明史紀事本末秦・晋を攻め定める(畧定秦晉)

元の大都を落とした明が、洪武元年(1368年)から洪武二年(1369年)までの二年で山西(晋)と陝西(秦)を平定するまでを扱う。大将軍・徐達、副将軍の常遇春・馮宗異らが潼関から山西に入り、夜襲でココ・テムルを太原に破って北へ追い、続いて奉元路(西安)・鳳翔を取って李思斉を臨洮で降した。偽って降った張良臣が慶陽で叛くと徐達は四面から囲んでこれを斬り、李文忠は大同を救ってトゥルブを生け捕った。元主は回復の望みを絶ち、秦晋二地は明の版図に帰した。

年表(13件)

洪武元年 五月(1368年)— 潼関の攻略

  • 元将の李思斉と張良弼は、王師が河南を下したと聞いて潼関に駐兵して拒んだ。まもなく火が良弼の営を焼き、思斉は軍を移して葫蘆灘に退いて守り、部将の張徳欽・穆薛飛に関を守らせた。
  • 五月、都督同知の馮宗異が潼関に至ると、思斉は輜重を棄てて鳳翔へ走り、良弼は麟城へ奔った。丙寅、宗異は潼関に入り、兵を率いて西の華州に至ると、元の守将は風を望んで潰走した。
  • 先に宗異が陝州を下したとき、太祖は使者を送って諭していた。「潼関を克ったら急いで勝ちに乗じて西へ行くな。今、大将軍は北方に事を構えている。将を選んで関を守らせ、その援兵を遮り、お前はひとまず師を率いて汴梁へ戻れ」。
  • 五月庚午、徐達は僉事の郭興に慶陽衛指揮の于光、威武衛指揮の金興旺を率いさせて潼関を守らせた。丙子、宗異は軍を返して陝州に至り、徐達とともに河南に帰った。

洪武元年 八月〜十一月(1368年)— 山西攻略の開始

  • 八月、元都を定めた大将軍・徐達と副将軍・常遇春は、命を受けて師を率いて山西を取ることになった。副将軍の馮宗異、偏将軍の湯和、平章の楊璟がいずれも徐達の征討に従った。
  • 九月乙丑、副将軍の常遇春らが保定を下し、指揮の李傑を留めて守らせた。丁卯、中山を下し、指揮の董勲に守らせ、そのまま真定へ向かうと、元の守将・孫平章は城を棄てて逃げた。
  • 十月戊辰、大将軍・徐達は広武衛鎮撫の劉聚に河間を守らせ、あわせて府の事を領させた。副将軍の馮宗異と偏将軍の湯和は河南から黄河を渡って武陟を克ち、懐慶を下すと、元の平章・白索珠は城を棄てて逃げた。
  • 兵が太行山の碗子城に至ってその関を破ると元兵は潰走した。進んで沢州を取ると、元の平章・賀宗哲は城を棄てて逃げた。磨盤寨を破って参政の兪仁を捕らえて誅し、進んで潞州を克った。兵を分けて雄州を克ち、鎮撫の程信に守らせた。
  • 十一月癸丑、徐達が趙州を克ち、参随の王成に守らせた。右丞の薛顕がトクト・テムルを石州で破った。ココ・テムルが将のハジャルを送って沢州を攻めさせ、楊璟と張彬が救援に向かったが、韓店で元兵に遭って大戦し、不利となった。

洪武元年 十二月(1368年)— ココ・テムルの来歴と太原の戦い

  • 十二月、大将軍・徐達が諸軍を率いて太原を取り、ココ・テムルは敗走した。
  • ココ・テムルはチャガン・テムルの甥である。先にチャガンは羅山の人・李思斉とともに挙兵して賊を撃ち、元はチャガンに汝寧ダルガチを授けた。チャガンが死ぬと詔してココに父の兵を率いさせ、河南王に封じ、李思斉もその節制下に置いた。
  • だが思斉は自分が父の世代だと考え、他の将の張良弼・孔興・トゥルブらもみな独立を望んだ。思斉は盩厔に拠り、良弼は麻台に拠った。ココは関保・珪琳斉を送って麻台を攻めさせ、李思斉・孔興・トゥルブはみな良弼と結んだ。
  • 元がたびたびココに出師を促すと、ココは弟のトイン・テムルと部将のオンジャル・モガイを山東へ遣わし、自らは思斉・良弼と一年余り攻め合った。元が詔を下して和解させようとすると、ココは詔使を殺して命を拒み、兵を送って太原を占拠した。
  • 元の太子は関保・思斉・良弼の諸軍と合して沢州を挟撃し、さらにココの爵邑を削奪して思斉らに誅させた。ココは平陽に退いて守り、関保は沢州・潞州の二州に拠ってモガイと合戦した。だが明兵が既に河南に及んだので、思斉と良弼は自らココのもとへ赴いて和を結び、兵を解いて西へ帰った。ココはモガイ・関保と戦って捕らえ、上疏して罪を陳べた。元はココ・テムルを赦してその官を復し、出兵して明を防がせた。
  • 右丞のイスに山東へ、トゥルに潼関へ、李思斉に七盤・金商へ向かわせ、汴梁回復を図らせた。だが大将軍は既に通州に至って北平に入り、順帝は夜に建徳門を開いて北へ走った。なおココに命じて兵を率いて雁門関を出、保安州から居庸関を経て北平を攻めさせた。
  • 達はこれを聞いて諸将に言った。「王保保が師を率いて遠く出れば太原は必ず手薄だ。北平は孫都督が六衛の師を総べており鎮守に足りる。私は諸君とその不備に乗じて太原を直撃し、その巣穴を覆す。彼は進んでも戦えず、退いても拠り所がない。兵法にいう『喉元を押さえ虚を衝く』である。もし軍を返して太原を救えば、既に我らに牽制されて進退に利を失い、必ず擒となる」。
  • そのまま兵を率いて直進した。ココは保安州に至ってこれを聞き、果たして軍を返した。前鋒の万騎が突然現れたが、傅友徳と薛顕が決死の士数十騎で撃退した。ココは城の西に軍を置き、明軍に迫って陣を敷いた。
  • 指揮の郭英が高みから望んで常遇春に言った。「彼は兵が多いが整っておらず、営が大きいが備えがない。夜襲を請います」。遇春はその計をよしとして徐達に謀った。「我らの騎兵は集まったが歩兵がまだ来ていない。どうして戦えよう。精騎を遣わして夜にその営を襲うに越したことはない。その衆は乱れ、乱れれば主将を縛れる」。
  • 折しもココの部将フビ・マルがひそかに人を送って降伏を約し、内応を申し出た。達は大喜びして夜に襲うことにした。まず五十騎を城の東十里に伏せ、火を挙げ砲を鳴らすのを合図とした。
  • 夜、郭英が十余騎を率いてひそかにその営に入り、火を挙げ砲を鳴らすと伏兵が応じ、遇春らの兵が大挙して至り、鬨の声が響き渡った。敵軍は大潰して互いに踏み合った。
  • ココはちょうど燭を燃やして帳中に坐し、二人の童子に書を持たせて侍らせていたが、慌てて逃げ場が分からず、急いで靴を履こうとして片足が裸足のまま帳の後ろから出、鞍のない馬を得て十八騎とともに逃げ去った。
  • 達らは兵を整えて城西に営を進め、フビ・マルが将校を率いて降り、兵四万人・馬四万余匹を得た。ココは大同へ奔り、遇春が兵を率いて忻州まで追ったが追いつかなかった。行人の汪河を取り戻した。ココは甘粛へ走った。

洪武元年 十二月(1368年)— 山西諸州の攻略

  • 庚午、徐達は傅友徳・薛顕に歩騎を率いさせて賀宗哲を石州で迎え撃たせ、破った。戴復初に霍州、丁玉明に忻州、蔣応宗に崞州の政務を代行させ、翁子奇に大石を守らせた。
  • 副将軍の馮宗異は西の猗氏に至って元の右丞・賈成を捕らえた。甲戌、平陽に進攻して元の右丞・李茂を捕らえて下した。参政の陸聚が兵を率いて車子寨および鳳山・成山・帖山の三寨を攻めて降し、さらに故関山寨・承天寨を取った。宗異は絳州に進攻して克ち、元の右丞・田保、徐伯昌を捕らえ、将士五百人を獲た。陽曲・盤闢勒など十寨の頭目が、それぞれ衆を率いて大将軍・徐達の営に来て降った。

洪武二年 春正月(1369年)— 大同の攻略と将帥の序列

  • 北平・燕南・山東・山西・河東・河南・潼関・唐州・鄧州・光州・恩州などの税糧を免ずる詔を下した。
  • 甲寅、副将軍の常遇春が師を率いて大同を攻めた。庚申、兵が大同に至ると元の守将ジュジャンは城を棄てて逃げ、知院の于陳ら八十余人を捕らえた。
  • 参政の傅友徳が兵を率いて朔州に屯し、右丞の薛顕が潞州の桃花寨を攻め下した。大将軍・徐達は参政の陸聚に兵を分けて井陘・散関を守らせ、聚は承天寨に進攻して克った。
  • 癸亥、使者に勅を持たせて山西の諸将に諭させた。「近ごろ大夫の湯和が浙左を定め閩中を平らげ、平章の楊璟が湖湘を靖め広西を定めて凱旋したが、まだ賞を定めていない。大将軍らが元を滅ぼしてまだ帰らぬからである。そこで諸偏将を大将軍の征進に従わせる。 楊璟の兵は沢州・潞州に出て中途で賊と対峙し、算に欠けて軍を疲らせたが、これも兵家の常である。しかも太原はこれで犄角の勢を得て敵の勢いを分けられた。今、左副将軍の馮宗異を遇春の下、偏将軍の湯和を宗異の下、偏将軍の楊璟を湯和の下と定める。心を合わせ力を協せて残る賊を剪り除け」。

洪武二年 二月〜三月(1369年)— 奉元路(西安)の攻略

  • 二月、大将軍・徐達の師が河中に至り、副将軍の常遇春と馮宗異が先に黄河を渡って陝西へ向かった。
  • 三月乙未、元の鄜城守将・副枢の施成が軍門に来て降り、徐達はそのまま成に守らせた。
  • 庚子、徐達の師が鹿台に至り、そのまま奉元路に入った。先に李思斉は鳳翔に拠り、副将の欽穆薛飛らが関中を守り、張思道は孔興・トゥルブ・金牌張・龍済民・李景春らとともに鹿台に駐屯して奉元を守っていた。大軍が関に入ると、思道らは三日前に野口から逃げていた。
  • 達は都督僉事の郭興に軽騎で奉元を衝かせ、自ら大軍を率いて続き、涇水・渭水を渡って三陵坡に至ると、父老千余人が迎えて降った。達は兵を留め置き、左丞の周凱を入城させて撫諭させ、翌日、兵を整えて入城した。
  • 奉元路を西安府と改め、夏徳に府の事を代行させ、耿炳文を留めて守らせた。炳文は長安で涇陽の洪渠の諸堰を十万一千余丈修築し、民は便利を得た。大軍の西征で供給が繁忙を極めたとき、炳文は糧五千石を鞏昌へ輸送し、軍の食糧はそれで足りた。
  • 達の師が鹿台に至ったとき、元の陝西行省平章ハマルトは奉元を棄てて盩厔へ逃げ、民兵に殺された。平章ウルト、西台治書侍御史の王武は逃げ、のち降ったが斬られた。
  • 西台御史のサンゲ・シリは関家洞を守り、達が攻めて勢いが窮まっても屈せず、妻子とともに崖から身を投げて死んだ。左丞の貝沁古は終南山へ逃げ、郎中の王可は毒を仰いで死に、検校のシクブハは自ら縊れて死に、三原尹の朱春も妻とともに崖から身を投げて死んだ。
  • 当時、関中は飢饉で、太祖はこれを聞いて一戸につき米一石を賜り、続いて孟津の倉へ行かせて一戸につき米二石を給し、民は大いに喜んだ。

洪武二年 三月癸卯(1369年)— 鳳翔の攻略と李思斉への書

  • 常遇春・馮宗異らが師を率いて陝西を発し、鳳翔を克った。
  • 先に李思斉が鳳翔へ奔ったとき、太祖は書で諭した。
  • 「先に使者を送って安否を問うたが今に至るまで帰らない。人選を誤って足下の意に逆らって留められたのか、それとも元の使者がちょうど来ていて隠しきれず殺したのか。もしそうなら時勢の常である。大丈夫は磊落であるべきで、小さな遺恨を気にするものではない。 堅甲利兵、深溝高塁で必ず力を尽くして我が軍に抗しようというが、結局どうするつもりか。昔、足下は秦中にあって兵は多く地は険しく、張思道が詐力を専らにし、孔興らが自ら保守し、ココが兵を出没させていたとはいえ、いずれも強敵ではなかった。足下はあの時に秦を図って自ら王とならず、既にこの機を失った。 今、中原はすべて我が有となり、かつて足下と犄角をなしていた者はみな靡いて逃げ隠れた。足下が孤軍で対峙しても、いたずらに命を損なうだけで益はない。厚徳の人がそんなことをするだろうか。 朕は、足下が鳳翔を守れなければ必ず沙漠深くに入って後の挙を図ると知っている。だが我が族類でない者は心が必ず異なる。もし中原から従った衆が、塞地の荒涼さゆえに一朝、肘元で変を起こせば、妻子も保てなくなる。しかも足下はもと汝南の英傑で、祖宗の墳墓がある地だ。深く思い遠く慮って、そこに思い至らぬのか。 まことに信をもって約し、翻然と帰服するなら、漢の竇融の礼をもって報いる。さもなくば朕の知るところではない」。
  • 思斉は書を得て降る意を持ったが、麾下が誘って西の吐蕃へ入ろうとし、思斉は惑わされた。ここに至って大兵が鳳翔に至ると思斉は恐れ、部下を率いて臨洮へ奔った。
  • 参政の傅友徳が鳳州を克ち、指揮の張能に守らせた。

洪武二年 夏四月(1369年)— 臨洮攻略の決断と李思斉の降伏

  • 四月丙寅、大将軍・徐達は諸将を鳳翔に会して進路を議した。諸将はみな、張思道の才は李思斉に及ばず、慶陽は臨洮より易しいとして、まず豳州から慶陽を取り、しかるのち隴西から臨洮を攻めることを望んだ。
  • 達は言った。「そうではない。思道は城が険しく兵も悍く、にわかには抜けまい。臨洮の地は西は番戎に通じ北は河湟に接している。取ればその人は戦闘に足り、その土地の産は軍需に供せる。今、大軍で圧迫すれば、思斉は西の胡へ走らねば手を束ねて縛につく。臨洮を克てば周辺の郡は自ずと下る」。諸将は同意した。
  • 達は御史大夫の湯和を留めて営塁と輜重を守らせ、指揮の金興旺・余思明らに鳳翔を守らせ、師を隴州へ移して克った。まもなく秦州の馬跑泉に至ると、元の守将・呂徳と張義が逃げ、都督僉事の陳徳を遣わして追捕させた。合肥衛千戸の王宏に兵五百で隴州を、張規魯に兵千人で秦州を守らせた。
  • 達が鞏昌に進むと、元の守将・梁子中、汪霊真保らが出て降り、都督僉事の郭興に守らせた。馮宗異に臨洮を攻めさせ、顧時・戴徳に蘭州を攻めさせた。丁丑、顧時らが蘭州を克ち、指揮の韓温に守らせた。
  • 馮宗異の師が臨洮に至ると、李思斉は窮迫して城を挙げて降った。宗異は人を送って徐達の営へ届け、達は指揮の韋正らに守らせた。
  • 臨洮の勝報が届くと、太祖は読み終えてすぐ使者を送って徐達に諭した。「李思斉が降った以上、慶陽・寧夏へ進攻すべきである。張思道兄弟は詐術が多い。もし降ってきたら慎重に処し、その計に落ちるな」。
  • 李思斉が入見すると江西行省左丞に任じたが、任地には赴かせず、京師で禄を食ませた。
  • 己卯、徐達の師が安定州に入り、降将の陳宗聚に州の事を代行させ、青州右衛の官軍を調えて守らせた。会州を克ち、参随の黎宗文に州の事を代行させ、指揮の陳寿に守らせた。乙酉、徐達の師が靖寧州に入り、そのまま隆徳県を下した。

洪武二年 五月(1369年)— 張良臣の偽降と反逆

  • 五月丁酉、大将軍・徐達の師が蕭関に至り、平涼を下した。指揮の朱明が延安を克ち、明に守らせた。
  • 辛丑、元将の張良臣が慶陽をもって降った。先に張思道は慶陽にあって王師の臨洮攻略を聞いて恐れ、寧夏へ走り、弟の張良臣と平章の姚暉に慶陽を守らせた。思道は寧夏に至ると金牌張らとともにココ・テムルに捕らえられた。
  • 徐達は平涼を下すと慶陽奪取を謀り、湯和に兵を涇州へ送らせ、別に指揮の張煥に騎兵で慶陽を偵察させ、人を送って良臣を招いた。良臣は兄が捕らえられているので城を挙げて降った。良臣は驍勇善戦で、軍中では「小平章」と呼ばれていた。
  • 戊申、良臣は再び慶陽に拠って叛いた。降ったとき、良臣は花参政を徐達のもとに遣わして軍民の数を献じ、まもなく知院の李克仁と葛八を遣わして馬の数を献じた。達は右丞の薛顕に騎兵五千を率いさせ、克仁らとともに慶陽へ赴かせた。
  • 良臣が出迎え、道の左に匍匐して低姿勢を装い帰順を示したが、夕暮れに兵で営を襲った。顕らは叛くとは思っておらず衝き崩され、指揮の張煥が捕らえられ、顕は傷を負って逃げ帰った。
  • 達はこれを聞いて諸将に言った。「帝は万里の外を明らかに見ておられた。今日の事は果たして先のお言葉のとおりだ。しかし良臣の叛きは滅亡を招くだけだ。諸公と力を尽くして剪り除こう」。
  • 馮宗異と傅友徳は良臣の反逆を聞いて臨洮から涇州に至り、湯和も部下を率いて合流した。達はその一党が煽動して声援となるのを恐れ、まず兵を送って出入りを遮った。俞通源が精騎で西を、顧時が北を、傅友徳が東を、陳徳が南を攻略した。
  • 達は諸将を率いて慶陽へ向かい、四面からその城を囲んだ。良臣が兵を出して挑戦したが、達は兵を指揮して撃破した。

洪武二年 六月〜七月(1369年)— 慶陽包囲と周辺の攻防

  • 六月辛巳、達は諸軍を督して慶陽を攻めた。張良臣はジュクを寧夏へ遣わして王巴拝に援けを求めたが、捕らえて斬った。参随の王敬祖に兵を率いて彭原を守らせた。
  • 七月甲午、徐達は降将の李茂らに騎兵千人を率いさせて隆徳・秦安などへ遣わし、未帰属の頭目・杜拝ブハ、羅左丞相らを捕らえさせた。
  • 辛亥、王巴拝の部将ハジャルが原州を陥れ、指揮の陳寿が死んだ。徐達は報せを聞いて馮宗異・傅友徳と議し、駅馬関が要衝に当たるとして右丞の徐礼に兵を率いて拠らせ、また指揮の葉石真に彭原を守らせ、指揮の韋正を邠州の守備に回し、傅友徳・薛顕を霊州に駐屯させて扼させた。
  • 宗異はさらに徐達に謀った。「今、大軍が慶陽を囲み、張良臣は困窮しているがすぐには下らない。王巴拝は良臣の声援となろうとしてハジャルに原州を攻めさせ、慶陽を救おうとしています。軍を移して関に迫り原州を扼させてください。そうすれば彼は手が出せません」。達はもっともとし、宗異は軍を率いて西の駅馬関に臨み、慶陽から三十里の地点に軍を置いた。
  • その夜、ハジャルは再び涇州を攻めて陥れ、丁千戸は霊台県に退いて守った。宗異は駅馬関から兵を率いて赴き、ハジャルは逃げた。邠州まで追うとまた逃げ、宜禄へ逃げ去った。宗異は駅馬関に戻って屯した。
  • 八月丙寅、慶陽の小元帥が帰順を謀って張良臣に囚われた。城中で降ろうとする者が夜に小元帥を奪って大将軍の営に来た。達はこれを受け入れ、軍中に降人を虐げぬよう令した。

洪武二年 七月〜八月(1369年)— 常遇春の死と李文忠の大同救援

  • 先に七月己亥、常遇春が帰途、柳河川に宿営したところで病を得て死んだ。太祖は偏将軍の李文忠に代わってその衆を率いさせた。ここに至って文忠に北平から合流して慶陽を攻めるよう詔した。
  • 太原まで来たところで、元将のトゥルブらが大同を激しく攻めていた。文忠は左丞の趙庸らに言った。「私は公らと命を受けて来たが、国境外の事は国に利があれば専断してよい。今、大同が激しく攻められている。指図を待っていては機を失う」。衆は同意した。
  • そこで代州から雁門を出て馬邑に至ると、折しも敵の遊騎数千が突然現れて我が師と遭遇した。戦って破り、その平章・劉テムルを捕らえた。白楊門へ進み、さらに狡猾な賊の四大王を捕らえた。
  • 折しも雪が降り、文忠は伏兵を疑って自ら数騎とともに山に入って偵察した。前軍は既に敵から五十里の地点に営していたが、文忠は着くとすぐ移動させ、さらに五里前進して漫地に営し、水を隔てて拠った。まず間道から大同へ人を送って知らせた。
  • 元将のトゥルブが精鋭を挙げて攻めてきた。文忠は将士に馬に飼葉を与え、車座で食事をさせ、営を閉ざして出なかった。まず二つの営で敵を誘い、死力を尽くして戦わせた。寅の刻から辰の刻まで、前営から報告が何度も来たが文忠は動じなかった。
  • 長く経って敵が飢え疲れたと見計らい、軍を左右の翼に分け、自ら前鋒に立って奮撃して大破した。トゥルブを生け捕り、その衆一万余を降し、馬匹と輜重を多数獲た。
  • トゥルブを縛って軍門に引き出したが、文忠はその縄を解いて共に食事をした。そのまま東勝州へ進軍し、莽果倉まで至って戻った。
  • 先に元主が北のテングリへ走ったとき、トゥルブと孔興に重兵で大同を攻めさせ、回復を図らせていた。ここに至ってトゥルブが捕らえられ、孔興は綏徳へ逃げたがその部将に斬られ、部将は降った。元主は事の成らぬことを知り、二度と南を向かなくなった。
  • トゥルブが京師に至ると、太祖は「彼はそれぞれの主のために働いただけだ」と言って釈放し、冠帯と衣服を賜った。

洪武二年 八月癸未(1369年)— 慶陽の陥落

  • 徐達が慶陽を克った。先に達は諸将を率いて四面から城を囲んだ。張良臣が東門から出て戦うと顧時が撃破し、また西門から出て戦うと馮宗異が防いで追い返した。良臣は城に登って呂徳を呼んで降伏を約そうとしたが、達は聞かなかった。
  • はじめ良臣が叛いたとき、城が険しく城下に井泉があって拠って守れると考えていた。兵は精悍で、養子七人がみな戦上手で、軍中では「金牌張は怖くないが、七条槍は怖い」と言われていた。また兄の思道と王巴拝が声援となり、賀宗哲とハジャルが羽翼、姚暉と葛行が爪牙となっていたので、拒み守って大功を図ろうとしたのである。
  • ところが明の師が城下に営を並べて包囲すると、良臣は思うようにならず、たびたび出撃したがいずれも不利だった。寧夏へ援けを求めに送った者はそのつど捕らえられ、内外の音信が通じなくなった。糧食が絶え、人の汁を煮て泥に混ぜて呑み込むほどになった。
  • 姚暉・熊左丞・胡知院は事の成らぬことを知って門を開いて降った。達は兵を率いて北門から入り、良臣父子はともに井に飛び込んだが引き出されて斬られた。翌日、良臣の一党の柴知院ら二百余人を誅し、都督僉事の陳徳に守らせた。
  • 先に賀宗哲が鳳翔を攻め、あるいは坑道を掘り、あるいは甕城に突入するなど十五日に及んだが、指揮の金興旺と周興が城に籠って固守した。ここに至って慶陽が下ると、宗哲は引き揚げた。
  • 徐達は宗哲が六盤山から逃げたと聞き、顧時・薛顕・傅友徳に万騎で追わせた。宗哲はその衆で蘭州を掠め、達は馮宗異に歩騎一万七千を率いさせて靖寧を通って撃たせた。宗哲はデレスから黄河を渡って逃げ去り、宗異は部下を率いて戻った。
  • 九月、大将軍・徐達と御史大夫の湯和が平涼を発って京師に帰り、右副将軍の馮宗異が軍事を総制した。

洪武二年 十二月(1369年)— 蘭州の防衛

  • 王巴拝は大将軍が南へ帰ったと知り、甘粛から兵で蘭州を襲い、突然城下に迫った。守将の指揮・張温は諸将校を集めて言った。「彼は全軍で我を襲うが、我が兵は寡少で敵しがたい。しかし彼は遠来で我が兵の多寡を知らぬ。日暮れに乗じて撃てば鋒をくじける。彼が退かなければ固守して援けを待つ」。
  • そこで兵を整えて出戦すると巴拝の兵はやや退いた。温は兵を収めて入城し、巴拝は進んで囲んだが、温は堅守して戦わなかった。
  • 鷹揚衛指揮の于光が鞏昌を守っていたが、兵を率いて救援に来て蘭州の馬蘭灘に至り、突然、保保(巴拝)の兵に遭って敗れて捕らえられた。蘭州の城下に引き出され、張将軍に降伏を呼びかけるよう言われたが、光は大声で「私は不幸にして捕らえられた。公らはただ堅守せよ。徐総兵が大軍を率いて来る」と叫んだ。敵は怒ってその頬を打ち、光は殺された。城中はこれを聞いて守りをいよいよ固めた。
  • 夜二更、巴拝が兵で城に登った。千戸の朱祐は酔って起きられなかったが、巡邏の兵が撃退した。温はたびたび方策を巡らせ、敵の油断に乗じてその兵を破った。巴拝は数か月囲んでも利あらず、しかも大軍の到来を聞いて引き揚げた。
  • 温は朱祐を捕らえてその罪を数え、殺そうとした。知事の朱友文が諫めた。「その時に祐を斬って晒すのが、いわゆる軍法に照らすということです。今、賊は既に退きました。誅しても及ばず、いたずらに専殺の罪を負うだけです」。温は杖刑にして釈放した。事が報告されると、温を都督僉事に昇進させ、于光には弔慰を贈った。

史論(谷応泰曰)

  • はじめ太祖の北伐では、まっすぐ青州・済南へ向かったのが正兵で、西で潼関を扼したのが疑兵であった。ゆえに徐中山(徐達)の大軍で敵の胸腹を衝き、馮宗異の孤軍で敵の声援を釘付けにしたのであって、もとより関を仰いで攻め、馬を躍らせて入れとは命じていない。
  • このとき元の将で晋を守っていたのはココ・テムル、秦を守っていたのは李思斉と張思道で、いずれも凡庸な才にすぎない。ココが詔に応じて援けに入り、雁門を出て居庸を経たのはその算が神妙だった。だが太原という根本を国ごと空にして去り、一軍が突然至って巣が覆り穴が傾いた。これが晋の亡んだゆえんである。
  • 李思斉は百に対する二の険を負い、瓴を建てる勢いに拠りながら、甲を巻いて関を出て河南の要路を断たず、かえって関内をうろついて風の音鶴の声に驚いて逃げ、宗異が手を拱いて河西を取り、悠々と華陽に入るのを許した。これが秦の亡んだゆえんである。
  • 仮にココが留守を置くこと曹操が三城を保ったようにし、思斉が関を出ること趙奢が閼与を争ったようにしていたら、明の重兵が深入りしても、雲州・代州が前を圧し、韓・魏が後ろを議し、トクトの権がまだ去らずイスが再来して、安危の機はまだ定まらなかっただろう。
  • ところが徐達・常遇春らの諸将は豫から晋に入り、晋から秦に達した。ココは北平で戦わず晋陽で戦い、思斉は河津で戦わず崤底で戦った。腐った鼠、孤独な雛のように、座して人に縛られただけである。
  • それだけではない。思斉は父の世代だと突っ張り、ココは私怨から兵を挙げ、大敵が前にあるのに二頭の虎が自ら闘った。そのため明兵はまっすぐ河南に入り、たちまち上谷を掃き、そこでようやく甲を解いて西へ帰り、誠を尽くして好を結んだ。卞荘子の刺すのを憂え、廉頗・藺相如の和を講じたのだ。ああ、遅すぎた。
  • 私見では、唐は冀方に起こって天下を統一し、秦は雍州に拠って六国を蚕食した。ところが元末の武臣は座して機を失い、公戦に怯えた。まさに草莽の間で意地を張り、年月を引き延ばして命を保っただけで、真に義に伏し王に勤めるような深謀遠慮があったわけではない。
  • ハジャルの河隍での掠奪、張良臣の慶陽での再叛に対し、明の師は西は駅馬関に臨み、東は大同を叩き、奇を出して尽きることなく、敵を計って勝を制した。晋室の表裏なす山河、秦地の奥深い陸海も、新しい主の資とならずにおれようか。