明史紀事本末土黙特の変(土黙特之變)
正統八年(1443年)から同十四年(1449年)までの7年間、オイラトのエセンの台頭から英宗が土木堡で捕らえられるまでを記す。トゴンの死後に嗣いだエセンが辺を犯し、羅亨信の土城増置の議も兵部尚書の鄺埜が王振を憚って進まなかった。正統十四年、貢馬の価をめぐる紛争と婚姻の拒絶からエセンが大同に侵入すると、王振は英宗に親征を勧め、五十万の軍が出征する。鄺埜・王佐・曹鼐らの回鑾の諫めは退けられ、朱勇の軍が鷂児嶺で覆没、土木堡で水を絶たれた大軍は潰滅し、張輔・鄺埜・王佐・曹鼐らが戦死、英宗はエセンの陣に擁し去られた。エセンの弟バヤン・テムルが殺害論を退けて英宗を護らせ、皇太后と銭皇后は宝物を送って還御を請うたが返答はなかった。
年表(8件)
- 正統八年 夏四月— エセンの台頭1443年トゴンが死んでエセンが嗣ぎ、北辺の侵犯が頻発する
- 正統十二年 春正月— 辺備の議1447年羅亨信が土城増置を請うが王振を憚る鄺埜が議を進めない
- 正統十四年 春二月— 貢馬の紛争1449年王振が馬価を減らし婚姻も許さずエセンが憤って侵入を謀る
- 正統十四年 夏六月— 天変地異1449年三殿が焼け各地に山崩れ・地変が続くが王振は畏れない
- 正統十四年 秋七月— 親征の決定1449年王振の勧めで英宗が五十余万を率いて親征に出る
- 正統十四年 八月— 大同での帰還決定1449年朱瑛・朱冕の全軍が覆没し王振がようやく班師を決める
- 正統十四年 八月— 土木の潰滅1449年土木堡で水を絶たれた大軍が潰え張輔・鄺埜・王佐・曹鼐らが死ぬ
- 正統十四年 八月— 帝の捕縛1449年英宗がエセンの陣に擁し去られバヤン・テムルの主張で護られる
正統八年 夏四月(1443年)— エセンの台頭
- オイラト太師・順寧王のトゴンが死に、子のエセンが嗣いだ。トゴンがアルタイを殺して諸部を併呑して以来、勢いは次第に強盛となり、エセンに至っていよいよ横暴となり、たびたび塞を犯し、北の辺境はこれより多事となった。
正統十二年 春正月(1447年)— 辺備の議
- 宣府・大同を巡撫する僉都御史の羅亨信が上言した。「オイラトのエセンは専ら釁の端を待って侵入を図っております。あらかじめ直北の要害に城衛と土城を増置して備えるべきです。そうでなければ大患を残す恐れがあります」。
- 奏聞されたが、兵部尚書の鄺埜は王振を畏れてあえて議を主導しなかった。
- 当時、参将の石亨が大同の四州七県の民を三丁につき一兵として籍に入れようとし、さらに勅があって軍の余丁をすべて屯種に振り向け、畝を量って課税しようとした。
- 亨信は奏した。「オイラトはまさに驕り、辺民は甚だ疲れております。加えて辺境の地は塩気が強く痩せています。もし言われるとおりにすれば、衣食を絶って逃亡へ追いやることになります。しかも当今の事勢では、まさに恩信を布いて人心を結ぶべきです。いやしくもその衣食を絶って、その心を得られた例はありません」。詔して従われた。
正統十四年 春二月(1449年)— 貢馬の紛争
- エセンが使者二千余人を遣わして馬を進めながら、三千人と偽って称した。王振はその詐りを怒って馬の価を減らし、使者を帰して報せた。かくて和好を失った。
- 先にエセンが人を遣わして入貢したとき、通事らがその賄賂を利として中国の虚実を告げた。エセンが婚を結ぶことを求めると、通事はひそかに許した。朝廷は知らなかった。
- ここに至って馬を貢して「これは聘礼です」と言ったが、答詔に婚姻を許す意がなかった。エセンはいよいよ恥じ憤り、大同侵入を謀った。
正統十四年 夏六月(1449年)— 天変地異
- 丙辰の夜、雷電が大いに震え、風雨がにわかに起こり、謹身殿から火が出て奉天・華蓋の二殿に延焼し、奉天の諸門もみな焼けた。
- 王振が権を擅にして以来、災異がたびたび現れたが、振はまったく警め畏れず、狠恣はいよいよ甚だしく、しかも天変を言うことを憚った。
- 当時、浙江紹興で山が平地に移ったが、官はあえて報告しなかった。また地が動いて白い毛があまねく生えたが、奏が入っても省みられなかった。
- 陝西の二か所で山が崩れて人家数十戸を圧し埋め、山が移って音が三日絶えず、三里移ったが、詳しく奏することを憚った。黄河が流路を変えて東へ流れて海に入り、人家千余戸を水没させた。
- また振の邸が新築されて時を経ぬうちに一度の火ですべて焼けた。南京の宮殿が焼け、その夜は大雨だったのに、殿の基壇の上に荊棘が二尺の高さに生えて、ようやく詔を下して天下に赦した。
正統十四年 秋七月(1449年)— 親征の決定
- エセンが辺を犯そうと図り、その勢いは甚だ盛んだった。侍講の徐珵が友人の劉溥に「禍は遠くない」と言い、急ぎ妻子に南へ帰るよう命じた。みな移転を厭って難色を示すと、珵は怒って「お前たちが急いで去らねば、中国の婦人でいたくないというのか」と言い、そこで発った。
- 八日、エセンが大挙して侵入し、兵鋒は甚だ鋭く、大同の兵は不利となり、塞外の城堡は至る所で陥没し、辺の報せが日々至った。
- そこで駙馬都尉の井源ら四将にそれぞれ兵一万を率いさせて防がせた。源らが出発すると、太監の王振が上に親征を勧め、命が下って二日で出発した。事は倉卒に出、朝廷を挙げて震え驚いた。
- 太師・英国公の張輔、太師・成国公の朱勇に師を率いて従わせ、戸部尚書の王佐、兵部尚書の鄺埜、学士の曹鼐・張益らを扈従させた。吏部尚書の王直および大小の群臣が闕に伏して懇ろに留めるよう請うたが許されなかった。
- 十七日、太監の金英に郕王を輔けて居守させ、毎朝、闕の左門で西向きに群臣の謁見を受けさせた。
- かくて王振とともに官軍五十余万人で龍虎台に至って駐営した。ちょうど一鼓のとき、衆軍が誤って互いに驚いて乱れ、みな不祥とした。
- 翌日、居庸関を出て懐来を過ぎ、宣府に至った。連日の風雨で人心は騒然とし、敵情の報せはいよいよ急となった。随駕の諸臣が連ねて上章して留まることを請うと、振は怒ってみな陣を掠めさせた(先陣に立たせた)。
- 大同に至らぬうちに兵士は既に糧に乏しく、屍が路に満ちた。賊もまた偽って避け、師を誘って深入りさせた。
正統十四年 八月(1449年)— 大同での帰還決定
- 八月戊申朔、大同に至った。振はさらに兵を進めて北行しようとした。鄺埜が回鑾を請うと、振は旨を偽って王佐とともに老営に随行させた。埜は馬に乗ってよろよろと前へ進み、地に落ちてほとんど死にかけた。王佐は終日、草の中に跪き伏して帰還を請うた。
- 欽天監正の彭徳清が振を叱った。「星象が警告を示している。これ以上、前進すべきではない。もし手落ちがあって乗輿を草莽に陥れれば、誰がその咎を負うのか」。
- 学士の曹鼐は「臣子はもとより惜しむに足りません。だが主上は天下の安危に関わります。どうして軽々しく進めましょうか」と言った。振は怒って「たとえそうなっても、それも天命だ」と言った。
- かくて井源らの敗報が相次いで至った。折しも日が暮れると、傘のような黒雲が営を覆い、雷雨が大いに起こった。王振はこれを憎んだ。
- 折しも前軍の西寧侯・朱瑛、武進伯・朱冕の全軍が覆没し、大同を鎮守する中官の郭敬がひそかに振に「勢いとして決して行けません」と言い、振は初めて帰る意を持った。
- 翌日、班師した。大同総兵の郭登が学士の曹鼐らに「車駕は紫荊関から入られるべきです。そうすれば虞いなきを保てましょう」と告げたが、王振は聴かなかった。
- 振は蔚州の人で、駕を自分の邸に迎えたかった。ところがまたその稲を損なうことを恐れ、四十里行って改めて東に転じた。
正統十四年 八月(1449年)— 土木の潰滅
- 狼山に還ると、追う騎兵が迫った。十三日庚申、朱勇らに三万騎を率いて防がせた。勇は謀がなく、軍を鷂児嶺に進めた。敵が山の両翼から遮って挟撃し、殺掠はほぼ尽きた。
- この日、駕は土木に至った。日はまだ夕暮れ前で、懐来まではわずか二十里。衆は懐来に入って保つことを望んだが、王振の輜重千余両がまだ着いておらず、留まって待った。
- 鄺埜が再び上章して「車駕は疾駆して関に入り、厳しく兵を殿とされますよう」と請うたが返答はなかった。さらに行殿に詣でて力を尽くして請うと、振は怒って「腐儒に兵事の何が分かる。再びみだりに言えば必ず死罪だ」と言った。埜は「私は社稷と生霊のために言う。どうして死で私を懼れさせられようか」と言った。振はいよいよ怒り、左右に叱って引き出させた。
- そのまま土木に駐まったが、傍らに水泉がなく、しかも敵の衝に当たっていた。十四日辛酉、進もうとしたが敵が既に迫ってあえて動けなかった。人馬は水を飲まぬこと二日、飢渇は甚だしく、井を二丈掘っても水が出なかった。その南十五里に河があったが、既にエセンに占拠されていた。
- エセンは道を分けて土木の傍らの麻谷口から入った。守口都指揮の郭懋が拒み戦って夜通し戦ったが、敵はいよいよ増えた。当時、楊洪が総兵として宣府にいた。ある者が洪に「急ぎ兵で敵の囲みを衝けば、駕は突き出られる」と勧めたが、ついに城を閉じて出なかった。
- 十五日壬戌、敵が使者に書を持たせて来て和を言った。そこで曹鼐を召して勅を草させて和し、二人の通事を北の使者とともに帰した。
- 振は急ぎ令を伝えて営を移し、塹を越えて進んだ。旋回する間に行伍は既に乱れた。南へ三、四里も行かぬうちに敵が再び四面から攻め囲んだ。兵士は先を争って奔り逃げ、勢いは止められなかった。
- 鉄騎が陣を蹂躙して入り、長刀を奮って大軍を斬り、「甲を解いて刀を投じる者は殺さぬ」と大喝した。衆は裸で肌を脱いで互いに踏み合い、死者は野を蔽い川を塞いだ。宦侍・虎賁は矢を体に受けて針鼠のようだった。
- 上は親兵とともに馬に乗って囲みを突こうとしたが出られず、擁されて連れ去られた。英国公の張輔、尚書の鄺埜・王佐、学士の曹鼐・張益以下、数百人がみな死んだ。従臣で脱れた者は蕭惟禎・楊善ら数人。
- 軍士で脱れた者は山を越え谷に墜ち、連日飢えて、かろうじて関に達した。騾馬二十余万および衣甲・器械・輜重はすべてエセンの手に落ちた。太監の喜寧はエセンに降り、中国の虚実をことごとく告げた。
正統十四年 八月(1449年)— 帝の捕縛
- 師が敗れると、上は馬を下りて胡坐して南を向いて坐した。ただ喜寧だけが侍していた。一人の胡人が衣甲を索めたが与えなかったので害を加えようとした。その兄が来て「これは凡人ではない。挙動が自ずと違う」と言い、擁して出て雷家站に至り、エセンの弟のサイカン王に会わせた。
- 上は問うた。「お前がエセンか。バヤン・テムルか。サイカン王か。大同王か」。その言葉を聞いて大いに驚き、馳せてエセンに会って「部下が一人を獲ましたが甚だ異様です。大明の天子ではありませんか」と言った。
- エセンは中国に使いした二人を召して否かを問うた。二人は見て大いに驚き「そうです」と言った。エセンは喜んで「私は常に天に告げて大元の天下統一を求めてきた。今、果たしてこの勝ちがあった」と言い、衆に「どう計るべきか」と問うた。
- その中の一人、乃公という者が大言した。「天が仇を我らに賜った。殺すに越したことはない」。
- バヤン・テムルは大いに怒り、エセンを「ノヤン」と呼んだ。ノヤンとは中国語で「大人」である。「どうしてこんな者を傍らに置くのか」と言ってその顔を摧き、「去れ」と言った。そして力説した。
- 「両軍が交戦すれば人馬は必ず刀や矢に当たり、あるいは踏まれて傷つき圧されて死ぬ。今、大明の皇帝は独り踏まれも圧されも刀矢に当たりもせず、ノヤンを問い我らを問われた。驚き恐れず、怨み怒りもされぬ。我らは久しく大明皇帝の厚恩と賞を受けてきた。天は怒って彼を推して地に棄てられたが、まだ死なせてはおられぬ。我らがどうして天に叛けようか。ノヤンが使者を遣わして中国に告げ、天子を迎え返せば、ノヤンには万世の好男子の名が残らぬだろうか」。
- 衆はみな「者」と言った。胡語で「者」は「そのとおり」の意である。
- かくてエセンは上をバヤン・テムルの営に送って護らせた。当時、ただ校尉の袁彬だけが侍していた。
- 彬に命じて前の使臣・梁貴に手書を持たせて懐来の守臣に示させ、留め置かれた状況を告げ、あわせて金帛を索めさせた。城は閉ざされて入れず、縄で引き上げた。守臣は人を遣わして京へ送り、その夜の三更に西長安門から入って報じた。
- 十七日、百官が闕下に集まり、かなり敗報を聞いて私に告げ語り、驚き恐れた。朝を出ると敗残の卒が傷を裹んで続々と至った。訊ねてもみな上の所在を知らなかった。
- この日、皇太后が使者に重い宝と文綺を八頭の馬に載せて遣わし、皇后・銭氏は宮中の物をすべてかき集めて足し、エセンの営に詣でて車駕の返還を請うたが、返答はなかった。
史論(谷応泰曰)
- 古は天子に道があれば守りは四裔にあった。その末世でも境を保ち圉を固め、戎心を生じさせなかった。ゆえに馬邑の誘いには王恢に罪を加え、郅支の誅には甘延寿の封を惜しんだ。兵に勤めて遠く略するのは、軽々しく辺の釁を開くことであり、些細な事ではない。
- まして単于の帳がようやく関門に迫っただけで、黄屋の尊が自ら鍵となる。晋の明帝は姑孰を深く窺い、趙の武霊王は咸陽に突入したが、誰が実に国を謀って、自ら測りがたい淵を試し、軽々しく虎狼の穴に入ろうか。
- 英宗が位に践み、王振が権を擅にし、エセンは狡猾で境を狙った。その時、羅亨信が土城の備えを議し、石亨が軍を屯種に振り向けたのは、事に先立つ防ぎである。王直が闕に伏して懇ろに留め、鄺埜が堅く回鑾を請い、王佐が草の間に跪き伏したのは、事に臨んでの救いである。
- ところが王振は威福を擅にすることが久しく、鋭意、親征して進むのみで退かなかった。まことに楚国が師を連ねて「これを滅ぼしてから朝食を」と言い、驃姚(霍去病)が漢に報いるのに家を顧みなかったようなものであったか。
- そうではない。従来、笑いと顰めをひそかに弄ぶ者は必ず外敵を防ぐことを口実として主の恩を固め、勢焰の手を焦がすほどの者は辺功で富貴を得ることを幸うものである。これが振が鞍に拠って顧み眺め、死地へ鶩のように走ったゆえんである。
- 千金の子は堂の端に坐らず、十室の邑でも難を免れうる。ところが英宗はこの時、駕を勧める言が入りやすく、轡を断つ議は行われなかった。文皇が自らオイラトを征して与しやすいと慣れ、宣宗が自ら将となって辺を待ったのを、親しく見ていたからでもあろうか。
- ゆえに「戎を済上に追う」と言えば魯の公を専ら目し、「令支を北伐す」と言えば群れは小白(斉の桓公)を推す。しかし天の時と人の事には違いがある。
- 天変が上に現れ地変が下に現れ、南宮に荊棘が生え、北殿が塵灰となった。梅福のいう「金と鉄がみな飛ぶ」、宗周の三川が亡を告げたのに比すべき、これは何の光景か。
- 龍台に至って一軍がみな乱れ、居庸を出て連夜の風雨、大同に迫って屍が路に満ちた。苻堅のとき犬が宮門で吠え、管子のとき鼙鼓がみな濁ったのに比すべき、これは何の兆しか。
- 井源の敗北が相次ぎ、朱冕の全軍が覆没して、振はようやく屯を還して左に次し、班師を議した。ああ、遅すぎた。
- 蕩陰の血は衣を染めるより酷く、平陽の辱めは蓋を執るに近い。いたずらに師武・臣封の屍をともに死なせ、諸大夫は野宿する所もなく、楚の三戸の衆が懐王を見たのはいつのことか。鋭司徒の妻は「我が君は免れまい」と嘆じた。
- 幸いに共和が政を行い、叔武が入って守った。ちょうどノヤンが怒り、乃公の謀を用いなかったので、貨は秦に居らず、璧は趙に還った。そうでなければ、皇太后が重宝を贈り、銭皇后が宮中の物をかき集めても、幣は地とともに尽き、人は幣とともに去り、徽宗・欽宗の禍がここに再現され、雪の窖、氷の天で魂はついに漠北にあったろう。
- しかし私はかつて論じた。寇準は学術に富み、戦えたのに真宗は盟を受けた。王振は方略に乏しく、戦えなかったのに英宗はにわかに挙げた。かくて澶淵の会は重く発しすぎて功を喪い、土木の変は軽々しく為して敗に至った。
- 王振が謀を倡え、喜寧が寝返った。たとえ一人は沙場に死に、一人は斧鑕に膏となっても、その罪は竹に書き尽くせず、報いは辜を蔽わない。靖康に童貫を誅し、賈誼の書が中行説を縛ってその背を笞打とうとしたのももっともである。