明史紀事本末王振の専権(王振用事)

司礼太監の王振が権を握って明の朝政を壟断し、土木の変で滅びるまでを、宣徳十年(1435年)から正統十四年(1449年)までの十五年間にわたって扱う。九歳で即位した英宗は東宮の旧侍である振を「先生」と呼んで寵信し、振は将台の閲武で紀広を飛び越えて抜擢するなど旨を偽って人事に手を伸ばした。太皇太后・張氏は五臣を託して振に死を賜ろうとしたが英宗の請いで免じ、その崩御後は歯止めが失われる。振は太祖の「内臣は政事に干預するを得ず」の鉄碑を除き、諫言した侍講の劉球を馬順に殺させて支解し、薛瑄を死罪に陥れ、祭酒の李時勉に枷をはめ、于謙を降格した。賄賂が公然と行われ、家には玉盤百面と珊瑚二十余株が積まれた。正統十四年(1449年)、エセンの侵入に帝を挟んで親征し土木で潰え、護衛将軍の樊忠に打ち殺されて一族は誅されたが、のち英宗は復辟後に振の官を復して智化寺に祀った。

年表(7件)

宣徳十年(1435年)— 王振の登場と太皇太后の戒め

  • 春正月甲戌、帝(宣宗)が乾清宮で崩じた。皇太子はまだ九歳で皇帝の位に即き、翌年を正統元年とする詔を下した。
  • 秋七月、司礼太監の王振に文武の大臣とともに将台で閲武させた。振は旨を偽って隆慶右衛指揮僉事の紀広を都督僉事とした。
  • 振は山西大同の人。もと上の東宮に侍え、即位すると司礼監を掌らせた。上は寵信して「先生」と呼んで名を呼ばなかった。振はかくて威福をほしいままにした。
  • 当時、輔臣はちょうど経筵を開くことを議していたのに、振は上を将台の閲武に導いた。台は朝陽門外の近郊にあり、京営および諸衛の武職を集めて騎射を試して優劣をつけた。紀広という者はかつて衛卒として居庸を守っていたが、振の門に身を投じて大いに親愛され、そこで広を第一と奏して飛び越えて抜擢した。宦官が政を専らにしたのはここに始まる。
  • 太皇太后・張氏がかつて便殿に出た。英国公の張輔、大学士の楊士奇・楊栄・楊溥、尚書の胡濙が旨を受けて入朝し、上は東に立った。
  • 太皇太后は上を顧みて言った。「この五人は先朝が簡んで皇帝に遺した者です。行うことがあれば必ず彼らと計り、五人が賛成せぬことは行ってはなりません」。上は命を受けた。
  • しばらくして太監の王振を宣した。振が至って伏すと、太皇太后は顔色を一変させて言った。「お前は皇帝の起居に侍えながら不律なことが多い。今、お前に死を賜る」。女官が刃を振の頸に当てた。
  • 英宗が跪いて請い、諸大臣もみな跪いた。太皇太后は「皇帝は年若く、この輩が人の家国に禍することを知らぬ。私は皇帝と諸大臣に免じて振を貸す。以後、国事に干与させてはならぬ」と言った。

正統元年〜六年(1436年〜1441年)— 権勢の伸長

  • 正統元年冬十月、上は将台で閲武し、諸将に騎射させ、三矢を目安とした。命を受けた者は一万騎だったが、ただ駙馬都尉の井源だけが弓を引き馬を躍らせて三発三中した。上は大いに喜んで御酒を賜った。観る者はみな「往年、王太監が閲武したときは紀広が急に昇進した。今、天子が自ら来られてもただ一杯の酒か」と言った。結局、特別な抜擢はなかった。
  • 四年冬十月、福建按察僉事の廖謨が駅丞を杖で打ち殺した。丞はもと楊溥の郷里の者、僉事はまた楊士奇の郷里の者だった。溥は謨を怨んで死罪に論じようとし、士奇は謨を「公務で人を殺した」罪に坐そうとした。争って決せず、太后に裁定を請うた。
  • 振は「二人はいずれも郷里の縁を挟んでおります。抵命は重すぎ、公務による罪は軽すぎます。品階に応じて降調させるべきです」と言い、太后は従って謨を同知に降した。振の言はこうして通り、これより次第に朝事に手を出すようになった。
  • 五年春二月、侍講学士の馬愉と侍講の曹鼐をともに内閣の機務に当たらせた。
  • 先に王振が楊士奇に言った。「朝廷の事は三人のご老先生に頼っております。しかし三公も高齢で勤めに倦んでおられます。後はどうなさるおつもりか」。士奇は「老臣は瘁を尽くして国に報い、死してのち已むのみ」と答えた。栄は「先生、どうしてそんなことを言われる。我らは老いて力を効せぬ。人をもって君に事えるべきだ」と言った。
  • 振は喜んだ。翌日、曹鼐・苗衷・陳循・高穀らを薦め、順次、抜擢用いられた。
  • 士奇はそこで栄を咎めた。栄は言った。「彼は我らを厭うている。我らが自ら立とうとしても、彼が許すだろうか。ある朝、内から一片の紙が出て某々を入閣させよと命ずれば、我らは手を束ねるほかない。今、四人はまさに我らの側の人間だ。何の害があろう」。士奇はその言をよしとした。
  • 六年夏四月、太監の王振が旨を偽って工部郎中の王佑を工部右侍郎とした。振が権を弄ぶと、佑は諂媚で飛び越えて抜擢され、兵部侍郎の徐琋とともに意を尽くして逢迎した。
  • 佑は容貌が美しく鬚がなく、よく振の顔色をうかがった。ある日、振が「王侍郎はなぜ鬚がないのか」と問うと、「お館様にないものが、どうして子にありましょう」と答えた。聞く者は鄙んだ。
  • 五月、兵科給事中の王永和が、錦衣衛の事を掌る指揮の馬順が寵を恃んで驕り恣にし、欺き罔いて法に背いていると弾劾したが、返答はなかった。順は王振の一党である。
  • 八月、山東提学僉事の薛瑄を大理寺左少卿に召した。もともと王振が楊士奇に「私の同郷で大いに用いるべき者は誰か」と問い、士奇が瑄を薦めたので、この召しがあった。
  • 京に至って朝見しても振に謁さなかった。振は閣下に至って「なぜ薛少卿に会わぬのか」と問い、二楊が謝した。振は李賢が日ごろ瑄と親しいと知って閣下に召し、自分の意を伝えさせ、あわせて振が日ごろ彼のことを気にかけていると言わせた。
  • 賢が朝房に至って瑄に語ると、瑄は言った。「厚徳(賢の字)までがそんなことを言うのか。公の朝廷で爵を拝し、私の室で恩を謝する。私はせぬ」。久しくして振はその意を知り、二度と問わなかった。
  • ある日、東閣で会議したとき、公卿は振を見てみな拝したが、一人だけ立っていた。振はそれが瑄と知って先に揖して罪を告げた。しかしこれよりいよいよ深く恨んだ。
  • 十月、三殿の工事が完成して百官を宴した。旧例では宦者は寵せられても王庭の宴に与れなかった。この日、上が人を遣わして「王先生は何をしておられるか」と見させた。振はまさに大いに怒って「周公は成王を輔けた。私だけが一席に坐れぬのか」と言った。使いが報告すると、上は顔をしかめ、東華門の中門を開いて振の出入りを許した。振が至って理由を問い、「詔命です」と言われた。門外に至ると百官がみな風を望んで拝し、振は悦んだ。
  • 戸部尚書の劉中敷、侍郎の呉璽・陳瑺を長安門で械に繋いだ。当時、京城に草が乏しかったので、御用の牛馬を民間に分けて牧させようとし、言官が制を紊すと弾劾した。王振は械に繋ぐよう命じ、十六日後に釈され、侍郎の王佐に部の事を代行させた。

正統七年〜八年(1442年〜1443年)— 太皇太后の崩御と横暴

  • 七年冬十月、太皇太后・張氏が崩じた。もともと宣宗が崩じて上が幼年で位に践んだので、事はみな太后に白してから行った。三楊を委用し、政は台閣に帰した。数日ごとに太后は必ず中官を内閣に遣わして何を施行したか問い、詳しく報告させた。あるいは王振が自ら断じて閣議に付さぬことがあれば、必ず直ちに振を召して責めた。太后が崩じると、振はいよいよ憚るところがなくなった。
  • 太監の王振が太祖の内臣を禁ずる碑を盗み去った。洪武年間、太祖は前代の宦官の失を鑑として鉄の碑(高さ三尺)を置き、「内臣は政事に干預するを得ず」の八字を鋳て宮門の内に立てた。宣徳の時にはなお存したが、振に至って除かれた。
  • 十二月、太監の王振が旨を偽って徐晞を兵部尚書とした。当時、振の権は日々重く、晞は諂いで抜擢された。
  • かくて府・部・院の諸大臣および百執事、外の方面の官はみな金を掴んで進見した。朝覲の日ごとに、進見する者は百金を常とし、千金を出す者が初めて酔い飽きて出られた。これより競って賄賂に趨り、ようやく面会が許された。都御史の陳鎰と王文はいずれも門で跪いて頭を垂れた。
  • 振の甥の千戸・王山を錦衣衛指揮同知として世襲させ、まもなく経筵に侍らせた。

正統八年(1443年)— 劉球の惨殺

  • 夏四月、雷が奉天殿の鴟吻に落ち、詔して直言を求めた。
  • もともと張太后が崩じると王振はついに忌憚なく、皇城内に大邸を作り、また智化寺をその東に作って祈祷し、自ら碑を撰して威福を弄び始めた。
  • 当時、楊栄は先に卒し、楊士奇は子の稷の事件のために堅く臥して出ず、ただ楊溥だけが朝にあったが年老いて勢いは孤立し、続いて登用された者はみな萎縮していた。かくて大権はことごとく振に帰した。
  • 侍講の劉球が十事を上言した。聖学に勤めて心徳を正す、政務に親しんで乾綱を総べる、賢否を別って正しき士を清くする、礼臣を選んで祀典を隆くする、考核を厳しくして吏治を篤くする、刑罰を慎んで憲典を彰かにする、営作を罷めて民の労を蘇らせる、法守を定めて下移を杜ぐ、兵威を息めて民命を重んずる、武備を修めて外患を防ぐ。疏が入ると獄に下された。
  • もともと王振は球が麓川の師を阻んだのを恨んでいた。錦衣指揮の彭徳清は球の同郷で、王振の門に往来して権を用い、公卿はおおむね趨って謁したが、球だけは礼をなさなかった。徳清は恨んだ。
  • 球の疏が上ると、徳清は振を激した。「公はご存じか。劉侍読の疏の三章は、思うに公を詆るものです」。振は怒って死に置こうとした。
  • 折しも編修の董璘が自ら太常になることを願い出、球の疏に「太常に道士を用いるべきでなく、儒臣に易えるべきだ」の語があった。そこで璘と球をともに逮捕して獄に下した。
  • 振は直ちにその党の錦衣衛指揮・馬順に計略で球を殺させた。ある夜の五更、順が一人の校尉だけを連れて獄の門を押して入った。球は董璘と小部屋に臥していた。校尉が前に出て球を捕らえると、球は免れぬと知って大喝した。「死んで太祖・太宗に訴える」。
  • 校尉が刀で球の頸を断つと、血が体を覆いながら屹立して動かなかった。順は足を挙げて倒し、「これほど無礼か」と言い、そのまま支解し、蒲に包んで衛の裏の空き地に埋めた。
  • 董璘は傍らから球の血に染まった裙を隠した。まもなく釈されるとひそかに球の家に帰し、家人は初めて球の死を知った。子の釪と鉞が屍を求めたが、わずかに一本の腕を得ただけで、血の裙を葬った。
  • 校尉は盧氏の人で、もと耿九疇と隣同士だった。ある日、九疇に会うと、痩せて平時と違うので「病んでいるのか」と問うた。校尉は事実を詳しく告げ、「馬順が事を挙げようとしてひそかに私に『今夕、事がある。早く来い』と言い、行くと刃を懐に入れて随行させました。勢いに迫られてそうせざるを得ませんでした。劉公の忠を聞くにつけ、我ら小人は死んでも余りある罪です」と言い、慟哭して死んだ。
  • まもなく馬順の子も死んだ。死ぬとき順の髪をつかんで拳で打ち、蹴って「老賊め、お前の他日の禍は私を超えるぞ。私は劉球だ」と言った。

正統八年(1443年)— 薛瑄・陳敬宗・李時勉の受難

  • 太監の王振が大理寺少卿の薛瑄を陥れて錦衣獄に下し、誣って死罪とした。瑄は日ごろ振に屈さず、振は恨んでいた。
  • 折しもある武吏が病死し、その妾が美しかった。振の甥の王山が奪おうとしたが、妻が拒んだ。妾はそこで妻が夫を毒殺したと誣告した。都御史の王文が究問し、既に誣告を認めさせたが、瑄はその冤を弁じてたびたび差し戻した。
  • 王文は振に諂って仕えていたので讒言し、御史をけしかけて「瑄は賄賂を受けて人の罪を故意に軽くした」と弾劾させ、廷で鞫問してついに瑄を死罪に坐して獄に下した。
  • 瑄は怡然として「冤を弁じて咎を得た。死んで何を愧じよう」と言い、獄中で『易』を読んで自ら娯しんだ。
  • 瑄が死罪に論じられると、子の淳ら三人が「一人が代わって死に、二人が戍って父の罪を贖いたい」と請うたが許されなかった。
  • 処刑されようとしたとき、王振の老僕が竈の下で泣いていた。振が理由を問うと、「薛少卿が免れないので泣いております」と言った。「どうして知っているのか」と問うと、「同郷ですから」と答え、その平生を述べた。振はやや気を緩め、折しも侍郎の王偉が申し立てて救ったので死を免れ、除名して田里に放たれた。
  • 南京国子監祭酒の陳敬宗が考績のため京に至った。振は日ごろ敬宗の名を慕い、門下に引き入れたかった。折しも南畿巡撫の周忱も京師にいて振に謁した。振は忱と敬宗が同年と知って意を語り、忱が敬宗のもとへ行って伝えた。
  • 敬宗は「人の師表となる身で中官に謁を求めてよいものか」と言った。忱は振に「陳祭酒は書法をよくします。書を求めることを名として先に礼幣を送られれば、彼は謁して謝しに参りましょう」と言った。振はもっともとし、金と綺を贈って程子の「四箴」の揮毫を求めた。敬宗は書いてやったが幣は返し、ついに会いに行かなかった。敬宗は祭酒を務めること十八年、昇進しなかった。
  • 秋八月、王振が祭酒の李時勉を国子監の門で枷にはめ、まもなく釈した。
  • 王振がかつて国子監に詣でたとき、時勉が特別な礼をしなかったのを恨み、人をやってその落度を探らせたが得られなかった。彝倫堂に古い樹があり、もと許衡が植えたものだった。時勉はその陰が茂りすぎて諸生の並び列するのに妨げになると嫌い、少し傍らの枝を伐らせた。
  • 振はそこで「官の木を伐って私家に用いた」と誣い、旨を偽って枷をはめて成均(国子監)に晒させた。当時、三つの枷が作られ、司業の趙琬、掌饌の金鑑とともに枷にかけられたが、時勉の枷はとくに重く穴が狭かった。鑑が取り替えることを請うたが、時勉は肯んじなかった。
  • 監生の石大用が身代わりを乞い、号哭して闕下に奔走し、上疏して解放を求めた者は数千人。会昌伯の孫継宗が孫太后に言い、太后が上に言って、初めて振の仕業と知り、直ちに釈すよう命じた。
  • 内使の張環と顧忠が匿名で誹謗の語を書いた。錦衣衛が鞫問して実を得、詔して市で磔にし、なお内官を出して観させた。かくて誹謗が振の悪を暴くものだったと知れた。

正統九年〜十三年(1444年〜1448年)— 権勢の絶頂

  • 九年秋七月、駙馬都尉の石璟が家の閹人・呂宝を罵り、太監の王振が憎んで錦衣獄に下した。
  • 冬十月、監察御史の李儼を錦衣獄に下した。当時、儼は光禄寺の祭物の収納を監していたが、太監の王振に会って跪かず、そのため罪を得て鉄嶺衛に戍された。
  • 十年春正月、錦衣衛の卒・王永がひそかに王振の罪を大通りに掲げ、名を匿した。巡邏の校尉が捕らえ、詔して直ちに市で磔にし、復奏させなかった。
  • 秋七月、霸州知州の張需を錦衣獄に下した。需は民をよく治め、順天府丞の王鐸がかつて旌表した。ある牧馬官が民を擾したので需が法に処すと、牧馬官は太監の王振に讒言し、そこで逮捕され、笞打たれてほとんど死にかけ、辺境に謫戍された。あわせて鐸も私に推挙したとして裁きに下された。
  • 十一年春正月、司礼太監の王振に白金・宝楮・綵幣の諸物を賜り、振の甥の林を錦衣衛指揮僉事とした。振に敕を賜って言った。
  • 「朕は思う。徳を旌し功に報いるのは帝王の大典、忠臣が国に報いるのは臣子の至情である。お前・振は性資が忠孝、度量は弘深。昔、皇曽祖の時に特に内臣を用いて選抜され、我が皇祖に事えて詩書を教えられ、令器を玉成した。眷愛が既に隆く、勤誠はいよいよ篤かった。ゆえに我が皇考は、お前を先帝が重んじた者として朕の左右に簡んだ。 朕は春宮にあってから大位に登るまで二十年近く、お前は夙夜、側にあって寝食に違わず、保護し賛輔して心を尽くし、正言と忠告の裨益はまことに至った。特にこの敕をもって賞し、お前の後の官を抜擢する。詩に『徳として報いざるはなし』といい、書に『終わりを謹むこと始めの如くせよ』という。朕は朝夕、その労を念う。お前はこの至意を体せよ」。
  • 三月、山西・河南を巡撫する兵部侍郎の于謙を大理寺左少卿に降格し、なお巡撫させた。
  • 謙は梁(河南)・晋(山西)を撫すること十余年、満ち足りることを懼れ、参政の孫原貞・王来を挙げて自分の代わりとした。当時、王振がまさに権を用いていたが、謙は入京するたび一物も持って要路に交わらなかった。また御史に謙と似た姓名の者があって常に振に忤らったので、振は謙が言官をけしかけたのだと思い、弾劾させて罷めて大理少卿とした。二省の民が道を倍して闕に赴いて留任を乞い、親藩もまた謙なしにはおれぬと請い、改めて巡撫を命じた。
  • 十三年春二月、大興隆寺を修めた。寺はもと慶寿といい、禁城の西にあり、金の章宗が建てた。太監の王振がその荒廃を言い、軍民を役して修めさせた。費用は巨万、壮麗さは京都に冠たるもので、上も臨幸した。

正統十四年(1449年)— 土木の変と王振の死

  • 秋七月、オイラトのエセンが大挙して侵入し、王振は帝を挟んで親征した。八月、師は土木で潰え、帝は北狩した。
  • 護衛将軍の樊忠は帝の傍らに従い、持っていた棰で振を打ち殺して「私は天下のためにこの賊を誅す」と言い、そのまま囲みを突いて数十人を殺して死んだ。
  • 報せが至ると廷臣は振の族誅を請うた。振の親しい馬順および王・毛の二侍が一時に撃ち殺された。都御史の陳鎰が郕王の令旨を奉じてその家を没収し、あわせて振の甥の王山を市で臠にし、族属は老若を問わずみな斬った。
  • 振の家は京城の内外に数か所あり、重なる堂と奥深い閣は宸居に擬え、器と服の綺麗さは尚方も及ばなかった。玉盤百面、高さ六、七尺の珊瑚が二十余株、金銀の庫が六十余、幣帛・珠宝は数知れなかった。
  • 天順元年五月、英宗が復辟して振を思い、樊忠に殺されたのを憚り、詔して振の官を復し、木を刻んで振の形とし、招魂して葬り、智化寺に祀り、「旌忠」の額を賜った。

史論(谷応泰曰)

  • 宣皇が崩御し新主は幼く、王振は青宮の旧侍として儼然と顧命を自負した。その時、三楊はなお位にあり、太后は賢明で漢の馬氏、宋の高后の風があった。掖庭で振を責めて刃を頸に加えたとき、三楊が叩頭して力争していれば、遠く辺土に竄すことは枯れ木を折るように容易だった。単に劉瑾のような城狐が外庭の口舌に頼るのとは違う。
  • ところが競って郷里を庇い、朝堂で争って弁じた。振は表向き平允の名を持し、裏で中宮の喜びを得た。三楊の瑕を振がとうに早く窺っていたと知れる。
  • 匡衡は相に入っても弘恭を制せず、胡広は三公でも甫節を除きがたかった。心が禄位に燻り、志が禍機に怯えると、前に讒があっても見えず、後ろに賊があっても知らず、小人はその隙に乗ずる。
  • 太后が崩じ、東楊(楊栄)が世を去り、二楊は衰え老い、後進は孤立して危うい。諸賢の暮れなずむ気で奸人の新たに発する鋒に当たった。
  • 李時勉は祭酒でありながら頭に三木の枷、劉中敷は上卿でありながら九門で械にかけられ、石璟は帝の婿でありながら請室に繋がれ、薛瑄は廷尉でありながら禁獄で斬に論じられた。そして侍中の劉球はついに振の党にひそかに殺され、蒲に包んで獄舎に埋められ、血の裙で葬られた。悲しいかな。侍中が戦死してわずかに汚れた衣が返り、呂祉の魂が帰るのにただ括帛を持つだけだったのと同じ。范滂が皋陶を祭らず、絳侯が溺れるのを見たというが、これほど惨いことはない。
  • 英宗が初め立ったとき、年はわずか九歳。張后が崩じたときは既に十六。資質が果たして英敏なら、上官(宦官)の詐りを知りえたはずだ。どうして「先生」と呼び、振に周公を自任させ、大宴に与れぬのを憤るのを恐れて東華の中門を開いて出入りさせ、悦ばせたのか。これは哀帝が董賢を寵して天下を譲ろうとし、僖宗が「阿父」と呼んで門生となったのと何が違うか。
  • 宵人(小人)が禍を構えるのは古来多い。だが驪龍が眠るのに乗じて寵霊を盗むもので、それゆえ武帝は韓嫣を愛してもすぐ死を賜り、文信侯や新垣もまた誅滅された。小人の露見にはもとより時がある。
  • あるいは家奴に制せられて虎を履むように危うい場合もある。晋の簡文帝は風神が憔悴し、唐の文宗は涙が袍を濡らした。それでも「勢いは既に去った。どうしようもない」と言えた。
  • しかしこれほど姦形がたびたび敗れ、酷政がしきりに聞こえ、外戚がその非を訴え、親藩がその状をともに聞いたことはない。しかも振は孤児の雛のように勢いは弱く、根も磐石ではなかった。それなのに白金・綺幣を頒ち賜って寵褒し、擅殺と威権をおおむね不問に付した。
  • 土木の変で六軍は敗れ九廟は震え驚いた。青城の轍を自ら踏んだのである。馬嵬の播越には李林甫の奸を思い、回紇が戈を称えたときは元載の罪を悟るべきだった。ところが復辟以来、常に聖慮に懐かしみ、九原に起こしうるなら嘆じて腿を叩き、三径がなお存すれば空しく盧の宅を悲しみ、楡塞に招魂し、木を彫んで仏塔を建て、振のために讐を復した。後世に譏りを遺したのは何と誤ったことか。
  • 劉瑾や魏忠賢も主の眷顧を蒙ったが、没後に追慕されたのは振ただ一人である。天が人の国を佑けてエセンの手を藉り、樊忠が振を殺してのち戦死した。功は何と偉大なことか。もし英宗が賊に陥らず、凶なる宦官が首を授けず、天が年を仮してその毒を増していたら、明の社稷の倒壊は今日を待たなかったであろう。