明史紀事本末高煦の叛乱(髙煦之叛)
成祖の次子・漢王高煦が儲位を争い、ついに叛いて誅されるまでを、永楽二年(1404年)の封建から宣徳年間(1426年以降)の死まで扱う。靖難の戦功を恃んだ高煦は雲南・青州への就国を拒み、解縉や東宮の官属を讒言で陥れたが、私に兵器を造り死士を養った罪で両護衛を削られ、楽安州に徙された。仁宗が崩じ宣宗が即位すると、枚青を京に送って英国公・張輔と内応を図り、靳栄と済南で呼応する約を立てて挙兵する。宣宗は夏原吉・楊栄の議を容れて自ら親征し、楽安城を囲むと城中は動揺し、高煦は白衣に藁の席を負って降った。逆党六百四十余人が誅され、陳山・楊栄は趙王・高燧の襲撃を勧めたが、楊士奇の諫言で趙王は護衛を献じて保全された。高煦は逍遥城で宣宗を足で倒し、銅の缸に伏せられ炭火で焼き殺された。
年表(9件)
- 永楽二年— 高煦の封建と儲位の争い1404年世子が東宮に立ち、高煦は漢王に封ぜられて不満を抱く
- 永楽十三年〜十五年(〜1417年)— 楽安への移封1415年私に死士を養った罪で両護衛を削られ楽安州に置かれる
- 永楽二十二年〜洪熙元年(〜1425年)— 瞻圻の告発と即位前の陰謀1424年子の瞻圻の密報が露見し、高煦は宣宗の奔喪を邀撃しようと謀る
- 宣徳元年 春正月〜八月— 高煦の反乱1426年枚青を京に遣わして張輔と内応を図り、五軍を立てて挙兵する
- 宣徳元年 八月— 親征の決断1426年夏原吉と楊栄が神速を説き、宣宗が自ら征討に発つ
- 宣徳元年 八月— 樂安への進軍と勝利1426年楽安城を囲んで矢文で諭し、高煦が白衣で出て降る
- 宣徳元年 八月〜九月— 趙王への疑いと楊士奇の弁護1426年陳山と楊栄が趙王襲撃を勧め、楊士奇が反対して移兵が止む
- 宣徳元年 九月— 論罪と趙王の保全1426年逆党六百四十余人が誅され、趙王は護衛を献じて許される
- 宣徳年間(以降)— 高煦の死1426年高煦が銅の缸に覆われ炭火で焼かれて死に、諸子も死ぬ
永楽二年(1404年)— 高煦の封建と儲位の争い
- 郡王の高煦を漢王に立てた。仁宗の同母弟である。
- もともと文皇(成祖)が兵を起こしたとき、世子が居守した。高煦は狡猾で智略が多く、才と武勇を自負し、騎射をよくした。白溝・東昌の従軍で功があり、江上の戦いでは文皇の兵が退いたところへ高煦が騎兵を率いて駆けつけた。文皇はその背を撫でて「私は疲れた。お前が努めよ。世子は病が多い」と言った。
- のち儲君を建てる議のとき、藩府の旧臣・淇国公の丘福、駙馬の王寧はいずれも高煦と親しく、しばしば「二殿下」と称えた。文皇は言った。「居守の功は扈従より高い。儲貳の分は嫡長にある。しかも元子は仁賢で、太祖が立てられた真の社稷の主だ。お前たちは二度と言うな」。
- ここに至って世子を東宮に立て、高煦を漢王として国は雲南、高燧を趙王として国は彰徳とした。
- 高煦は不満で行こうとせず、「私に何の罪があって万里の地に斥けるのか」と言った。文皇は悦ばなかったが、太子が力を尽くして取りなし、しばらく京師に留まることができた。
- また天策衛を護衛にもらうことを請い、「唐の太宗は天策上将だった。私がこれを得たのは偶然ではない」と言った。さらに二護衛を増すことを請い、「私の英武は秦王・李世民に類さぬか」と言った。またかつて詩を作り「申生はいたずらに死を守り、王祥はむなしく凍えを受けた」の語があった。
- 上はかつて太子および漢王・高煦、趙王・高燧、皇太孫に同じく孝陵に謁するよう命じた。太子は肥って重く、しかも足の病があり、二人の中使が脇を支えて歩いても常に足を踏み外した。高煦が後ろから「前の人が躓けば後の人が警戒を知る」と言った。皇太孫が声に応じて「さらに後の人が警戒を知りましょう」と言った。高煦は振り返って色を変えた。太孫とは宣宗である。
- 東宮は性が仁厚で経史を篤く好み、人君の度量があった。高煦は学を究めようとしなかったが、英武はかなり上に類し、身の丈は七尺余り、軽捷で、両脇に龍の鱗のようなものが数片あった。上は北征のたび左右に従わせた。
- 上はかつて諸大臣とひそかに儲宮の事を語ったが、大臣の多くも東宮は守成の令主だと言い、上の意はかなり解けた。
- ある日、上と后が便殿に出ると、東宮の妃・張氏が自ら厨に立って上の膳を用意し、恭謹だった。上は大いに喜んで「新婦は賢い。他日、我が家の事は多くこれに頼るだろう」と言った。これより儲位を易える意はなくなった。
- しかし高煦は時に東宮の事を悪しざまに仕立てて上聞に達させた。かつて解縉が儲位を易える語を漏らしたと讒言し、縉は交趾に貶され、さらに讒言して逮捕され獄中で死んだ。
- 十二年三月、上が北征から還るとき、東宮が使者を遣わして迎えたのが遅れた。高煦は日夜、嫡を奪うことを謀り、さらに流言を作って監国を動揺させ、あわせて黄淮らを中傷した。かくて淮らが表を奉じて不敬であったとして逮捕され獄に下された。
永楽十三年〜十五年(1415年〜1417年)— 楽安への移封
- 十三年三月、趙王・高燧の封国を彰徳に、漢王・高煦を青州に改めた。当時、高煦は常に左右に侍りたいと奏して国へ行こうとしなかった。
- 上は改めて勅を賜った。「既に藩封を受けた以上、どうして常に側に侍っていられようか。先に雲南に封じたら遠いのを憚って行かなかった。青州を与えたのに、今また事にかこつけている。もし本当に心から留まって侍りたいなら、去年ここにいたとき、なぜ南へ帰ろうとしたのか。あのとき朕はお前の長子を留めたかったが、それも留められなかった。侍りたいという言葉はどうやら実意ではない。青州の命は二度と辞せぬ」。
- 十四年九月、漢王・高煦が各衛の壮健で武芸に長けた軍士を選んで随侍させたので、都督僉事の欧陽青にすべて元の伍に戻させ、留めることを許さなかった。
- 十五年三月、漢王・高煦に罪があり、山東の楽安州に居らせた。
- 高煦の行いは不法で、上はその長史の程棕、紀善の周巽らが匡正できなかったとしてみな交趾に斥けて吏とした。それでも高煦は改めなかった。府中に私に募った軍士三千余人がいて兵部の籍に属さず、衛士を京城の内外に放って劫掠させ、罪なき人を支解して江に投じ、兵馬指揮の徐野驢を殺し、僭して乗輿の器物を用いた。
- 上はかなりこれを聞き、南京に還って蹇義に問うたが、義はあえて答えず、知らぬと固辞した。また楊士奇に問うと、士奇は答えた。
- 「漢王は初め雲南に封じられて行こうとせず、青州に改められてもまた堅く行きませんでした。今、朝廷が北京へ遷都しようとしていると知って、ただ南京の留守を望んでおります。その心は路上の人でも分かります。ただ陛下が早く善く処置され、定まった居所を得させて父子の恩を全うし、永世の利を遺されますよう」。上は黙した。
- 数日後、上はさらに高煦が私に兵器を造り、ひそかに死士を養い、亡命者を招き納れ、皮を漆して船とし水戦を教習しているといった事実を得た。上は大いに怒り、召して面と向かって詰り、その衣冠を剝いで西華門の内に繋いだ。皇太子が力を尽くして救い、ようやく免れた。
- 上は厲声で言った。「私はお前のために計り、大事はやむを得ず割いてきた。お前は虎を養って自ら患いを招こうというのか。今、両護衛を削り、山東の楽安州に置く。北京から甚だ近く、変を聞けば朝に発って夕には擒にできる」。
- 楽安に至ると、怨望と異謀はいよいよ熾んになった。太子はたびたび書で戒めたが、ついに改めなかった。
永楽二十二年〜洪熙元年(1424年〜1425年)— 瞻圻の告発と即位前の陰謀
- 二十二年、成祖が崩じ、仁宗が即位した。八月己丑、漢王・高煦を京に召し、九月甲申、漢王・高煦が京に至った。
- 洪熙元年夏四月、漢王・高煦の子・瞻圻を鳳陽に遣わして陵を守らせた。
- 文皇の北征と崩御のとき、高煦の子・瞻圻は北京にいて、朝廷の事はことごとくひそかに人を遣わして馳せ報じ、一昼夜に六、七回に及んだ。高煦も日ごとに数十人を京師に遣わしてひそかにうかがわせ、変があるのを幸いとした。上はもとよりこれを知っていたが、かえっていよいよ厚遇し、歳禄を倍加し、賜与は万を数えた。
- 先に瞻圻は父が自分の母を殺したのを恨み、たびたび父の過悪を暴いた。文皇は「お前たち父子は何と忍びないことか」と言った。
- ここに至って高煦は瞻圻が前後に偵察して報じた中朝の事をすべて上に示し、さらに「廷議では旦夕に兵を廃し楽安を取ることになっている」と言った。上は瞻圻を召して示し、「お前は父子兄弟の間にあって、讒構がここまで至るのか。幼い子は誅するに足りぬ」と言い、鳳陽に遣わして皇陵を守らせた。
- 五月辛巳、仁宗が崩じた。六月、太子が南京から奔喪した。高煦は伏兵を置いて路上で邀えることを謀ったが、慌ただしくて果たさなかった。庚戌、太子が即位し、明年を宣徳元年と改めた。
- 七月、高煦が国を利し民を安んずる四事を陳奏した。上は侍臣を顧みて言った。「永楽年間、皇祖は常に皇考および朕に諭して『この叔父には異心がある。備えるべきだ』と言われた。しかし皇考は極めて厚く待遇された。今日、言うところが果たして誠から出たものなら、旧心は既に改まったのであり、順い従わぬわけにはいかぬ」。有司に施行を命じ、なお返書して謝した。
宣徳元年 春正月〜八月(1426年)— 高煦の反乱
- 春正月、漢王・高煦が人を遣わして元宵の灯を献じた。ある者が上に言った。「漢府が遣わす者の多くは朝廷の事を窺うためで、特に進献を名としているだけです」。上は「私はただ誠を推して待遇するのみ」と言い、返書して謝した。
- 秋八月、北京で地震があり、漢王・高煦が叛いた。
- もともと高煦は楽安に就国して以来、反謀を一日も忘れなかった。仁宗が崩じ、帝が即位すると、高煦への賜与は他府に比べてとりわけ厚かった。高煦は日ごとに要求し、朝政に口を出した。上は曲げてその意に従い、駱駝を求めれば四十頭、馬を求めれば百二十匹、袍服を求めればまた与えた。高煦はいよいよ恣にした。
- 八月壬戌朔、ついに叛いた。枚青をひそかに京に遣わし、英国公の張輔と内応を約させた。輔は夜のうちに青を繋いで朝に報じた。
- また山東都指揮の靳栄らと済南で叛いて呼応することを約し、また弓兵の旗を散らして真定の諸衛所に令し、周辺の郡県の畜馬をすべて奪った。五軍都督府を立て、指揮の王斌に前軍、韋違に左軍、千戸の盛堅に右軍、知州の朱烜に後軍を領させ、諸子の瞻垐・瞻域・瞻埣・瞻墿に各々一軍を監させ、高煦が中軍を率い、世子の瞻垣が居守し、指揮の韋賢・韋興、千戸の王玉・李智に四哨を領させた。部署が定まると、偽って王斌・朱烜らに大帥・都督などの官を授けた。
- 御史の李濬は楽安の人で、家を棄てて姓名を変え、間道から京に至って変を上告した。「高煦は日を刻んで済南を取り、しかるのち兵を率いて闕を犯そうとしています」。濬を行在左僉都御史に昇進させた。
- 中官の侯太を遣わして高煦に書を賜った。「先日、枚青が来て、叔父上が朝廷を督責しておられると申しました。子(私)はまことに信じません。皇考の至親は、ただ二人の叔父だけ。子が頼るのもただ二人の叔父だけです。小人が離間するので、中心の懇ろな思いを敷き露わにせずにはおれません。しかも噂が伝播して驚き疑いを招き、あるいは隙に乗じてひそかに事を起こす者があるかもしれず、略ぼ備えを為さずにはおれません。ただ叔父上、これを鑑みられますよう」。
- 太が楽安に至ると、高煦は兵を陳ねて会い、傲慢に構えて拝さず、勅を南向きに座らせて自分は跪き、大言した。
- 「私が朝廷に何の負い目があるか。靖難の戦いで私が死力を尽くさなければ、燕が燕たりえたかどうか分からぬ。太宗は讒を信じて我が護衛を削り、我を楽安に徙した。仁宗はただ金帛で私を釣った。今また祖宗の故事などと言う。私がどうして鬱々として動かずにおれようか。お前は営を巡って漢の士馬を見よ。天下に威を張れぬはずがあろうか。速やかに上に報せ、奸臣を縛って来い。それからゆっくり我が望みを議する」。
- 太は恐れて唯々として帰った。上が「高煦は何と言ったか」と問うと、太は「何も申しませんでした」と答えた。上は「太には二心がある」と言った。やがて太に従っていた錦衣の官が見たところを詳しく述べ、上は大いに怒った。太に「事が定まったら必ずお前を治める」と言った。
宣徳元年 八月(1426年)— 親征の決断
- この月丁卯、高煦は百戸の陳剛を遣わして疏を進めた。「仁宗は洪武・永楽の旧制に違い、文臣に誥勅と封贈を与えました。今上は南巡・席殿などを修理されました。これらは朝廷の罪過です」。さらに二、三の大臣、夏原吉らを奸佞と斥けて誅殺を要求した。また公侯・大臣に書を送り、驕った言葉で巧みに詆り、乗輿を汚した。
- 上は嘆じた。「高煦は果たして叛いた」。陽武侯に兵を率いて高煦を討たせることを議した。大学士の楊栄が力を尽くして不可を説き、「皇上は李景隆の事を見られませんでしたか」と言った。上は黙して原吉を顧みた。
- 原吉は言った。「往事は鑑とすべく、失うべきではありません。臣は煦が将に命じたとき顔色を変え、退いて臣らに語って泣いたのを見ております。何もできぬと知れます。しかも兵は神速を貴びます。甲を巻き戈を包んで赴き、一鼓で平らげるべきです。いわゆる『先声は人の心を奪う』です。もし将に命じて師を出せば、済らぬ恐れがあります」。
- 楊栄の言も同じで、上の意はついに決した。直ちに張輔を召して親征を諭した。輔は「高煦は猛悍だが謀に乏しく、外は剛強に見えて内は臆病です。今、擁するのは戦える者ではありません。臣に兵二万を貸し与えられれば、逆賊を擒にして闕下に献じます」と答えた。
- 上は「卿はまことに賊を平らげるに足りる。しかし朕は即位したばかりで、小人が二心を抱くかもしれぬ。行くと決めた」と言い、楽安の奸諜を大捜索させた。
- 乙丑、勅して指揮の黄謙を総兵の平江伯・陳瑄とともに淮安を防守させ、賊を南へ走らせぬようにし、指揮の芮勲に居庸関を守らせ、法司に軍旗と刑徒をすべて解いて従軍させた。
- 戊辰、定国公の徐永昌と彭城伯の張昶に皇城を、安郷侯の張安、広寧伯の劉瑞、忻城伯の張栄、建平伯の高遠に京師を守らせた。
- 己巳、豊城伯の李賢、侍郎の郭璡・郭敬・李昶に軍餉を督させ、鄭王・瞻埈と襄王・瞻墡に北京を留守させ、広平侯の袁容、武安侯の鄭京、都督の張昇・山雲、尚書の黄淮・黄福・李友直に協力して守らせ、少師の蹇義、少傅の楊士奇、少保の夏原吉、太子少傅の楊栄、太子少保の呉中、尚書の胡濙・張本、通政使の顧佐に扈従させ、陽武侯の薛禄、清平伯の呉成を先鋒とした。
- 辛未、高煦の罪を天地・宗廟・社稷・山川・百神に告げ、そのまま親征した。京師を発して大営五軍の将士を率いて行くと、東南の天が鳴って万の鼓のような音がした。
宣徳元年 八月(1426年)— 樂安への進軍と勝利
- 癸酉、駕が楊村を過ぎたとき、馬上で従臣に問うた。「試みに高煦の計はどう出ると思うか」。ある者は「楽安は城が小さく、彼は必ずまず済南を取って巣窟とします」と答え、ある者は「彼はかつて南京を離れようとしませんでした。今、必ず兵を率いて南へ行きます」と答えた。
- 上は言った。「そうではない。済南は近いが攻めやすくはなく、大軍の到来を聞けば攻める暇もない。護軍の家は楽安にあり、これを棄てて南京へ走ろうとはしない。高煦は外は誇大な言が多いが内実は怯懦で、事に臨めば狐疑して転々として決断できない。今あえて叛いたのは、朕が年若く新たに立って衆心がまだ附かぬのを軽んじたのと、朕が親征できず将を遣わすだろうと思い、甘言と厚利で誘って事を成せると幸ったからだ。今、朕が行くと聞いて既に胆を落としている。あえて出て戦えようか。着けば直ちに擒にできる」。
- 戊寅、楽安から帰順した者を得て、いよいよ賊中の虚実が分かった。「賊は初め靳栄と済南を取ることを約しましたが、山東の布政・按察の二司の官が察知して栄を防ぎ、発せませんでした。また大軍の到来を聞いてあえて出ません。朱烜は精兵を率いて南京を取るべきだ、南京を得れば大事は成ると力説しましたが、衆は従わず『南人は家を謀るだけだ。我らをどうできようか』と言いました」。また「高煦は初め陽武侯らが兵を率いると聞いて腕をまくって喜び、『これは与しやすい』と言いましたが、親征と聞いて初めて恐れました」と言った。
- そこで帰順した者に官を授け厚く賞し、高札を給して楽安に帰らせて衆に諭させた。
- 上はさらに書で高煦に諭した。
- 「人は王が叛いたと言うが、朕は初め信じなかった。王の奏を得て、王の志が生霊に禍し宗社を危うくするものと知った。朕が師を興して罪を問うのはやむを得ぬからだ。王は太宗皇帝の子、仁宗皇帝の弟。朕は位を嗣いで以来、叔父の礼で事えて少しも欠くところがない。なぜ叛くのか。 朕は思うに、張敖が国を失った本は貫高にあり、淮南が誅を受けたのは伍被によって成った。古来、小人が藩国に仕えるとき、それに因って身を富貴にしようと図り、その主を不義に陥れる。事が成らねば主に噛みついて一時の安を図る。こういう者は多い。 今、六師が境に迫っている。王が禍を悔いて、謀を倡えた者を擒にして献ずれば、朕は王とともに前の過ちを削除し、恩礼は元のままとする。これが善の善なるものだ。 王がもし執迷して、兵を出して敵を拒み、あるいは城に籠って固守し、万に一つを僥倖しようとするなら、大軍を率いて乗じ、一戦で擒にする。あるいは麾下が王を奇貨として捕らえて献じてくるかもしれぬ。王はどの面目で朕に会うのか。保全しようとしてもできなくなる。王が禍を福に転ずるのは手を返す間のことである。よく図られよ」。
- 上の英邁・神武の語気は明快で壮んで、六軍の気は盛んになり、龍旗と鉦鼓は千里に絶えなかった。
- 庚辰、薛禄が馳せ奏した。「前鋒は楽安に至り、明日の出戦を約しました」。上は大軍に車座で食事をさせ、強行軍させた。文臣は慎重を請い、武臣は「林や藪に伏兵があるかもしれません。百里を利に趨るのはいけません」と言った。
- 上は言った。「兵は神速を貴ぶ。私が城下に至って営すれば、彼は落とし穴の中の虎で爪牙をどう使えようか。大軍が至れば烏合の衆はまさに動揺する。伏を設ける暇があるか」。そのまま進み、夜半に陽信に至った。当時、慶雲・陽信の吏民はみな楽安城に入っており、来朝する者はなかった。
- 辛巳、楽安城の北に駐蹕した。城中には黒気が暗く垂れ込めていた。大軍がその四門を壁で囲むと、賊は城に登って砲を放った。大軍が神機銃と箭を発すると音は雷のように震え、城中の人は脚を震わせた。
- 諸将が直ちに城を攻めることを請うたが上は許さず、勅して高煦に諭したが返答はなかった。さらに勅を送って諭した。「先の勅で諭は尽くした。朕は二度言わぬ。よく図られよ」。また勅を矢に結んで城中に射込み、逆に加担する者に禍福を諭した。かくて城中の人の多くが高煦を捕らえて献じたがった。
- 高煦は狼狽して拠り所を失い、ひそかに人を御幕に遣わして「寛くお許しを。今夕、妻子と別れ、明朝、出て罪に帰します」と陳奏し、上は許した。
- その夜、高煦は積年に造った兵器と、およそ謀議や交通の文書をすべて取り出して焼き払った。城中は一晩中、火の光が天を照らした。
- 壬午、楽安城の南に移蹕した。高煦が出ようとすると王斌らが固く止めた。「むしろ一戦して死ぬべきです。擒になっては辱めです」。高煦は「城は小さい」と言って斌らを欺き、宮に戻り、ひそかに間道から白衣で藁の席を負って出て上に会い、頓首して自ら陳べた。
- 群臣は列ねてその罪を奏し、典刑に正すことを請うた。上は「彼はもとより不義だが、祖訓には親藩を待遇する成法がある」と言った。群臣がさらに「春秋の大義、親を滅す」と言うと、上は却け、群臣の弾劾章を煦に示した。煦は頓首して「臣の罪は万死に値します。生殺はただ陛下の命のままに」と言った。
- 上は煦に書を作らせて諸子を召し、ともに京師へ帰らせ、罪は謀を倡えた数人に止め、城中の脅されて従った者を赦した。そこで王斌らを捕らえて錦衣獄に下した。
- 癸未、薛禄に楽安を鎮撫させ、楽安を武定と改めた。乙酉、班師し、中官に高煦父子の頸を繋がせて北京へ赴かせ、錦衣衛に王斌・朱烜・盛堅、典仗の侯海、長史の銭巽、教授の銭常、百戸の井授らを枷をはめて連れ帰らせた。
宣徳元年 八月〜九月(1426年)— 趙王への疑いと楊士奇の弁護
- 庚寅、献県の単橋に駐蹕した。戸部尚書の陳山が駕を迎え、上に言った。「勝ちに乗じて師を彰徳へ移し、趙王を襲って捕らえれば、朝廷は永く安らぎます」。
- 上は楊栄を召して山の言を諭した。栄は「山の言は国の大計です」と答えた。そこで蹇義と夏原吉を召して諭すと、二人はあえて異議を唱えなかった。
- 栄は「まず勅を趙王に遣わして高煦との連謀の罪を詰り、六師が突然至れば擒にできます」と言い、従われた。栄はそこで旨を伝えて楊士奇に詔を草させた。
- 士奇は言った。「事には必ず実がなければなりません。天地鬼神をどうして欺けましょう。しかも勅旨は何を辞とされるのですか」。
- 栄は厲声で「これは国家の大事だ。どうして阻めようか。錦衣衛に、繋いだ漢府の者から『趙と連謀した』という供述を取らせれば、それが事の因となる。辞に事欠くことがあろうか」と言った。士奇は「錦衣衛が取った供述で、どうして人心を服せましょう」と言った。
- 士奇はそこで蹇義と夏原吉に会いに行った。義は「上の意は既に定まり、衆の意も定まった。公にどうして中途で阻めようか」と言った。原吉は「万一、上が公の言に従い、今、行わず、趙王に後日、永楽年間の孟指揮の挙のような変があったら、誰がその咎を負うのか」と言った。
- 士奇は言った。「今の時勢は永楽年間とは違います。永楽年間、趙は三護衛を擁していましたが、今は既に二つを削られています。しかも昔、孟指揮のなしたことに王は実は与り知らなかった。そうでなければ、趙王がどうして今日まで生きておりましょう」。
- 義が「では公の言のとおりとして、今どうするのか」と言うと、士奇は「今の計としては、朝廷が尊属を重んじて厚く待遇し、疑いがあれば厳しく防ぐ。それでも必ず虞いはなく、国体としても正しいのです」と言った。
- 義と原吉は「公の言はもとより当たっている。しかし上はもっぱら楊栄の言を信じておられ、我ら二人の可否によらぬ」と言った。
- 士奇は退いて栄に言った。「太宗皇帝にはただ三人の子がおられた。今上の親しい叔父は二人、一人に罪があっても恕せぬなら、罪なき者は厚遇すべきです。そうしてこそ皇祖の在天の霊を慰められましょう」。栄は肯んじなかった。
- 当時、楊溥も士奇と意を同じくし、「我ら二人が入見を請えば、兵は必ず移させぬ」と言った。栄は溥の言を聞くとすぐ趨って入見し、溥と士奇も後を追ったが、門番が二人を止めて入れなかった。既に旨があって蹇義と夏原吉が召され、義が士奇の言を上に白した。上は不快だったが、それ以上、移兵を言わなくなった。車駕はそのまま京に還った。
宣徳元年 九月(1426年)— 論罪と趙王の保全
- 九月、帝は京師に還って奉天門に出た。高煦父子とその家属はみな京師に至った。工部に西安門の内に館室を築かせて高煦夫婦と男女を住まわせ、その飲食・衣服の供給はすべて旧のまま改めなかった。
- 上は御製の『東征記』を出して群臣に示した。およそ高煦の罪、および朝廷がやむを得ず兵を用いた理由をみな詳しく書いてあった。
- 逆党の王斌・朱烜らは誅に伏し、同謀で誅に伏した者は六百四十余人、故意に見逃したり匿ったりして死罪・辺境戍役となった者は千五百余人、口外に流された者は七百二十七人。ただ長史の李黙だけが免れた。
- 上は京に至って初めて楊士奇の言を思い、二度と彰徳の事に及ばなかった。しかし言う者はなお喋々として趙の護衛をすべて削ることを請い、あわせて趙王を京師に拘留することを請うたが、上はいずれも聴かなかった。
- そこで士奇を召して諭した。「言う者が趙王を論ずることがいよいよ多い。どうするか」。士奇は「今日の宗室では趙王が最も親しい方です。保全することを思われ、群言に惑わされませぬよう」と答えた。
- 上は言った。「朕もそれを思っている。皇考は趙王を最も友愛された。しかも朕には今、叔父が一人しかいない。どうして愛さずにおれよう。だが保全する道を思わねばならぬ」。
- そこで群臣の言章を封じ、駙馬都尉・広平侯の袁容、左都御史の劉観に持たせて示し、自ら処するようにさせた。士奇は「さらに璽書で親しく諭されればいっそうよろしい」と言い、上は従った。
- 容らが至ると趙王は大いに喜んで「私は生きた」と言い、直ちに護衛を献じ、あわせて表を上って謝恩し、言う者もようやく息んだ。
宣徳年間(1426年以降)— 高煦の死
- 漢庶人・高煦は内の逍遥城に鎖で繋がれていた。ある日、帝が行ってじっと久しく見ていた。庶人は不意に一足を伸ばして上を引っ掛けて地に倒した。上は大いに怒り、急ぎ力士に銅の缸(大甕)を担いで来させて覆わせた。缸の重さは三百斤だったが、庶人は力があって頭で缸を背負って起き上がった。炭を缸の上に山のように積んで火を点けると、しばらくして火が熾んになり銅が鎔け、庶人は死んだ。諸子もみな死んだ。
史論(谷応泰曰)
- 高煦は文皇の第二子で、力が強く騎射をよくした。燕藩が兵を起こすと鋒を摧き敵を陥れ、従軍して功があった。
- 仁宗が青宮にあった頃、性は仁柔、体は肥って足は弱かった。高煦は軽んじて取って代われると考え、かくてひそかに長を奪うことを謀り、流言で危うくし、私に兵器を造り、ひそかに死士を養い、東宮の官属を中傷し、自らを天策上将に比した。駙馬の王寧、淇国公の丘福もまた官府で交通してひそかに擁立を図った。
- もし居守の功が高く、嫡長の分が定まり、しかも張妃が厨に立ち、ひそかな教えがよく修まっていなければ、成師(曲沃桓叔)に子と名づけたようなこと、如意の類のように、文皇の意も終わりを全うできたか分からない。
- しかし高煦は桀驁不臣にすぎず、深い図りごとや遠い謀があったわけではない。ただ成祖がその猛鷙を喜び、昭帝(仁宗)が曲げて友愛を加えたので、父兄に驕り、寵を恃んで奸をほしいままにした。雲南に封じられれば怒って行かず、青州に封じられれば事にかこつけて行かず、罪なき者を支解し、僭して乗輿を用いた。逆節の萌したのには由来がある。
- しかし高煦の謀は、湘東王が檀を刻んだような狡さがない。高煦の才は、曹植が自ら試みたような敏さがない。地は楽安に過ぎず、呉楚七国のような強さがない。人は王斌・朱烜に過ぎず、貫高・伍被のような佐けがない。
- それが宣宗の即位したばかりのその年若さを軽んじ、兵を陳ねて踞坐し、朝廷の罪を鳴らした。幸い神機は内から断じ、自ら六師を督された。高煦は先に済南を争わず、河北を蹂躙もせず、孤城を守り困って身を束ねて縛についた。まさに「外は誇大な言が多く、内実は怯懦」であり、宣宗の敵を計るのはまことに神算であった。
- 陳山が駕を迎えて趙藩を襲うことを請い、楊栄が旨に迎合して大計を賛決した。楊士奇の一言によってようやく親を親しむことが保たれ、護衛を献じ返させるにとどまった。
- 昔、袁盎は淮南王を恤むことを勧め、田叔は梁の獄の供述を焼いた。たとえ罪状が明らかであっても曲げて恩紀を全うすべきである。まして斉王が後悔して約に背き城を守り、馬攸の徳望は挙朝が知っていた。どうして金吾の一片の紙を借りて叔父を殺した名を負わせられようか。
- のち逍遥城で高煦は鎖に繋がれた。檻の中の猿は牢く縛られぬことがなく、虎は厳しく繋がれぬことがない。それが突然、一足を伸ばして上を引っ掛けて倒した。そのために銅の缸に炭を燃やされ、身も首も灰となった。彼にまことに、閽人が呉王を戕った智、筑で秦の廷を撃った智があったのか。要するに桀驁不臣が、まさにその身を殺しただけである。
- とはいえ、高煦の後にも寘鐇・宸濠と叛く者が相次いだ。前車の鑑が天の誅をもってしても懾すに足りぬのか。それとも靖難の風が家法として遺されたのか。漢庶人の変を観て、蜾蠃が我に類すると嘆ずるところである。