが甚だ大きい。 陛下は沛県・魚台の民が水害に横しまに罹るに忍びず、故道を開こうとされます。臣が地形を考え輿論を参ずるに、不可なるもの五つがあります。 一、新集から両河口まで背後は平原の高台で、拠るべき故道が尺寸もありません。郭貫楼から龍溝一帯はかなり河の形がありますが、新しい淤みで足を駐める所がありません。 二、河流が新集を通れば商丘・虞城・夏邑が受け、郭貫楼を通れば蕭県・碭山が受けます。今、故道に復せば魚台・沛県の禍が改めて蕭県・碭山に移ります。 三、黄河は西へ華山に注ぎ、勢いは瓴を建てるがごとし。その中から渠を鑿って水を南に挽こうとすれば必ず壩を築かねばならず、甚だ困難です。 四、日を曠しくして久しく持ち、役夫三十万で三省を騒動させます。 五、工費数百万で、司農(戸部)は乏しきを告げています。 臣は思うに、上源の議は罷めてよろしい。ただ秦溝を広く開いて下流を通行させ、長堤を修築して奔り潰えるのを防ぐべきです」。上は従った。
  • そこで旧渠を鑿って深く広くし、鮎魚の諸泉、薛河・沙河の諸河を引いてその中を三河口に注がせ、旧河を疏し、馬家橋の堤を築いて飛雲橋に出るものを導き、ことごとく秦溝に入れた。留城から赤龍潭まで五十三里。閘八つ、減水閘二十、壩十二、堤三万五千二百八十丈、石堤三十里。
  • まもなく王家口を鑿って薛河を赤山湖に導き、黄浦を鑿って沙河を独山湖に導いた。支河は八つ、旱にはこれを資として漕を済い、澇にはこれを昭陽湖に泄らした。運道はすべて通じ、これを夏鎮河という。工が成って衡に太子少保を加えた。かくて河は専ら秦溝から洪に入り、河南北の諸支河はすべて秦溝に合流した。
  • 三年秋七月、河水が溢れ、清河から淮安城の西まで三十余里が淤み、方信の二壩で決壊して海に出、平地は水深一丈余。宝応湖の堤は崩れ壊れ、山東の莒州・郯城の諸処で水が溢れ、沂河・直河から邳州に入り、人民は溺れた。
  • 四年秋九月、河が邳州で決壊し、睢寧の白浪浅から宿遷の小河口まで百八十里が淤み、漕卒千人が溺死し、米二十余万石を失った。総督河道侍郎の翁大立が言った。「近ごろ黄河の患いは河南・山東・豊県・沛県になく、専ら徐州・邳州にあります。ゆえにまず泇河を開いて河の勢いを遠ざけ、蕭県の河を開いて河流を殺ごうとしたのは、まさに浮砂が積もって河面が高くなることを他日の慮りとしたからです。今秋、水がしきりに至って横に溢れて災となりました。臣が思うに、権宜の計は故道を棄てて新しい流れに就くことにあり、久しきを経る策は泇河を開いて洪水を避けることにあります」。疏が部に下された。
  • 五年、河が双溝で決壊した。先に河が増水し、徐州の上下、茶城から呂梁まで両岸の東山が下れず、また決壊もできなかった。ここに至って双溝から下、北は油房・曹家・青羊の諸口で、南は関家・曲頭集・馬家浅・閻家・張擺渡・王家・房家・白糧浅の諸口で決壊し、合わせて十一。支流が既に散って幹流はついに微弱となり、匙頭湾から八十里が淤んで、河の変はまた極まった。
  • 趙孔昭・翁大立が前後に治めたが功なく、議する者は幹河を棄てて曲頭集の大枝の間で舟を行かせようとした。冬の初め、水が落ちると幹はもう平砂となり、枝はまた浅く阻まれた。また黄河の運を棄てて膠河・泇河・海運を、と議が紛沓して一つに帰しがたかった。
  • そこで在野から都御史の潘季馴を起こして治めさせた。季馴の治水はひたすら故道の回復を求めるだけだった。そこで上言した。
  • 「老河の故道は新集から趙家圏を経て小浮橋に出、安らかに流れて患いがありませんでした。のち河南の水患のため別に一道を開いて小河口に出し、本河は次第に砂で浅くなりました。嘉靖年間に河が北へ徙り、故道はついに陸地となりました。 臣は命を奉じて夏鎮から豊県・沛県を経て崔家口に至り、崔家口から河南の帰徳・虞城・夏邑・商丘の諸県を経て新集に至りました。すると黄河の大勢は既にまっすぐ潘家口へ趨いておりました。父老が『ここから十余里、丁家道口以下二百二十里の旧河の形跡が今も見え、開けます』と言いました。 臣がすぐ潘家口から丁家道口・馬牧集・韓家道口・司家道口・牛黄堌・趙家圏を経て蕭県に至る一帯を歴ると、みな河の形があり、その間、淤み平らになったのは四分の一。河底はみな砂で、水を見ればすぐ洗い流せます。臣は修めて復すに越したことはないと思います。 河を復せば利は五つ。潘家口から小浮橋に出れば新集以東の河道はみな平地となり、曹県・単県・豊県・沛県は永く水没を免れる。これが一の利。河身が深く広く、毎年、泛溢の患いを免れ、虞城・夏邑・豊県・沛県が安居できる。これが二の利。河が南を行けば会通河から甚だ遠く、閘や渠に虞いがない。これが三の利。来る流れが既に深ければ瓴を建てる勢いで導き洗うのが自ずと易く、徐州以下の河身もそれによって深く洗われる。これが四の利。小浮橋の来流が既に遠ければ秦溝は再び衝かれるのを免れ、茶城は永く淤塞の患いがない。これが五の利」。
  • 許され、丁夫五万を役して匙頭湾を開き、十一の口を塞ぎ、大いに八十里を疏して故道が次第に復した。まもなく漕舟が壊れたことで季馴は閑住となった。

隆慶六年(1572年)— 朱衡・万恭の堤防

  • 春、河が邳州で決壊して運道が阻まれ、総河侍郎の翁大立が改めて泇河を開いてその勢いを遠ざけることを議した。潘季馴は「泇河と黄河は首尾を成しています。今、河は南は淮揚で決壊し、北は豊県・沛県で決壊し、漕渠は繋がっておりません。泇は中間にあります。何に用いましょうか」と言った。
  • まもなく漕舟が壊れたことで季馴は弾劾されて帰った。給事中の雒遵が「治河に効があったのは工部尚書の朱衡に及ぶ者がない」と言い、詔して衡と総河都御史の万恭に再視させた。すると泇口は嶺に限られ石に阻まれており、ついに罷めると報じ、専ら徐州・邳州の河に当たった。
  • 衡が上言した。「茶城以北は黄河が決壊して入るのを防ぎ、茶城以南は黄河が決壊して出るのを防ぎます。ゆえに茶城から邳州・宿遷まで両堤を高く築き、宿遷から清河まで決口をすべて塞ぐ。黄河が出るのを防がねば正河が必ず淤みます。昨年の徐州・邳州の患いがこれです。 茶城の秦溝口から豊県・沛県・曹県・単県まで、縷水の旧堤に接続させる。黄河が入るのを防がねば正河が必ず淤みます。往年の曹県・沛県の患いがこれです。二処が竣工すれば、沛県の窰子頭から秦溝口まで堤を築いて防ぐべきです」。
  • 万恭にその事を総理させ、丁夫五万余を役して工を分け地を画して築かせた。夏四月、両堤が成った。北堤は磨臍溝から邳州の直河まで、南堤は離林舗から宿遷の小河口まで、各々延長三百七十里。
  • 運送の船は河流に束ねられ、睢寧・邳州の間は耕作できるようになり、舗を建て舎を立てて軍民に守らせ、河南・山東の黄河の例のようにした。河はそこで安んじ、運道も安んじた。嘉靖・隆慶の間で治河にあたった者は、衡・恭・季馴を能ありとする。

万暦五年〜十九年(1577年〜1591年)— 潘季馴の再治

  • 五年秋八月、河が崔鎮で決壊し、淮が高家堰で決壊し、横流が四方に溢れて連年、治まらなかった。詔して改めて潘季馴を右都御史として河漕を総理させた。
  • 当時、海口を疏すべきだと議する者があった。季馴は「海口は人力で疏し治めることができず、水勢で衝いて決するほかありません。高家堰を築いて崔鎮を塞ぎ、東の河と淮の正流をともに海に入らせるに越した計はありません」と言い、上はその奏を許した。季馴は三年かけて高家堰を成した。ある夕、黄浦が涸れて龍の首を得て献じた。その大きさは車一台を占め、当時、龍首渠に比されたという。
  • 十五年冬十月、工科給事中の韋居敬に黄河を測って修治の策を議させた。当時、黄河は漫流して開封・封丘・偃師および東明・長垣で衝決が多かった。大学士の申時行が「今、治めなければ河は北へ徙り、上流が徐州・淮安へ下らなくなり、運道が憂えられます」と言い、ゆえにこの命があった。
  • まもなく督河の楊一魁が、決壊に因って運を済い、沁水を導いて衛河に入れることを議した。居敬は「衛輝の城は河より低く、一たび決壊すれば衝き潰える患いを恐れます。沁水は砂が多く淤みやすく、漕に入れるのは便宜ではありません。決口を堅く築いて河身を開き、いっそう衛河を浚えば民は田を灌漑でき、まさに完全な計です」と言い、上は従った。
  • 十六年春三月、礼科給事中の王士性が上言した。「黄河は徐州から下、河身が高く堤に束ねられ、堤を行けば徐州城と平らです。全力を淮に委ねますが、淮は黄水に堪えられず、運河に乗ずること瓴を建てるがごとし。淮安・高郵・宝応・興化・塩城の諸生民は一丸の泥に託されており、決壊すればみな魚鱉と化します。議する者は蟻の穴、漏る器を補うようで、安寧の年がありません。総じて故道を復すのが一労永逸の計に及びません。 河の故道は桃源の三義鎮から葉家衝に達して淮と合し、清河県の北にありました。別に運を済う一河が県の南にあり、これは支河にすぎません。河が強くて支河を奪ってまっすぐ県の南に趨き、自ら北流の道を棄てて久しいのです。かつ河の形はもとより残っております。桃源から瓦子灘まで九十里、地は低く耕さず、廬や墓の妨げもありません。開河の費用は諸説よりやや倍ですが、河道が一たび復せば利は無窮です」。
  • 章が所司に下されたが、韋居敬が「故道は復しがたい」と言って行われず、改めて訾家営の支河を開くことを議し、まもなく諸決口はみな塞がり、淤んだ所は再び疏された。
  • 夏六月、総理河道の潘季馴が上言した。「河水は濁って強く、汶水・泗水は清くて弱い。交わる所が茶城です。秋ごとに黄水が発して淮に入ると淤んで留まる、これが勢いです。黄水が減れば漕水がそれに従い、砂は水に随って流れ、河道は自ずと通じます。たとえ浅く阻まれても旬日を出ません。 往時、洪の内に石を立て華の二閘を作り、水が発すればすぐ閉じてその横溢を遏め、黄水が落ちれば開いて泉水を出しました。ただ閘を建てるのは易く、閘を守るのは難しい。貢使の急行、勢要の開放要求は急で待てず、運道が阻まれます。開閉の法を禁ずることを乞います」。許された。
  • 十七年、河が双溝の単家口で決壊し、そこで専ら趙皮寨から李景高口までの遥堤、将軍廟から塔山までの長堤、羊山から土山までの横堤を築くことを議し、河防は幸いに無事だった。
  • 十九年秋九月、泗州が大水となり、淮水が氾濫して城より高くなり、溺死者は数知れず、浸水は祖陵に及んだ。総督河道の潘季馴が上言した。
  • 「水性は拂らえず、河防は弛められず、地形は強いられず、治理は鑿つべからず。人は旧を棄てて新を為そうとしますが、臣は故道を必ず失うべきでないと思います。人は支を分けて勢いを殺ごうとしますが、臣は濁流を必ず分けるべきでないと思います。霖雨の増水は久しくすれば自ずと消えます」。
  • 当時、季馴は四たび治河して河はみな治まった。季馴の議はこうである。河の性が湍悍でよく徙るのは、水が漫って砂が塞がるためである。法としては、堤で水を束ね、水で砂を攻めるに越したものはない。河の故道に循って束ねて速めれば、水は疾く砂は洗われて留まるものがない。さらに近くに縷堤を作り、縷堤の外にさらに遥堤を作る。ゆえに水はいよいよ浅くなり、遠くまで傍らに決壊しない。

万暦二十三年〜二十六年(1595年〜1598年)— 分黄導淮

  • 二十三年夏四月、工科給事中の張企程に淮泗の工事を勘査させた。
  • 先に邳州・高郵・宝応で大雨が降り、湖が決壊して堤を壊し、泗州の水が祖陵を浸した。巡按御史の牛応元が言った。「治河は清口の浮砂を闢くこと、次に草湾の下流を疏して伍港・灌口に達しさせてその海に入る道を広げること、次に周家橋を開いて芒稲河に達しさせて江に入れることにあります。しかし鮑・王の諸口が決壊して巨大な水浸しとなり、施工が難しい。あるいはその水を分け、黄堌・戎口の壩を築き、符離集の睢水の浅い所を疏し、宿遷の小河が黄に入る口を浚うべきです」。ゆえにこの命があった。
  • まもなく企程が覆奏した。「隆慶の末、高郵・宝応・淮安・揚州が急を告げ、当事者は目前に慣れて、清口が既に淤んだ上に高い堰堤を築いて張福を束ね、全淮を障って黄と角力させました。七十二渓の水を挙げて泗に滙まったものを、わずか数丈の口から出す。出すのが十のうち一、溜まるのが十のうち九。河身が日々高くなって、どうして倒れ溢れて泗を灌かぬはずがありましょうか。 今、高家堰は費用が巨大で廃止を議しがたく、しかも高郵・宝応・淮安・揚州にも欠かせません。周家橋は北へ高堰から五十里、その支河は革子湖に接します。三十余里を浚い、一つは金家河から芒稲河に入れて江に注ぎ、一つは子嬰溝から広洋湖に入れて海に注げば、淮水は泄れます。 武家墩は南へ高堰から十五里、永済河に迫っています。水を引いて窰湾閘から出口させ、まっすぐ涇河に達し、昭陽湖から海に入れれば、淮の下流に帰する所ができます。これが急ぎ祖陵を救う議です」。
  • 九月、総督漕運の褚鉄が導淮を議し、総理河道の楊一魁がまず分黄、次に導淮を議し、御史の牛応元が合わせて行うことを議した。さらに祖陵のために、黄堌口の決壊を制し、小林口の淤みを浚い、帰仁堤を培うべきだとした。上は従った。
  • 帑金五十万を括り、夫二十万を役して黄を分け淮を導いた。黄江嘴から河を導いて分けて五港・灌口へ趨かせ、まっすぐ海に入れて黄の勢いを殺ぎ、すべてを淮に入らせぬようにした。淮を導くには清口から積砂数十里を闢き、また高堰の傍らの周家橋・武家墩あたりから淮の支流をやや引いて湖に入れ、あらかじめ江に入り海に入る路を浚って泄らした。祖陵の水は次第に退き、水患は息んだ。
  • 二十四年九月戊戌、河工が成り、総理河道の楊一魁、総督漕運の褚鉄らに差をつけて賞賚した。

万暦二十五年〜二十六年(1597年〜1598年)— 黄堌口の決壊

  • 二十五年春正月壬寅、河が黄堌口で決壊した。総督漕運尚書の褚鉄が「黄堌口は塞ぐべきです。そうでなければ全河が南へ徙り、害はたちどころに現れます」と言った。
  • 三月、小浮橋・沂河口・小河口の浚渫が成った。河が南へ徙って以来、徐州・邳州に再び清らかな泗水が見えた。議する者は「全河の水が微弱で運を妨げます。決口を塞がねば下って帰仁を噛んで二陵の患いとなります」と言った。
  • ただ総河尚書の楊一魁だけが「黄堌口は深い淵で塞ぎがたい」と言い、小浮橋・沂水・泗水を浚い、小河口を築くことを議した。工が成ると果たして運に利があった。
  • まもなく久しく旱で運河が渋り、河がまた義安の東壩で決壊した。一魁は黄堌口および上帰湾の活嘴を浚って黄水を受け、小浮橋・泗上の涸れを救うことを議し、そこで河の図を描いて上言した。
  • 「黄河は古来、患いとなってきました。近ごろ黄を分け淮を導く工が成って鳳陽・泗州・淮安・揚州は水没の災を免れました。また黄堌の一決壊から全河が南へ徙り、兖州・豫州・徐州・邳州は河患を免れました。その余波が義安に出たものも、導いて小浮橋に入れ、二洪の涸れを済うに足ります。今日の河は既に『堤を決して水を放つ』の議に合っております。 それなのに議する者はなお『運道に浅く渋る虞いがある、祖陵に意外の患いがある、地方に淹没の苦しみがある』と言います。国家の運道はもともと河に資るものではないことを知らぬのです。 全河は初め亳州・寿州の郊に出、治めぬことで治めたので、毎年、治河の費用がありませんでした。その後、全河が次第に決壊して運に入り、そこでその灌輸を資るようになって五十余年。久しく借りて返さず、しかも日々に垣を築いて居らせ、一滴も外に泄らさぬようにしました。かくて濁った砂は日々沈殿し、河身は日々高くなり、上は汶水・泗水を遏めて鎮口が淤みを受け、魚台・滕県が侵され、下は清らかな淮を壅いで退いて内に溜まり、盱眙・泗州が魚となり、ついに河沿いは水没し、毎年の運は流され、はなはだしくは祖陵まで浸すに至りました。それでも当事者は運道の資るところとして、勢いとして他へ徙らせられなかったのです。 臣は明命を奉じて弦を改め轍を易え、まず武墩の経河を開き、次に具壩・固荘を疏し、また小浮橋・小河口・沂河口の故道を浚いました。幸いに小浮橋が股引きする水と孛吉口の断たれぬ流れで、既に運を済うに足ります。汶・泗・沂・兖の水で閘を建てて調節すれば運道は自ずと保てます。もとより力を尽くして決壊を塞いで全河を回す必要はありません。 決壊した河の経る所には山西・阜子の諸坡湖があって滙まる所となり、小河・白洋・固朱などの河や溝があって委する所となります。祖陵は上流に雄拠し、崇岡と畳嶂があって案ずるに及びません。帰仁の一堤は今、険要とされていますが水の衝でもなく、万一、守りを失っても下は桃源・清河を浸して洪沢の諸湖から清口に下るだけで、勢いとして逆流して倒れ灌かって盱眙・泗州に及ぶことはできません。 南流の泛濫が下の邑の民生の害となるのは免れませんが、碣山の水道は衝に当たり、南流でも北流でも免れず、必ず城を遷して河患を避けるべきです。口が涸れて災を被るのはただ蕭県・宿州・霊璧・睢寧だけ。往時、全河がまだ徙らなかったとき、豊県・沛県・魚台・滕県・徐州・邳州は水没されなかったでしょうか。近く庚寅・癸巳の秋、徐州・邳州の二州は魚鱉となりかけたではありませんか。今日と較べてどちらが重くどちらが軽いか。 ゆえに臣は終始、自ら信じます。ただ既に成った功に就いて未完の緒をやや終えれば、自ずと運道の虞いに至らず、また陵寝と生民の患いともなりません。 臣にはさらに申すことがあります。禹が河を導くとき、二渠に析ち九河に播き、水の向かう所に随って利を争いませんでした。今、河南・山東・江北の州県は碁のように列び星のように布かれ、至る所に堤防があります。水が汴梁に及ばぬとなれば張秋の決壊を恐れ、張秋に及ばぬとなれば鎮口の淤みを恐れ、鎮口に及ばぬとなれば宿州の淹水を恐れる。およそ禹が空けて水に与えた所を、今はみな我らが占め、水を容れる地がない。もとより衝決があって当然です。 今、もし碣山の一邑の地を空け、北は李吉口を導いて濁河に下し、南は徐渓口を存して符離に下し、中は盤岔河を存して小浮橋に下し、三河を並存させ、南北の相距五十里、水の遊蕩に任せて治めぬことで治め、一邑千金の賦を量って蠲め、毎年、修河の一万金の費用を省く。これも一時の省事、万世の良図です」。
  • 二十六年春三月、工部給事中の楊応文が泇河を開くことを請うた。泇河は滕県・嶧県・沂州・沐水の下流にあり、南は淮海に通ずる。隆慶以来、翁大立がたびたび議したが決せず、舒応龍がかつて韓荘を鑿ったが中断した。当時、河が黄堌口で決壊したので、その功を終えることを請い、許された。
  • 夏六月、工部侍郎兼右僉都御史の劉東星に河道を総理させた。東星は河堤を巡行して「漕を阻むものを治めるのは末、決河を治めるのが本。両利を並存させるべきだ」と言い、趙渠を開くことを議した。商城・虞城以下、徐州に至るまで元の賈魯の故道である。嘉靖の末に北へ徙り、潘季馴が開くことを議したが費用四百万と計算して止めた。
  • 河が単県の黄堌口で決壊してやや通じて渠を成し、ただ曲里館から三仙台まで四十里が従来どおりだった。東星はそこで浚おうとし、また三仙台から泗州の小浮橋まで支河を開き、さらに漕河を浚った。徐州・邳州から宿州まで、費用は十万緡ほどだった。
  • 二十九年秋九月、河が蕭家口で決壊した。先に開封・帰徳が大水となり、商城・蒙城などで河が蕭家口の百余丈を衝き、全河が南へ徙り、淮泗の商船は去るに及ばず砂の上に置かれた。
  • 総督河漕の工部尚書・劉東星が済寧で卒した。東星は趙渠を浚い泇河を開いたが、工が竟わらぬうちに卒した。
  • 十一月、河南道御史の高挙が言った。「膠莱の海運は、嘉靖年間に山東副使の王憲が膠莱河を開くことを議しました。河の南口は麻湾に起こり、北口は海滄に至り、相距三百三十里。その地の河の形は今もなお残り、両口はみな潮水を貯えて浚渫を要さぬ所が二百余里、浚うべき所が百三十里。ただその下は石が多く水が微細です。極力開鑿しても三十里の距離にすぎません。 もし河が成れば、我が江の漕運は淮安の清江浦から新壩・馬家濠を経て来られ、まことに便利です。国初に海運を罷めたのは馬家濠が通じておらず、舟が大洋に出たからです。馬家濠が通じれば舟は小海の中を行き、自ずと険しくありません。麻湾・海滄の二口からまっすぐ天津・直沽に至れます」。
  • ここに至って挙はその議に循って上申したが、守臣に阻まれて止んだ。

万暦三十一年〜三十四年(1603年〜1606年)— 泇河の開通

  • 三十一年春正月、山東巡撫の黄克纉が「王家口を開いて蒙牆の上流とすべきです。上流が既に達すれば、下流は傍らに泄らすべきではありません。塞ぐべきです」と言い、従われた。
  • 夏四月、総理河道侍郎の曽如春が卒した。如春の治河は力を尽くして黄家口を開くことを主張し、六十万金を領して智を竭くし慮りを尽くした。新河を開いたものの、深く広くしてもその南はかえって浅く狭く、ゆえに水が行かなかった。決壊した河の広さは八十余丈なのに新河はわずか三十丈で、受けきれなかった。
  • ある者が如春に告げた。「もし河流が回れば勢いは雷霆のごとし。その自然の勢いを藉りて衝けば、浅い所が深くならぬ憂いはありません」。如春はそこで水を放たせた。河流は濁って下はみな泥砂、流れの勢いがやや緩むと、下は既に半ば淤んだ。ある夕、水が増して魚台・単県・豊県・沛県の間を衝いた。如春はこれを聞いて驚き悸えて急死した。
  • 工部右侍郎の李化龍に河道を総理させた。
  • 三十二年春正月、総理河道侍郎の李化龍が泇河を開くことを請うて言った。
  • 「河は開封・帰徳から下って運に合して海に入りますが、その路は三つ。蘭陽から茶城に出て徐州・邳州へ向かうものを濁河といい中路とします。曹県・単県・豊県・沛県から飛雲橋に出て徐溝へ向かうものを銀河といい北路とします。潘家口から宿遷に入って小河口に出るものを符離河といい南路とします。 南路は陵に近く、北路は運に近い。ただ中路だけが陵から遠く、しかも運を済います。前の督臣が群議を排してこの役を興しましたが、ついに資用が乏しく尽きて竣工できませんでした。しかし堅城から鎮口まで河の形は宛然としております。ゆえに今の計としては、ただ行堤を守り泇河を開くのが便宜です」。上は従った。
  • 秋八月、河が蘇家荘で決壊して豊県・沛県を水没させ、黄水が逆流して済寧・魚台・単県に灌かり、魚台はとりわけ甚だしかった。
  • 九月壬申、分水河が成った。
  • 三十三年秋七月壬午、呂梁の河が渋り、給事中の宋一韓が前総督の李化龍の泇河の誤りを論じたが返答はなかった。
  • 三十四年夏四月癸亥、河工が成った。朱旺口から小浮橋まで百七十里、河は故道に帰した。五十万人を役し、八十万金を費やし、五か月で竣工した。

崇禎年間(1628年〜1644年)— 開封の水没

  • 崇禎六年夏五月、運河が浅く阻まれ、総理河道尚書の朱光祚を一級降格した。
  • 七年冬十一月、漕運総督の楊一鵬が泇河を浚うことを議し、従われた。
  • 八年秋九月、総理河道尚書の劉栄嗣を逮捕した。もともと栄嗣は駱馬湖が運を阻むので、宿遷から徳州まで河を開いて注ごうとした。鑿ってみると黄水が朝夕に移り変わって舟を通せなかった。給事中の曹景参が弾劾して逮捕された。
  • 九年夏四月、泇河の再浚が成った。
  • 十五年秋九月、李自成が開封を囲み、河が決壊して城は陥ちた。
  • 先に開封城の北十里は黄河を枕にしていた。ここに至って賊が城を囲むこと久しく、人が互いに食い合った。壬午の夜、河が開封の朱家寨で決壊し、城の北に溢れ、数日後に水が大挙して至って城を灌かった。
  • 周王・恭枵は磁州へ逃げた。巡按御史の王漢が舟で迎えたからである。巡撫の高名衡、推官の黄澍らはみな北へ渡った。吏卒は慌てて各々奔り避け、士民で埋もれ溺れ死んだ者は数千万人。城はすべて崩れ、賊は高地に屯して独り全うした。
  • 開封は古の都会で富庶は中原一だったが、ついに巨大な水浸しとなり、水の大半は濁河に入り泗に入り淮に入って故河と分流し、邳州・亳州はみな災を被った。

史論(谷応泰曰)

  • 河は龍門から下り、万山に束ねられて浮かび、南は豫州に至って地は平らかで勢いは怒り、河に安らかな流れはなくなる。ゆえに河の決壊は必ず河南で起こり、決壊した後は南へ全淮を侵すか、北へ斉魯を衝く。
  • 全淮を侵せば潁州・亳州・徐州・宿州に潰え散って害は田や家屋、民の生業にある。斉魯を衝けば曹州・濮州・単県・鄆城に横に激して患いは堤防と運道にも及ぶ。しかし淮は近くて身が大きいので、決壊して淮に入れば患いは小さく治めるのが速い。漕は遠くて身が小さいので、決壊して漕に入れば患いは大きく治めるのが難しい。
  • 洪武の初め、河は原武で決壊して潁州・寿州から淮に入った。正統十三年秋、河は滎陽で決壊して漕に入り、沙湾を潰して海に入った。景泰三年春、河はまた沙湾で決壊した。弘治二年夏、河は開封で決壊して淮に入った。三年夏、河は原武で決壊して支流三つ、一つは封丘から下って張秋を衝き、一つは中牟・尉氏に出、一つは蘭陽および帰徳に溢れて瀰漫して宿州に至った。五年秋、河は張秋で決壊し、七年春にまた張秋で決壊した。
  • 世宗十九年、河は睢州の野鶏崗で決壊し、四十四年、河は沛県の飛雲橋で決壊した。神宗五年、河は崔鎮で決壊し、二十五年、河は黄堌口で決壊した。懐宗(崇禎帝)十五年、河は汴城で決壊した。
  • おおよそ決口は必ず開封の南北百里にあり、被害の地は淮が三、漕が七。のちには次第に漕河を病ませることが多くなった。
  • 思うに、大河を合して一つの淮に帰せしめるのは、物が両つながら大きくなれぬのと同じ。まして水は泥濘で滓が多い。二つの大河の水を駆って塞がった途を行かせれば、必ず潰えるのは甚だ明らかである。しかも兖州は低く、斉魯は海に濱し、黄河が向かう所は漕河の諸水を併せ牽いてことごとく海に瀉ぐ。
  • ゆえに河が決壊した勢いは、陸では水に病み、水では涸れに病む。発すれば水に病み、去れば涸れに病む。斉魯が水に病めば漕河は涸れに病み、一隅が水に病めば全河は涸れに病む。
  • 説く者は「河が既に豫から決壊して兖に入り、漕を経て海に達しようとするなら、なぜ豫・兖の諸決地をすべて浚って河の北流に任せ、済寧を過ぎて臨清に下し、直沽に出して漕と河を合わせぬのか。漕は竭れに病まず、淮と河が分かれれば淮は溢れに病まぬ。策として至便である」と言う。
  • 淮河が浩瀚として千里を一気に瀉いでもなお泄らしきれず、怒りの時には沸き湧くのに、漕水は千歩に百折し、うねり曲がりくねる。河がどうして轡を按じて徐々に行けようか。もし必ず漕の制を廃して河の体を伸ばし、咽喉の地を取って尾閭の衝としたら、幸いは必ずない。
  • ゆえに治河の道に古来、上策はない。史冊に載るものも三説にすぎぬ。疏・浚・塞である。塞は上流にあり、谷を堙め流れを截つことである。疏は下流にあり、支を分け沢に灑ぐことである。浚は河身にあり、堤を築いて岸を固くして安らかに行かせることである。
  • 疏は上策に近い。神禹が北に九河を播き、賈譲が北に渤海へ放って地を棄て民を遷したのは、費用が巨万で効はもう言いがたい。
  • 近世以来、浚と塞を兼ね施した。徐有貞は「水が平らかになってから決壊を治め、決壊が止んでから淤みを浚える」と言った。これは先に塞ぎ、続いて浚う法である。ゆえに力を尽くして張秋の金堤を築いて決口を堅く塞ぎ、徐々に漕河の淤みを浚って水道はようやく平らかになった。
  • 劉大夏は「河道が治まらぬのは堤防を修築する功が多く、疏浚して分け殺ぐ功が少ないからだ」と言った。これは先に浚い、後に塞ぐ法である。ゆえに力を尽くして賈魯河・孫家渡を浚って水を殺いで淮に入れ、また淤河を浚って宿遷・亳州に出して淮に入れ、のち長堤を築いて豫から徐まで至らせ、衝決はついに止んだ。
  • その他、潘季馴が故道を失わず濁流を分けず、楊一魁が真っ先に武墩を開き次に具壩を疏したのも、みな良策である。
  • 殷の都は河を帯として囂・耿とたびたび遷り、武帝は犠牲を刑して瓠子を塞いだ。明の世を通じて河患はしばしば警めたが、一年たりとも運を沮んだことがなかったのは、浚と塞の力である。九河の故道は既に修めきれず、漕河の一線は勢いとして廃せない。ならば塞と浚の功は河と始終を共にする。これを鑑としてほしい。